![]() 1 2 3 4 5 JUNKU連続トークセッション 2001年12月8日(土曜日) 16:00〜17:30 場所:池袋ジュンク堂 ●撮影は思考よりも速い 管:人間の記憶に関して「エピソード記憶」と「作業記憶」という区別があることは、よく知られています。前者はある事件や情景その他を物語化して覚えているという意味でしょう。意識の表象です。後者は、例えば自転車に乗るということを取り上げれば、身体で覚えているために、いったん習得してしまえば意識の介在なしに、いつでも自転車に乗れる。脳のなんらかの損傷で失語症などに陥った場合でも、作業記憶だけは残っている。このエピソード記憶と作業記憶で考えていくと、写真家が写真を撮っているときにはその二つの記憶が非常に独特な形で結びついていると思うんです。「エピソード記憶」が支配する物語性だけが先行しては決して撮れるものではなく、そこには必ず偶然が関与してくる。写真家は、自分が撮ったもののフレーム内のオブジェを、ぜんぶ把握しているわけではない。それは後から、見れば見るほど発見がある。そういう偶然というか身体的反応に任せる部分がある以上、エピソード記憶だけに頼ってはいられない。作業記憶という観点から言えば、とてつもない数をスナップショットで撮るわけですから、あるとき、まったく自分の思考が関与せずに反射的にパッとシャッターを押してしまうという場合があると思う。実際にスナップショットを撮影しているときの心の動き方とは、どういうものなんでしょう。 港:どうなんだろう……、思考より速いということは言えると思います。だからサルの毛繕いなんだな。サルは考えながら毛繕いしてるわけじゃないと思う。考えてたら、あんなに細かい毛を1本1本丁寧にしごいたりできないと思う。だからまず、撮影は思考よりも速い。もうひとつ、特にスナップショットでは撮影は全身的な運動だね。目と頭と心と言ったけど、身体全体と言ったほうがいいかもしれない。身体全体のひとつの運動体であって、分節しているわけじゃない。身体のどこかが独立してやっていることではなく、ひとつの運動体としてシャッターを押している。そうでなければまずあり得ないような認識だと思うんです。これはスポーツ写真家ならばよく知っていることだけれども、本当に瞬間を捉えようとすると500分の1みたいな、非日常的な時間の単位が出てくる。500分の1っていうのでも大変な短さで、僕のカメラは8000分の1という機能が搭載されているけれども、これは有名なミルクの王冠みたいなのが撮れる性能です。僕だけではなく、写真家は誰でもそういった瞬間を捉えているわけです。これでは思考しているわけがない。思考して、感覚器官である目から入った情報を処理して、というような論理的なアルゴリズムが書けるような動きでは全然ない。もっと全体的で運動的なものです。 以前「流鏑馬カメラ」というヘンな原稿を書いたことがあって、これは真面目に書いたのにボツになった原稿なんだけど、子どものころ、鎌倉で流鏑馬を何度も見たことがあって、あれは凄いよ。アルゼンチンにあれと似たものがあるんです。結婚指輪ぐらいの大きさのリングが木からぶら下げてあって、ガウチョが疾駆する馬の上からストローみたいな棒でそのリングを取るという。馬が疾走する時速の速さと的の小ささを考えると、ほとんど考えられないような神業です。これも写真とまったく同じで、分節的な思考で成り立っているものではない。運動体として、そこに行き着く前に、時間と空間をすべて把握していないと、的が見えた瞬間に棒を動かしたり、矢を放ったりという行動を起こしていては絶対に間に合わない。流鏑馬で言えば、矢は的が見えるまえに放っている。 自分ではやらないんだけれども弓道が好きでね。先日も沖縄に行ったときに弓道の大会に行ったの。会場に連れて行ってくれたのが高校生で全国大会の大人の部で優勝するようなすごい奴なんだけど、彼と話してて面白かったのが、「的見てんの?」って訊いたら「見てるわけないでしょ」って言うの。「じゃあ、どうして当るの?」って訊くと「リズムです」と。身体が覚えている、と。それで、当るときは放った瞬間に100%わかるって。逆に、外れるときも100%わかるらしいけど。写真ってそういうものですね。 ●音がなければイメージは創出しない 管:写真のことを考えていくと、どうしても「時間」という問題が関わってくると思います。時間との関係が写真のいちばん根本にあるんじゃないかな。ところでもう一つ、時間と根源的に関わっているものに「音楽」がありますよね。そこで、こういう問いを出してみたいと思います。 歌の始まりについて、考えたことがあるかな。人類にとって歌の始まりはなんだったか。ぼくはあるときこのことについて考えてみました。結論だけいうと、歌はやはり熱帯雨林で始まったと思うのです。熱帯雨林の見通しの利かないところで、ガサガサッと動くと、相手の攻撃をいつどういう形で誘発してしまうかわからない。それを避けるためには少なくとも、相手にむかって自分が同じ種に属する動物だということを伝えなければならない。だから声を出す。しかもその声には「こちらは攻撃するつもりはない」というメッセージを込めなきゃならない。それにはどうするかと言うと、そこに一種の遊びがなければいけないと思うんです。で、声の高低やメロディを作り出すということに繋がったんじゃないか、と推察したのです。いま私は遊びとして声を出している、これを遊びとして受けとめてくれ、ということですね。この意味での歌は、ジャングルないしは夕闇の山道のような、視界の遮られた環境で生まれたに違いないと、ぼくは確信しています。歌をおいても、音楽の始まりにはいろいろな説があると思いますが、楽器について言えば、人間の大腿骨を使った笛なんかは、死者の骨髄を吸って食べているうちに、空っぽになってしまったものに空気が通りたまたま音が鳴って、そこから楽器が始まったというような話があります。仮説以上になりえないとしても、こうしてさまざまな楽器の始まりを考えてみるのも面白いんじゃないでしょうか。 そこで写真に話を戻しましょう。写真は無音です。この点が、われわれの写真に対する態度を決める、ある重要な要因になっているんじゃないかと思うんです。写真を実際に撮っている場とは、自分の五感をすべて動員した全身的な感覚の場であり、それが360度、全方位に広がっているのに対し、撮影においてはその中から自分の感覚のうちビジュアルな部分を突出させて、ほんの小さなフレームの中に切り取ってしまう。その作業を通じて、何よりもまず、音が最初に失われます。音は時間の経過がなければ絶対に体験できないものですから。 映画はまた別のものです。映画もヒトにとって映画以外では絶対にありえない体験を作り出している不思議なジャンルだと思いますが、そこには音楽が非常に大きく関わっている。これに対して、写真と音楽の関係を、どう考えればいいのか。元ミュージシャンだった港くんにちょっと聞いてみたいと思うのですが。というのも彼には、サンパウロ時代にはナイトクラブでピアノの弾き語りをしていたという伝説があり、もともとは写真家よりも音楽寄りの人でしたし、いちばん下の弟さんの港大尋さんは、現に非常に前衛的なミュージシャンとして活躍しているし。 港:まぁ、ナイトクラブの話はおいといて(笑)、ピアノ弾きとしてブラジルのミュージシャンと流しをやったのは、今もいい思い出です。あの経験でブラジルの理解が進んだ。すごい人たちだと思ったよ。ブラジルの音楽について話すと時間がなくなっちゃうので、今の話を聞いてて思ったことを。 確かに写真には音はないです。音はしないんですけど、じゃあ音が聞こえない人にも写真が撮れるかと言うと、必ずしもそうじゃないんです。撮れることは撮れるのだけれど、違うものになるんです。これについてはひとつ僕が好きなエピソードを話しましょう。デヴィッド・ホックニーという画家がいますね、彼がジョイナー・フォトグラフィというのを80年代の初めにやったんです。ひとつのシークエンスを35mmのカメラで70枚くらい撮って、例えば今なら、コーヒーカップのディテールも撮るし、人物も撮るし、それで全体をモザイクのように再構成してフレスコ画みたいにして見せる。そのジョイナー・フォトグラフィが生まれたときの話をホックニーがしていたなかで、彼が難聴になったという話があった。耳が聞こえなくなってしまうと空間をうまく捉えられなくなる、空間を全体としてパッと把握できなくなる、と言うんです。僕は、目というのは分節的な器官だと思うのですが、例えば、ある場所にいて、僕は自分が知っている人の顔だけを見ることができる。そこだけを切り取ってずうっと見つめることもできる。気が変われば手元を見つめることもできる。つまり知覚は分析できるんです。聴覚は必ずしもそうではない――なかには分節的な人がいるのかもしれないけど――、聴覚は、空間にどのくらいの奥行きがあるかとか、そこにどれくらいの密度があるかとか、まずは空間全体を捉える器官でしょう。ホックニーはそういうことが一瞬できなくなった。彼の画家としての作風は空間全体、例えば風景を描くものでしたけど、その耳が聞こえなかった時期というのはそうではない作品が写真によって生まれたわけです。 そういうわけで、写真は、結果として出てきたものに音はないけれども、今日の話題にずっと上っている生成してくる段階、湧出、創出してくる、genesisしてくるときのイメージには確実に音が関わっている。音がなければイメージは創出しないということも言えるかもしれない。 管:無音のなかにもある種のリズムが生まれて、時間性が刻まれるということはあるような気がします。 ●地図も時計もない旅 管:さて、時間もなくなってきました。それではこの辺で、会場からの質問に答えていただこうと思います。 質問者:港さんは、旅行をするとき、地図を使いますか。 港:面白い質問ですね。冒頭に出てきた「大陸進化論」という話のところでちょっと頭に浮んだことでもあるんですが、南米を旅行したとき、僕は地図を持っていなかったんです。日本でいい地図が売っていなかったということもあるのだけど――フロリダでラテンアメリカンハンドブックっていう本といっしょに地図ももらったんだけど、すぐ捨てちゃったんだよね、なんか。細かすぎてわからないし。南米の地図はすべて本当にいい加減で、役に立たないんだよね。1年間かけて、アマゾンからマゼラン海峡まで大陸をほぼくまなく旅したけれど、地図は一度も持たなかったし必要なかった。僕は旅に地図は必要ないと思う。地図が必要なのは戦争ですよ。それが地図を持たなかった理由のひとつ。もうひとつの理由は、自分のなかで地図ができてくる。それが面白いんだね。旅のあいだ、どこでなにを撮ったかを記録するためにちょっとした日記をつけていたんだけど、そうやってできてくる地図は売ってる地図とは似ても似つかないもので、ディテールだけが妙に拡大されていたり、輪郭がなかったり。そういう地図がどんどんたまってく。それから、これは付け足しだけど……今は止めてタバコ吸ってないけど、南米ではずいぶんヘヴィスモーカーだったんだ。当時売ってたタバコでいちばん安いのがコンチネンタルっていうやつ。知ってるかもしれないけど、南米大陸のイメージが大きく描かれている薄緑色のパッケージで、それが地図代わりになってた(笑)。金がなかったから移動はほとんど夜行バスだったんだけど、夜行バスに乗るときに、ここからどの辺りまで行けるんだって人に訊くときにこのパッケージに書いて教えてもらってた。目的地に着いちゃうといらなくなるから捨てちゃってたんだけど……取っとけばよかったな、あれ。まあ、そんなもんですね。 僕の場合は目的地のない旅が多いから、このあいだも1週間、沖縄に行ったけど、地図必要なかったしね。 管:ぼくはタバコのパッケージでは、旅行はできないな。その辺で、上手い旅人と下手な旅人の違いが、明らかに出てくるのかな。 質問者:時計は持ち歩きますか? 港:時計もね、日本から持ってったのをポーカーで負けて取られて、ブエノスアイレスまでなかった。ブエノスアイレスでさすがに買ったけど、3ヵ月くらい持ってなかった。でも、これも必要なかったから。日本では必要だと思う。だって、新幹線が5分おきに出てる国だもんね。南米でね列車が定時に出るわけがない(笑)。僕がした旅でいちばんしんどかったのはパンタナウっていう湿原地帯に行った時。ボリビア行きの汽車が出るんだけど、出発時刻は書いてあるんだけど到着時刻って書いてない。駅の名前は100ぐらい書いてあるけど、到着時刻はどこにもない。いつ着くかわからない。バスもそうだった。そういうところですからね。だいたい南米の人って時間守らないじゃない。 管:根本的に違うよね。約束といっても、午前中なのか午後なのか、その程度。 港:一度、9時にパーティがあるからって招待されて、9時に行ったら怒られた(笑)。手伝わされたし。9時って言われたら11時ぐらいに行くのが常識みたい。そういうところですから時計は役に立たなかったですね。 管:持っていたとしても普段ははめてないね。 港:盗られちゃうしね。 管:非常におかしなことだけど、時計は持っててもはめないし、トラベラーズチェックなんてものも使わない。ぼくは米ドルの現金を丸めて輪ゴムで止めて、肌身はなさず持ってた。危ないようだけど、これがいちばん確実。両替はどこでもできるし、レートはいいし。『マクベス』の魔女の「きれいは汚い、汚いはきれい」じゃないけど、持っているものは持っていない、持っていないものはむこうからやってくる、危ないがいちばん安全、乱雑が最高の秩序、こういう逆説的な感じを生きなきゃいけないというところが、南米にはあった。 港:今も変わらないと思う。南米はだからいいんだよね。そういうところを20代の初めに旅したっていうのは、僕にとってかけがえのない経験ですね。(役に立つはずのものが)なにも役に立たないという体験、それが出発だった。 (2001. 12. 9 構成・執筆 橋中佐和)
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