第6回
ヨーロッパ現代音楽の現代性
ジョルジュ・アペルギスの作品を一例として
私は本当に、西洋は解体し、置き去りにされていると思います。西洋が世界の等価物になり、その結果もはや西洋化の運動がなくなったからです……もっとも、世界の西洋化と西洋の世界化があるのですが(ジャン=リュック・ナンシー)。
この言葉は、フランスの哲学者ジャン=リュック・ナンシーが、ある若手美学者から申し込まれたテクノを巡る対談の中で語ったものである。美学者が、テクノを現代芸術の最先端に位置づけようとし、現代フランス哲学の泰斗から確言をもらおうとして連発する質問の愚かさと、いちいち丁寧に答える哲学者の生真面目さが対照的なこの対談では、幸いなことに、賢人の、愚者に噛んで含めるように語る平易な言葉の中に、著作の中では難解だった事柄を理解する手がかりが数多く見つかる。上の言葉は、そのうちのひとつだ。ナンシーが指摘するように、西洋は、これ以上西洋化を展開することができなくなったために、終わりつつある、つまり、西洋の本質は西洋化にあると考えていい。西洋化とは、別の文脈では近代化と呼ばれるものであり、それを言い換えれば「進歩的価値観」ということになるだろう。十九世紀以降の二百年間に信じられた価値観が、しばらく前から完全な機能不全に陥っていることは誰の目にも明らかである。それは、一見したところ何か新しい展望を切り開くようでいて、実際には建設する以上に解体してしまう思想だったのだ。
最初は何のプランもなかったこの連載だが、それは書き進めていくうちに明らかになった。それをナンシーの表現にならって言い直せば、「世界化された西洋に鳴り響く、西洋化された世界の音楽を描くこと」である。いまや、死に体になりつつある世界化された西洋よりも、西洋化された世界のほうが「西洋的」である、そんな風に言ってみることも可能だろう。興味深い音楽が、あちこちで、続々と生まれている。それらに耳を傾け、その印象を記し、それについて考えを深める作業は、現場から遠く離れたところでは容易ではないが、それでも、いまやインターネットでリアルな演奏を聴くことも不可能ではない時代。外国語の知識さえあれば、そこで紹介記事やインタヴューなどもダウンロードできる。「グローバル化」によって、逆に活路を見出す「小さな音楽」を「マイナー」と呼ぶことは、もうない。混迷を深めているのは、音楽業界という「世界」であり、私たちの世界は、その法則に支配されることなく、今日も生き生きと活気づくのだ。
ところで、世界化された西洋にも、いまなお西洋化し続ける音楽がないわけではない。ベルナール・リュバットのように、ポスト・フリージャズ、つまり、あくまでも西洋音楽史の中でヨーロッパ固有のジャズを展開するミュージシャンや、一部現代音楽家の動向は、バブル経済崩壊以後の日本にはなかなか伝わらないわけだが、当然のことながら、彼らの創作活動は、日本の受容環境とは何の関係もない。優れた作品は数え上げればきりがなく、そしてそれ以上に、各種音楽祭の盛況がシーンの健全さを示している。とは言え、それらがわが国に紹介されにくいのは、単に経済的な理由からだけではない。第一に、そういった作品を理解するためには、相応の前提事項が必要となる。ぱっと聞いてわかるような傑作が多いとまでは言えず、したがって現地での人気も小規模なので、作品のどこが優れているのかを、手間ひまかけて解説しなければならないのだ。そのための場が圧倒的に不足している。第二に指摘できるのは、シーンの分散である。たとえばフランスでは、先鋭的なグループがパリ市内のジャズクラブに出演することは滅多になく、そのような音楽を求めるなら、郊外の文化センターや、地方の音楽祭まで足を運ばなければならない。情報の把握も、現地に住んでいてもかなりの通でないと難しい。そういった音楽を取材できる人材が、やはり不足している(結局は、経済的に説明しきれてしまうのだろうか)。
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