![]() 1 2 3 4 5 JUNKU連続トークセッション 2001年12月8日(土曜日) 16:00〜17:30 場所:池袋ジュンク堂 ●何故、山をテーマにしたのか 管:さて、それでは、今回の写真集について話したいと思います。 写真を見ていてぼくがときどき強く感じるのは、例えば水を写した写真において、その水が液体であること、流れていることを止めて、固体の鉱物的な存在に変わっているという感じを受けることがあるんです。それに対して、例えば山の地層が剥き出しになったようなところを見ると、これは逆に山というものが決して未来永劫続く昔からそこにありこれからもいつまでもあるものではなく、山もまた常に姿を変えている流動する一種の液体のような存在なんじゃないか、と思うことがある。それは自分がその場に佇むよりもおそらく写真を通じて、より鮮明になってくる感覚だという気がします。時間の尺度の混乱といえばいいのでしょうか。今回の写真集でも、いわば動く存在としての山が写しとられているような気がするのです。そこでまず、『瞬間の山』で、なぜ山がテーマになったのかというところから、うかがいたいと思います。 港:僕は生まれは海辺で、名前が示しているとおり、家系も海辺の家系です。いとこには船乗りが何人もいるし、生まれたのも藤沢、湘南海岸。もともと海の記憶が強いのだけれども、もう一方で湘南は鎌倉にも近く、子どものころから鎌倉八幡宮の裏にあった家に何度も行ったことがあって、特に夏はそこで過ごした記憶があるんです。鎌倉のヤトとかヤツと呼ばれている、複雑に入り組んだ山の記憶というのが強く残っていて、あそこには遂道つまりトンネルがいくつもあって、そのトンネルの奥にいくつか家があるというのはあまり知られていないかもしれないけれど、鎌倉の面白いところは、ヤトに囲まれているのでトンネルを通じてしか行き交えないような家がたくさんある。画家がアトリエをもっているような家も多い。どこに通じているのかわからない暗いトンネルがあって、その奥に裸電球がポツっと点いていたりするのね。怖くて誰も近づかなかったりするのだけれど、そこを抜けるとちょっとした丸い空地があって、家が何軒か立っている。そういう(複雑な)地図は書けないし、地図を見ても鎌倉の町は歩けないと思う。 だいぶ後になって、この写真集ができるきっかけになったある雑誌のために写真を選んでいるときに、川端康成の「山の音」を読んだ。読んでみて、本当にヘンな小説だな、と思って。主人公の耳に、「山の音」という山鳴りが聞こえるところなのだけれども、それが「魔が通ったようだ」というような表現をしている。当時の鎌倉はもちろん山奥の町ではなかった。東京からもさほど遠くないし、まあ都市と言っていい。でもその都市のなかに「魔が通るよう」な山があると、川端康成は何度も何度も書いている。そこにはいろいろな動物が出てくるとも書いている。僕はそれまでに世界中のいくつかの山に登ってきて、この写真集のなかで言えば、例えばオーストラリアやアルプスという、世界的に有名な山々にいくつか登って写真を撮ってきたのだけれども、川端康成のその小説を読むまではどういうふうにまとめていいのかわからなかった。世界百名山とか日本百名山とか、ああいった写真というのは全然僕の趣味じゃない。キレイな写真だとは思うけれども、それをああいうふうにナイスなイメージにまとめるのはどうもね。今まではスナップショットで人間の生っぽい現実を撮ってきたから、どういうふうにしたらいいのかわからなかった。でも、この小説を読んで、あっ、これは自分に繋がるな、と思ったんです。 どこか遠くに孤高に聳えているのだけが山ではなく、鎌倉のような都会にある身近な山、あるいは公園のなかにあるちょっとした築山、これがすべて、人間にとっては同じ山なんだ、という。そのときの、雑誌の特集タイトルは「ひとつの山はすべての山」で、今回の写真集も当初は同じようなタイトルを考えていたんです。つまり、世界中にあるすべての山は、実は人間にとってのひとつの山なのだ、という。言葉を換えると人間にとっての「経験としての山」ということですね。ヒマラヤもあるし富士山もあるし、いろいろな山があるけれども、その背後に聳える連続体としての意識のなかの山みたいなものがある、と。そうでなければ、川端康成だってあんなヘンな小説を書かなかったんじゃないかと思う。 そういう意味では、僕にとっての山というのはアルピニストにとっての山ではなく、記憶のなかに聳えている山、あるいは人間の意識が生まれる場所としての山――「聖性」という言葉が副題に使われていますけれども、人間がある物質を目の前にしたときにその物質以上のものを感じる、これが聖性の始まりだと思うんです。山は根源的な場所なんですね、多分。 ●morophogenesis――形態はどのように生まれ出るか 管:たしかに、山というのは何かが――「造山運動」という言葉がありますけれども――せり上がってくるような感じがしますよね。とてつもない植物、とでもいうか。そのせり上がっているところに、人間の尺度ではとても見通すことができない、どうにも測り知れないことが起きている。その規模は大きかろうが小さかろうが、本当は意味がないのかもしれません。 写真集を見ていただければわかることなんですが、まさにその大きな山と小さな山が、いくつもの形で並列されています。すなわち、スケール感を渡り歩くということ、これもまた一つ、港くんの特徴だと思います。いくつもの時間を渡り歩くということと、スケール感を渡り歩くことが、常にある。この写真集では「形態創出」という言葉を使っています。これは生物学でいうmorphogenesisという概念からきたものだと思いますが、ある物が形をとって紙の上に現われてくるという写真の本質、根源にあるものを、捉え直そうとしているということが、非常によく伝わってきます。この言葉を使った理由について、話してもらえますか。 港:形態についての写真集であることは見ていただければわかると思うんです。いろいろな形が出てきます。信じられないほどに切り立った針のような山が出てくる一方、苔で覆われた柔らか〜い形も出てくる。まず、形態のつながりがある写真集だということはおわかりいただけると思います。なかには人間の頭蓋骨も出てきて、その頭蓋骨と洞窟がまったく同じような形として出てくる。形態と形態のあいだの類似とか相違とか、まずはそういったものを中心に編まれているんです。
ただ、自分で選んでいくうちに――これはいろいろなところで何度も僕が書いてきたことですが、写真というのは選択にすごく時間がかかるわけです。もっと時間がかかるのは整理で、これは一生を無駄にしなければならないほどの大仕事で、考えるだけでも暗くなってくるので考えるのは止めますが(笑)。いや、本当に大変なんです。雑誌や新聞に原稿を書いて送って、写真と一緒に返ってくるんですけど、それを元に戻すのがもう大変。そのために人一人雇わなければいけないくらい。今は全部自分でやってるんですが。 そう、とにかく、選択に時間がかかる。どういうふうに作業するかというと、まず、プリントを8×10にいったん全部起こして部屋に全部並べる。だいたい200枚くらい並べて足の踏み場もなくなるのだけども、それを全部、上から歩きながら見ていく。これが大事です。手にとって見ていてはわからないことがたくさんある。どの写真家にも言えることだと思うのですが、例えば展覧会をやろうとすると、作品をまずバーっと広いところに並べて、そのあいだを歩きながら作品を見ていく。この歩きながら見て選ぶという作業はどうしても必要ですね。何故かわからないけど。 そのうちに気づいたんですが、ただ作品を並べるだけでは世界各地の山を紹介するだけになるけれど、形態の比較ではなく、ある形態がどのように出てくるか――genesisというのは生まれ出るということですけれども――、ある形態が生まれ出るかというところを見ていかないと、自分がやろうとしていることが伝わらないだろう、ということに、作品を見ているうちに気づいた。そしていろいろ考えて、やはりゲーテのmorphology――彼は山ではなくて植物の形にある形態が生まれる、その背後にはある形態が生まれるときの文法みたいなものがあるんじゃないかと考え、研究したわけですが――という言葉が引っかかってきた。それでmorophogenesisという言葉に行き着いたわけです。 管:形が現われてくるという、現象、運動、あるいは作用が、写真というものの根本にあるものですよね。目に見えなかったある像がボワーっと、なんだか奇妙な、ときには不気味な形で、現像液の海から現われてくる。そのレヴェレーションのプロセスには原始生命の誕生のような、あるいは幽霊が出現するような、人間にとってつかみきれない何かが出てくるという状況に、匹敵するものがあると思います。
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