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港:『瞬間の山』は、光を選んで撮った作品がわりと多く、ご覧いただければわかるように真っ昼間のピーカンの空の下で撮った写真は意外と少ないんです。曇り空だったり、明け方だったり。夕暮れ時の写真がいちばん多いのは、それが山がいちばんきれいに見える時というか、斜めから光が当って山の起伏が目立ってくる時間帯だからなんですね。 今日は、翻訳家で古くからの友人でもある管啓次郎さんに来ていただいて、山の話だけでなく、ここ20年くらいの――僕が写真をやってきて、管さんは詩や翻訳と関わっているということで――イメージの世界と言葉の世界とのあいだの自由な対話を繰りひろげられたらと思っています。 管:港くんから話を切り出してもらいましたが、今日の主役はあくまで港くんなので、ぼくはむしろインタビュアーとして、彼の過去15、6年の活動を振りかえりながら、いろいろなお話を伺えたらと思っています。 今回の対談のタイトルとして「映像人類学」という言葉が出ていますが、この言葉には二通りの解釈がありそうです。もともと人類学には、映像を記録として使う人たちがいました。写真や映画、のちにはビデオによって資料を記録し、その資料から人類学的な考え方を組みたてていくという方法論が一つです。それに対して、港くんをはじめとする人たちが試みているのは、むしろ映像そのものが人類にとってどういう意味をもってきたのか、または現在の社会の構成に映像がどのように関わっているのか、そういうことを根源的に問いなおそうとする試みと言っていいと思います。つまり「映像の人類学」、「映像体験の人類学」ですね。さらにいえば、「映像を表現手段とする人類学」でもありうる。写真家であり、自分の足を使って世界中を駆けまわり文章を書きながら、映像の意味を手探りで考えつづけてきた港千尋は、後者の分野において、日本における第一人者の一人だといって、さしつかえないでしょう。 ぼくらのつきあいは、かれこれ18年くらいになります。当時、港くんはまだ学部学生で写真家ではなかったし、ぼくも大学を出たばかりで活字になった文章はほとんど書いていませんでした。それでも当時から芽生えていたことというのはたしかにあって、それが姿を変えながら、何度も何度も反復されながら、現在まで形をとりつづけ、それがぼくらの現在の活動に結びついてきていると思います。かといって、ここで過去を振りかえり、それを懐かしむというような態度をとるつもりは、まったくありません。Retrospectiveとは「後ろを振りかえる」という意味ですが、それが同時につねにprospective、つまり「前方を見とおすこと」に繋がるのだという精神で、話を進めていきたいと思います。まさに港くんが――例えば『予兆としての写真』というタイトルが雄弁に物語っているとおり――一つのテーマとしてきた、過去と未来の一種の奇妙な循環性というものを、みなさんとここで一緒に考えていくことができたらと思っています。 昨年(2000年)から今年(2001年)にかけて、港くんは本当に恐るべき収穫の年を迎えました。6冊の本を出しています。ざっとタイトルだけ、ご紹介しておきましょう。『自然 まだ見ぬ記憶へ』、『遠心力 冒険者たちのコスモロジー』、『予兆としての写真 映像原論』、『第三の眼 デジタル時代の想像力』、『洞窟へ 心とイメージのアルケオロジー』、そして今回発行された写真集『瞬間の山――形態創出と聖性』です。 港:全部覚えられないぐらい。 管:(笑)この6冊はもちろん過去からの蓄積があってのもので、いきなり芽を吹いて出てきたように見えても、実際にはそれまでに地下でさんざん根を張ってきたものが、なかば偶然のように、いちどきに地上に出てきたと考えるべきでしょう。それにしてもまったく驚くべき点数、そして内容の深さと広がりをもっています。 彼との出会いには大きなきっかけがありました。昔話から始めるのもばかばかしいのですが、ぼくらが共有している地平をはっきりさせるために、とりあえずはそこから話を始めさせてください。 ブエノスアイレスに移住し事業に大成功をおさめた日本人の実業家が、個人的にある奨学金を始めました。これは、20〜25歳までの日本人男子2名が、南米で1年間とにかく好きなことをなんでもやらせてもらえるという画期的なもので、第1回生が港くんともうひとり吉田郷という友人、第2回生が今日会場にも来てくれているフラメンコ演出家の佐野勝也くん、第3回ではぼくがそのとんでもない権利を獲得し、南米で1年間まったく自由に遊ばせてもらいました。 港くんと初めて会ったのは、彼がその1年間の南米旅行から帰国し、ぼくが南米へ出かけようとしていて、東京で交錯した時でした。そのとき、ぼくは彼から、南米の旅の仕方、心構え、そして旅の意味、旅が自分に何をもたらし得るのかといった、非常に多くのことを学んだ気がします。以前、南米旅行の経験に立って書いた『コロンブスの犬』というぼくの最初の本で「上手い旅人」と「下手な旅人」という対比を考えたことがありました。そのときぼくの頭の中にあった「上手い旅人」とは、実は彼、港千尋のことだったのです。本の中から、その記述を紹介させてください。 ――すべての旅行者は截然と二種類の旅行者に分類される。自分のおこなった旅について書く人と、書かない人だ。彼や彼女が、上手くてタフな旅人であるか、拙劣で脆弱な旅人であるかは、書かれた旅の物語がうつし出す映像とはまったく関係がない。 そう、たしかに〈上手い旅人〉と呼びたくなる人たちは、いる。かれらは誰もが旅立つのとおなじ地点から出発しながら(駅、港、空港、バス・ディーポ)、想像もつかなかった地帯へと、いつのまにか逸脱してゆく。決められた道路のすぐそばを歩いているのに、まったく違った風景を、あっさりと見つけだしてはにこにこしている。見られなかったものを見いだし、聞かれなかった話を聞きつけ、売ってもいないものを手に入れ、ゆきずりの人たちからも愛される。家に帰ればみんなが暖かく迎え、輝く眼で旅人のもちかえった話を聞くことを楽しみにしている。ときには彼は何も語らない。ただほがらかな顔をしながら日常生活に復帰し、よく働き、よく眠る。そしてある日、行き先も告げずに、またふといなくなる。よその星からやってきたこどものように、別の感覚にみちびかれてどこにでもゆく。そうした旅人は、まるであらゆる旅が終わりを告げたような現代にも、たしかに数少なく存在する。(『コロンブスの犬』8ページ)―― これがまさに、ぼくが最初に港くんと会ったときに受けた印象でした。それから1年間、ぼくは実際、ほとんど彼の足跡を辿るようにしてブラジルなど各地を旅行しましたけれど、おそらく彼が見てきたものの数分の一も、自分では目にすることができなかった。その差には一体どんな秘密があるのか? また、後になってある仕事で一緒にハワイに取材に行ったことがあるのですが、完全に同じルートを一緒に行動しているのだけれど、ぼくがまったく想像しなかったばかりか、「一体いつこんなものを撮ったんだ?」と驚くような写真を、彼は撮ってくるんです。これにも非常に驚かされました。本当に一瞬のあいだに、何かが彼を動かしてシャッターを押させている。それには同行しているわれわれすら気がつくことがない。それが非常に強烈な思い出として残っています。 さて、ぼくが一人でしゃべっていてもしょうがないので、これから港くんに質問をしていくかたちで、これまでの彼の活動を振りかえりつつ、同時にぼくからも発言させてもらおうと思います。 ●初めての南アメリカ 管:では、ここからはくだけていこうか(笑)。 港:簡単な質問にしてね。 管:まず80年代半ば、ぼくらが20代半ばごろの話だけれど、南米からきみが帰ってきたばかりのころに、大陸進化論という説を唱えていたのをすごくよく覚えているんだ。一体、あの「大陸進化論」って何だったんだろう。もっと広く考えるならば、南アメリカ大陸――特にブラジル、とぼくはいいたくなるのだけれど――というのは、港千尋にとってどんな意味をもっていたんだろうか。東アフリカに発生した現生人類が徒歩ではるばるユーラシア大陸を横断し、ベーリンジアを経てアメリカ大陸に入り、ついには南米最先端のパタゴニアにまで到達するという移住の歴史----その後、医師で探検家の関野吉晴氏が「グレート・ジャーニー」計画で遡行してみせた経路ですが----が念頭にあったことは確実だね。 港:大陸進化論? うーんあまり覚えてないなあ(笑)。 でも少し遡ってみましょう。写真家としてラッキーだったと思うのは、管くんが説明してくれたように、最初に南アメリカに行って、その後でヨーロッパへというルートをとることができたことですね。 例えば、藤原新也さんの世代には、たくさんの人がヨーロッパに行ったり、アジアに行ったり、それからニューヨークに行ったりしました。写真家が目指す外国の都市というと、だいたいニューヨークかパリということになると思うのだけれども、藤原さんはそこへ行かず、その間にある、例えば東洋街道を旅していたんですが、いずれにしても北半球にある日本から北半球にあるヨーロッパやニューヨークやアジアへ行くということでした。基本的には東西の移動ですね。 僕の場合は、最初に南に下りたわけです。それも、写真を撮りに行ったわけではなく、たまたま奨学金をもらって南アメリカへ行った。あくまで、たまたまなんです。だから「たまたま」からはじまったのですが、当時、南アメリカに関するガイドブックは日本ではほとんどありませんでした。もちろん「ウルルン滞在記……」みたいな旅行記番組もなかった。情報があったとしてもそれを買って読むつもりもなかったけれど、とにかく白紙の状態で行ったわけですね。行ってみたら戦争が起きた。マルビナス戦争。英語ではフォークランド戦争ですね。日本でニュースを見ても、フォークランドがどこなのかすらわからない状態で、この戦争が勃発した週に、僕は日本から南アメリカに出発したんです。 行ってみると、この戦争は南米大陸を根底から揺るがす大事件だった。アルゼンチンの南、大西洋に浮かぶフォークランド諸島というのがあるんですが、この英領フォークランド諸島をアルゼンチンが突然、不法占拠した。その時点で南米の人たちは「まあ、見逃してくれるだろう」くらいに思ってたらしい。あんなに遠くの、北半球の端っこにあるイギリスが、羊と羊飼いくらいしか住んでいないような小さな島を取り返しには来るまいと思っていたんだね。かりに戦争が起きても、南米の国はアルゼンチンを支援してくれるだろうし、当時レーガン米大統領が率いていた合衆国もアルゼンチンを支援してくれると高を括っていた。ところが大英帝国艦隊が大西洋を北から南までわざわざ下ってきて、ミサイルの打ち合いが始まり、最終的にはアルゼンチンは負けるわけです。 そういった戦争の経緯とその後を各国で目の当たりにしていました。どこの国に行っても新聞の1面は紛争についての記事が占めていたし、国によってはインフレが何百%くらいにまで達して、朝刊と夕刊の値段が違ってしまうくらいお金の価値が揺らいでしまった。一言で言えば、日本で過ごしていた日常がまったく通用しない世界に入りこんでしまったわけです。言ってみれば……今そこにある超現実、という感じ。それが僕にとっての82年の南米での経験です。 その混乱を背景にしてブラジルでは最初の民主的な選挙が翌年行なわれたし、軍政が崩壊するし、まさに政治的にも経済的にも南米が根底から変わってしまった。そういう意味での大陸進化論を考えていたんでしょう。つまり偶然と突然変異による南米大陸の現実が、世界観を根底から変えてしまったのです。 管:ぼくが南米に行った84年にちょうど、ブラジルが軍政から民政に移管されました。サンパウロの中心にあるプラサ・ダ・セ、セ広場というところで100万人規模の集会があったんですが、教会前の広大な広場にまさに立錐の余地なく人が集まって、その人たちがみな大統領選の直接選挙を求める「ジレイタス・ジャ!」という掛け声を上げていたのを、よく覚えています。 今のお話はよくわかったのですが、一方で、ぼくがブラジルの北東部に行ったときには、17世紀ぐらいのものが未だに残されていて、それが圧倒的な露出を見せていたのが印象的でした。例えば食べ物にしても、冷蔵庫がないので、塩漬けの強烈な匂いのする肉や魚や鶏を食べている。それはまさに17世紀ごろからずっと食べられてきたもの。あるいはミナ・ジェライスという内陸の州に、オウロ・プレート(黒い黄金)という今では世界遺産にも指定されている非常に美しい町がありますが、その町の石畳には、まさに18世紀がそのまま何一つ姿を変えずに残っています。歴史そのものが、いくつもの層で露出している風景を、初めて見たという気がしました。 港:つまり……ダーウィンが南米大陸で発見したような生物たちのようには、人間社会は進化してないんだよね。以前のものになにか別のものに覆われるようにして変わっていく――必ずしも良くなるわけじゃないけれども――、ということが進化ならば、南米の場合はそうではなくて、前あったものがそのままのかたちで残っている。石畳の下に砂浜が広がっているのではなく、砂浜と石畳がパッチワーク状にずっと続いているという感じで、これはリオデジャネイロのビーチのイメージですね。 16〜17世紀のヨーロッパを南米で経験したというのは、後々になってヨーロッパに行ってから、すごくよいことだったとわかった。 管:ぼくも南米に行った2、3年後に初めてヨーロッパに行って、夕方のリスボンのテージョ河のほとりに立ったときの、あのこみ上げてくるような悲しさみたいな気持ちは本当に忘れられません。まさにこの地から人々が出発して、南米のあれだけ広大な大陸を征服し、ヨーロッパ文化一色に塗り尽くしてしまったという、とてつもない歴史の力を感じ、青ざめたような気がします。
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