第5回
受難の時代を生きる"フランスの"歌
ドロール・ドゥ・ボ・ガからレ・ゼスクロへ
いまここで、フランスのポピュラー音楽はどうなっているのだろう。「ポピュラー音楽から見るフランスのいま」(「ふらんす」2001年2月号)と題してその現状を総括した北中正和氏によると、特に80年代後半以降、フランスのポピュラー音楽における外国出身者の数は増える一方で、しかもアフリカ大陸やドムトム(海外県及び海外領土)出身者の活躍が目立つという。まったくその通りである。目立つどころか、フランスの外でも名前が通じるフランスのフランス人(フランス語では「土着のフランス人」という)アーチストを挙げようとすると、ほとんど誰もいない事実を認めざるをえない。これはいまに始まった話ではないのだが、ここ十数年で顕著なのは、北中氏も指摘するように旧植民地系のフランス人たちの活躍である。フランスの人口に占める移民第一世代及びその家族の割合は15パーセント、第三世代を含めると25パーセントにも達するといわれるが、実際の数にしてみると、土着のフランス人はたかだか3500万人前後で、これはポーランドの人口をやや下回る数字だ。このような状況では、"フランスの"ポピュラー音楽といってもどのポピュラーを対象にしたものなのか、いわずもがなというわけにはいかない。それどころか、ポピュラーなフランス人なんてもう存在しないのかもしれない。
いつのことだか
国際的な知名度のある"最後の"フランスのポピュラー音楽家は誰かといえば、それはセルジュ・ゲンズブールに決まっている。ちょっと詳しい人なら、レ・ネグレス・ヴェルト(Les Négresses Vertes)やMCソラーなどを挙げるかもしれない。そのゲンズブールが亡くなったのが1991年。まるでしめしあわせたかのように、レ・ネグレス・ヴェルトの傑作『Famille nombreuse』も、MCソラーのデビュー作『Qui sème le vent récolte le tempo 』も、やはり91年に発表されている。そうしてみれば、91年を境にして「シャンソン・フランセーズの終わり、そしてミクスチャー・ロックまたはフレンチ・ラップへ」という物語が成立するだろう。しかし、少なくとも僕にとっては、それ以降の年月が一つのまとまりとしては感じられないのだ。十年以上経ったいま、レ・ネグレス・ヴェルトやMCソラーの名前は、たかだか十年とは思えないほど古ぼけて聞こえる。しかも、どちらもまだ活動しているのに。本当の境目はおそらく91年ではない。
93年1月22日、レ・ネグレス・ヴェルトのカリスマ的リーダー、エルノが薬物の過剰摂取でこの世を去る。いかにもロックスターらしい、ゆえに時代がかって見える事件だった。そして翌年春に出たMCソラーのセカンド『Prose combat』は百万枚以上ともいわれる天文学的な売り上げを記録し、ソラー人気は最高潮に達するが、内容的には必ずしも前作以上とはいえないものだった。サンプリングを詰め込んでずっしり重くなったセカンドより、ハナウタ気分のファーストを好む人は少なくないと思う。そして、あれは秋から冬にかけてだったか、イギリスのブリストルからポーティスヘッドが『Dummy』で衝撃的なデビューを果たす。やはりブリストルから登場していたマッシヴ・アタックのセカンド『Protection』も素晴しく、各国のポピュラー音楽界は一気にトリップ・ホップへと流れたのだった。印象的だったのは、日本では96年に公開されたセドリック・クラピッシュ監督の『猫が行方不明』のエンディングに、ポーティスヘッドの「Glory box」(アルバムのラスト曲)が使われたこと。この演出には数多くの若者が目頭を熱くしたものだ。ジャングル? いやドラムンベースというらしいよ、なんて噂が流れたのもこの頃のこと。それ以降は、電子機器に頼らないポピュラー音楽など考えられなくなってゆく。
日本の女性誌「マリー・クレール」でフランスのポピュラー音楽の一大特集が組まれたのは、ちょうどその頃だったと思う。当時活気があったグループを数多く、ていねいに紹介し、カラー写真をふんだんに使った紙面構成は実に圧巻だった。その中から幾つかの作品を選んで聴いた後、個人的にはかなり真面目にフランスのポピュラー音楽に関わることになるのだが、その時知ったグループの一つにドロール・ドゥ・ボ・ガ(Drôles de beaux gars )があった。訳しにくい名前で、「いかした奴ら」くらいに落ち着くだろうか。ヴォーカル/ギター、ギター、ベース、ドラムの四人組で、実際にはもう四人がサポートするジャズバンド風の編成である。グループ名そのままのアルバムは93年に出ていて、それもフランス・ソニーからだから、いきなりのメジャーデビューだったというわけだ。ところが、それっきり音さたなし。そして十年。
いかした奴ら
ドロール・ドゥ・ボ・ガの音を一言で表わせば、それは「シャンソンとジャズ・マヌーシュの融合」となる。マヌーシュ(manouche)とは、「フランス北部、及びベルギーに居住する」ロマ(ジプシー)の部族のこと。第二次大戦前に大活躍したマヌーシュの天才ギタリスト、ジャンゴ・ラインハルト(フランスではレナールトと呼んでいるがここでは日本の慣例に従う)が築いたスタイルで、ジャンゴはヴァイオリニストのステファヌ・グラッペリ等と結成した「オットクラブ・ドゥ・フランス」五重奏団のスターとなり、その名声はジャズの本場アメリカにも鳴り響くほどだった。ピアノを交えず、基本的にはドラムも使わない、弦楽器のみの軽やかなアンサンブルを思い起こして頂きたい。あれがジャズ・マヌーシュである。ジャンゴは若くして亡くなってしまったが、彼のスタイルはマヌーシュのミュージシャンを中心に幅広く受け継がれ、いまもなおポピュラー音楽の一部に影響を与え続けている。それどころか、二十世紀のフランスが生んだ唯一オリジナルな音楽形式といっても過言ではないのだ。詳しくは、関口義人著『ロマ・素描 ジプシー・ミュージックの現場から』(東京書籍)をご覧ください。
小粋、軽妙、なぜか許される野暮ったさ……フランス文化にまつわるステレオタイプを本当に表現してしまう一種の歌ものジャズを、ドロール・ドゥ・ボ・ガはデビュー作にして完璧に演じきっている。若々しさと渋みが快く溶け合うヴォーカルと、ジャンゴだけでなくフラメンコの伝統も感じさせるギターと、堅実なというクリシェがよく似合うベースと、ざっくりしたスネアの緩み具合がたまらないドラムのカルテット。直線的なフォービートや筋肉質のグルーヴを追求するあまり、ジャズの命脈であるスイングを忘れてしまった現代のジャズにおいて、ここまで生き生きと揺れ動くジャズを僕は他に知らない。世界一のスイングだ。しかし、なにせ地味すぎた。アピールがなかった。93年といえば、アシッド・ジャズの余韻がまだ残っていて、かたや新伝承派以降のミュージシャンたちが高度なジャズを展開していた頃。多種多彩な時期だった。バンド系で見れば、いいグループではあるのだけど、特にずばぬけた感じもしない、デビューしたてなのに中堅どころに思われがちな存在だったと思う。やがて電気の時代がくる。その反動で"フォーキー"という自覚的に素朴なサウンドがぱっと広まったことがあったが、その波には乗れなかった、いやもう活動していなかったのだろう。
ボジョレ・ヌーヴォー
このように、ドロール・ドゥ・ボ・ガの音をジャズ・マヌーシュと関連させつつ、さらに現代のジャズと比較しつつその個性を証明したいわけではない。音楽の形態はジャズ風でも、ブルースが混じっていないサウンドはむしろ個性的な歌バンのものだ。しかし、フランス語の構造を十分に生かした作詞の凄さについては、多少なりとも説明が必要と思われる。まず、歌詞そのものが実に"フランス的"だ。フランス的といえば「男女の機微」。ドロール・ドゥ・ボ・ガの場合、あくまでも機微であって、派手な駆け引きや愛憎ではない。機微といっても、フランス映画によくあるような堂々巡りの心理戦ではなく、一定の距離を保って、ユーモアを忘れず、それでいて肝心なところはむしろ大胆なくらい率直に表わしながら、シャンソン・フランセーズにありがちな自己完結の虚しさとも無縁で、言葉はきちんと相手に向かっている。例を挙げよう。
 |
 |
|