港千尋×管啓次郎 対談

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JUNKU連続トークセッション
2001年12月8日(土曜日) 16:00〜17:30
場所:池袋ジュンク堂


●聖性――裂け目のなかから像が姿を現す

管:ここでまた、山と非常に関係のある「聖性」(ル・サクレ)という言葉が出てきます。日本では岡本太郎が唯一その空気をリアルタイムで体験した、ジョルジュ・バタイユ、ミシェル・レリス、ロジェ・カイヨワといった人たちの社会学研究会(コレージュ・ド・ソシオロジー)というものが、1930年代のパリにありました。シュルレアリスムの分派ですね。ぼくはかれらの精神を受け継ぐつもりで活動を続けてきたので非常によくわかるのですが、ここであえてまた「聖性」という言葉をタイトルに選んだ理由を、聞かせてください。

港:本のなかには、いくつか聖地が出てきます。バリ島や、写真集の真ん中に出てくる沖縄――沖縄はこの本のなかでは蝶番のような役割をしているのだけれども――、そういう場所がどうして聖性を帯びるのかということ、そして、ある場所が聖性を帯びるということと、写真の出来方というのは同じプロセスを辿っているように思ったんです。
Kabira, Ishigaki, 2000


 暗室で作業をしたことのある人は誰でも経験していると思うけれども、モノクロのプリントをする場合、その過程は暗室の電球の下で見えるわけです。これをレヴェレイションと言うのは、まさしく像が現われる、「現像」という作業だからですね。露光したプリントを水のなかに入れる、これは大事なことだと思うんですが、ある像が水を潜る。10秒ぐらいすると、真っ白だった印画紙に形態が現われる。でも、このときの形態は今みているような写真じゃない。どういうことかというと、いちばん濃度の高いところから像が現われ、濃度の薄いところはいちばん最後に現われる。すると、例えば現像時間が2分かかるとすると、その2分のあいだに刻一刻、本当に刻一刻、像が形態を変えていくんです。2分経ったところでパーフェクトなプリントができあがるのが理想なんですが――例えばモノクロだったら、2分経ったときに、黒のいちばん濃いところ、最大濃度が実現されるのが理想的なんですが――、そのあいだ、撹拌しなければならない。現像液が疲労すると現像ムラというのができるからですね。それを防ぐために、プリントを少しだけ揺らしてやる。するとプリントが均一になる。ここがすごく面白い。

 こんな作業をするうちに像が現われてくることが、もっと広い文化的現象として見えてくる。宗教、あるいは宗教という形態をとらない場合もあるので信仰と言ったほうがいいのかもしれないけれど、その信仰においてイメージがもっている役割というのとすごく似ているように思えるんです。イメージはあるところで手にとって、揺らしたり、お祭りのときのように担ぎ上げたりしますね。ひとことで言えば、イメージを運動させる。あらゆる聖地はそういう運動によって聖地になっているんです。

 過去においてたしかに、100万年、200万年という時間のあいだに造山運動があったかもしれないけれども、それとはまったく違った意味で、人間の運動の中心なんです。そこでは常にものが振動しているし、例えばバリのお祭りでも、モノや空気がものすごく震動して、音楽や舞踏やあらゆる活動によって、その場が震動していくんですね。そして、震動するあいだに聖なるイメージが現われる。そのイメージは、それぞれの宗教とか、信仰によって違ってくるのだろうけれども、イメージが現われるプロセスについてはかなり共通しているんじゃないかと思うわけ。

管:あるものを躍らせてやることによって、イメージがうわっと出てくる、ということかな。

港:それは1年のなかでもいちばん重要な時で、例えばある所ではそのときには女/子どもは絶対にその場に立ち会えないとか、ちょっと危険で、まさしくクリティカルな瞬間でもあるわけです。聖なるものであると同時に、ものすごく暴力的な時間でもある。時間に裂け目ができて、その裂け目のなかから像が姿を現すわけだから。重要なのは世界に裂け目を作ることだし、その裂け目を揺らしてやることによって新しいイメージを湧かせることで、その点において、写真の営みと聖性の発動はほとんどひとつのものじゃないかと思うんですけどね。

管:今の話の中で、像が刻々と姿を変えていくという点が非常に面白いと思いました。これも以前港くんから教えてもらったことなんですが、例えば60分の1のシャッタースピードで写真を撮った場合、60枚のプリントを並べても1秒間という時間の表象にしかならない。同時に、写真は一つの静止画像のように見えながら、そこには本当の意味での、切断面としての一瞬というのはない。必ずある種の時間の幅があり、すでにそこには運動が写し取られている、ということが言えると思うのですが。

港:その通りでしょうね。スナップショットという方法はそういう認識が生まれて、初めて確立したものです。19世紀には、スナップショットがたまたま撮れていたとしても、それがスナップショットと認識されることはなかった。時間の切断面が明らかになるにはやはり、ヨーロッパに大きな戦争が起きる必要があった、というかそのことを無視できないでしょう。スナップショットの形式が確立するのは第一次大戦と第二次大戦のあいだです。つまり、すごく大きな戦争、戦争によって現われた時間の大きな切断が必要だったわけです。一方では小型カメラの開発とフィルム感度の飛躍的な向上――これがなければ、露出時間を短くできないので――という技術的な側面もあるけれども、時間の切断面に向きあったというのが本質的な要因でしょう。

●写真は動画である

管:港くんの写真の基本的な手法はスナップショットです。そしてその一つの特権的な主題、彼が一貫して撮ってきた対象に「群衆」があります。みなさんにコピーで見ていただいているのは『予兆としての写真』という本の中からぼくが選んだ作品なんですが、これも一種の典型的な群集の写真ですね。
Paris, 1998


港:パリの高校生のデモ、これはモンパルナス通りです。こういう記憶だけはいい(笑)。

管:ブラジルの北東部にあるレシーフェという町の市場を撮った初期の彼の写真があって、これはぼくがいちばん最初に強烈なインパクトを受けた彼の作品だったんですが、その写真にも、群集とその中に現われてくる顔という、彼が一貫して追い続けている主題が見てとれる気がするのです。ロンドンの地下鉄を舞台にしたエズラ・パウンドの短詩に見られたとおり、顔の出現というのもおかしな、無気味なものです。人間という動物にはどうも、顔を見てしまう癖がありますよね。現実に生物を相手にするときもそうだし、それ以外の場所でも顔を発見する。みなさんも子どものころに経験したことがあると思うのですが、天井の木目や壁のシミが人間の顔に見えてしかたがない、気持ちが悪くてしかたがない、というようなことがあります。これは実は人間に限った話じゃなくて、例えば蛾が鳥を驚かせるためにある種の模様を作り出して自分を保護している。その場合には鳥が、それを顔に見せたいという蛾の意図(としか考えられない選択)にはまって、それを顔として認識し、蛾を食べることを止めてしまう。何かを顔として見てしまうという傾向は、生物の進化において生まれてきたものだと思うんです。これとはまたちょっと意味が違うのですが、今みなさんに見ていただいている写真の中でも、ふと注目している、注意を引かれる顔というのは、一人一人で違うと思うんです。ある人は右端の小さな男の顔を、またある人は前景を横切っている女の顔をまず見る、という風に。それはどうも、人間にコントロールしうることではなく、自分自身ですら知らないうちにどれかを選択的に見てしまうということがあると思うんです。

 顔の話はいろいろな展開の仕方があるのですが、われわれは現実には人の顔を、顔そのものとしては、多分知らないと思う。つまり、われわれは人の顔を常に動きの中で見ている。動きの中で刻々と変わる、表情として見ている。その表情として見ていたものが固定化された顔としてその人の身分証明に結びつく形で現われてくるには、やはり写真の発明を待つ必要があったのではないかと、ぼくは考えています。

 そこで、群集と顔というテーマでお話を伺えますか。

港:顔とマスクというのがありますけれど、僕らが「顔」という言葉でなにを指しているのかというのはちょっと面白いと思ってるんです。例えば顔をマスクとして考えている場合が非常に多いと思う。身分証明書の写真の顔というのは「マスク」だと思うんです。身分証明書の写真というのはよく当てにならないと言いますよね。例えば犯罪捜査でも、逮捕してみたらまったく違う顔をしていた、というような。今日オマルさんが拘束されたというニュースがありましたが、オマルさんの写真というのはなくて、さっき僕が見た新聞では絵のような画像だったけれども……、自分の顔を見せない人というのは有名人のなかにも何人かいますが、ああいうのが僕はすごく面白いなと思っていて。本人を捕まえてみると全然違うという、こういうことが何故起こるのかというところに写真の面白さがあると思ってるんです。

 写真に写っているのは全部マスクです。例えばこのデモの写真で、この瞬間に撮ったものと、ここから数メートル歩いた先で撮るものとではまったく違う顔になる。顔だけ切り取ってしまえば、その二つの顔は同定できない、結び付かないものになると思う。顔の本質は恐らく非マスク的なもので、形として捉えられない、常に流動しているもの。そのときにしか現われないもの。僕にとって顔というのは、存在ではなく聖性に近いものですね。で、その聖性が見たくて写真を撮っているという、これはちょっと矛盾しているんだけど。

 このデモの写真で言うと、真ん中に一人だけ横を向いている人がいます。歩いているのでちょっと輪郭が甘いですが、この前後のコマにはこの人は写っていなくて、シャッターを押した瞬間にパッと歩道から下りてきてデモの前を通ったのが写ってる。僕はこの顔を何度も何度も見てしまうんです。ちょっと微笑んでいるようにも見えるし、ぼんやりしているけれども、この顔はこのときにしかなかったんだと思う。今、努力して思い出そうとすると、右に三角帽子を被ったヘンなトレーナーみたいなのを着てる人がいますが、この子は見えてた。さらにその斜め右にいるちょっと大柄な目をつぶってる女の人も見えていた。この二人だけ見えていて、他はほとんど見えてなかった。群集を撮るということはそういうことで、全部見えているわけは絶対にない。見えていないけれども、撮ってみるとやっぱり見事に写っていて、そして、細部が出てくる。それが「予兆」という意味です。撮ったあとに細部がどんどんどんどん出てくる。未来から。見るたびに出てくる。写真は静止画という言い方もできるけれども、僕は写真は静止画じゃないと思う。写真は動いている。写真は動画なんですよ、実は。