1 Charles Lister, Between Two Seas, 1991
Peter Freming, Brazilian Adventure , 1933
Jean Morris, Journeys, 1984
イギリス人の旅行記
小説や詩など数ある分野の中でも、旅行記はとりわけ幸福なジャンルではないだろうか。
まず書く人がみな楽しそうである。いかにも辛そうな旅行記などこれまで一度も見たことがない。当然、書いてある内容もおおむね楽しく、たとえ辛い話が出てきても、そのうちに旅の愉悦や慰めの中に溶けこんでしまう。いい例がD・H・ロレンスの旅行記だろう。
ご承知のように、ロレンスは貧しい炭坑町の出身で、作家としてもそれほど幸福な生涯を送った人とはいえない。力を入れて書いた作品(『チャタレー夫人の恋人』など)は誤解されて発禁になるし、私生活では人妻との恋愛でくたびれはてていた。第一次大戦前後の劣悪な社会情勢も影響して、ロレンスは追われるように故郷を離れ、ヨーロッパ大陸に向かった。以後おもにイタリアを生活の拠点にするのだが、そのときの滞在記録や見聞記を二冊の本に書き残している。『イタリアの薄明』(一九一六年)『海とサルディーニャ』(一九二三年)がそれである。
ロレンスの小説は人間の解放をテーマにしているが、その基調は暗くて重い。『恋する女たち』や『虹』は傑作であるものの、何度も繰り返し読むのは辛いものがある。それに引き換え、この二冊の旅行記は、明るくて楽しく、楽園を見つけた喜びにあふれている。
ヨーロッパの人々、特に多雨で寒いイギリスの人たちにとって、南国イタリアは特別な意味を持つらしく、小説の舞台としてもよく使われるし(たとえば、E・M・フォースターの『眺めのいい部屋』)、ロレンスの本以外にもイタリア旅行記には傑作が多い。
最近では、チャールズ・リスターの『二つの海のあいだ』Between Two Seas(一九九一年)という本がある。ここでいう二つの海とは、ティレニア海とアドリア海のことで、そのあいだには、もちろんイタリア半島があるのだ。著者のチャールズ・リスターは、イタリア生まれのイギリス人で、以前、BBC放送のアナウンサーをしていたこともある。この旅行記は、一九六〇年に執筆を依頼され、諸般の事情で完成は三十年後に持ち越されたものだという。眼目は、アッピア街道を歩いて旅した記録、というところだろう。アッピア街道というのは古代ローマ帝国の時代から存在する道で、ローマからアドリア海の港町ブリンディジまで通じている。それを歩いて旅するのは、普通の観光客の目に触れないイタリアの古層を探検することでもある。チャールズ・リスターは、古城の遺跡や魔女が徘徊するという丘などを紹介し、南イタリアの陽気で迷信深い羊飼いなどの暮らしぶりをつぶさに報告してくれる。ただし、原文はなかなかの難物で、皮肉が大量に含まれたあくの強い文章は好みが分かれるかもしれない。
イギリス人は旅行記が好きらしく、こういうものを好んで読むようだが、歴史的に見れば、英国貴族が旅行記というジャンルを支えてきたということができる。旅行に出るためには、暇と資金がなければならない。しかも、旅行に出て、その印象を上手に書き記すには、それなりの教育を受けている必要がある。あくせく働かなくてもよく、お金持ちで、たいがいは大学を出ている、となれば、英国貴族はうってつけの存在だったのだろう。
たとえば、一九三三年に『ブラジリアン・アドヴェンチャー』Brazilian Adventure という本を二十六歳で出版したピーター・フレミングも貴族の子弟である。この本は、題名どおり、冒険調の旅行記ということで印象に残っている。
一九二五年の夏、イギリス軍のフォーセット大佐という人物が、失われた世界を探検するため、ブラジルの未開のジャングルに入り、消息を絶つという事件が起こった。その数年後、大佐の行方を捜すため、捜索隊が組織され、参加者が広く募集された。その捜索隊に加わったのが、当時二十四歳のピーター・フレミングで、『ブラジリアン・アドヴェンチャー』という本は、そのときにブラジルの奥地に踏み込んだ体験を書き綴った旅行記なのである。
これは密林冒険小説の味わいがある旅行記だが、のちにピーター・フレミングは、第二次世界大戦前夜の、政治的に緊迫した樺太方面へ旅行して本を書いている。こちらのほうはスパイ小説風の旅行記という趣きがある。ちなみに、イギリスのスパイ小説・冒険小説といえば、ジェイムズ・ボンドが活躍する007シリーズが有名だが、面白いことに、007の著者イアン・フレミングは、このピーター・フレミングの弟なのである。
さて、現代の著作家で、旅行記を得意にしている大物といえば、ジャン・モリスの名前を欠かすことはできない。ジャン・モリスには、Venice(ヴェニス旅行記)、Spain(スペイン・ガイド)などの本格的な著作もあるが、手軽に読めるものでは短編のルポを集めた『旅』Journeys(一九八四年)という本をお勧めしたい。この本には、アメリカ、オーストラリア、インド、スウェーデン、中国、ユーゴスラビアなどの旅行記が十三篇収められているが、観察力の鋭さと文章の見事さは無類である。旅行記に興味がなくても、現代における最高水準の英文がどういうものかを知りたいなら、この本を読めばいいだろう。
この人は、以前、ジェイムズ・モリス(男性名)という名前で本を書いていた。だが、旅に出ると、人は本当の自分の姿を知る。彼の場合は「自分は昔から女になりたかったのだ」ということに気がつき、性転換手術を受けた。日本でいえば、文学賞を二つ三つ取っているような作家が、突如、性転換をしたのだから、その出来事はジャーナリズムでおおいに話題になった。以後、ジェイムズ・モリスは、ジャン・モリス(女性名)という名前で本を出すようになった。
一口に旅行記といっても、いろいろな人が世界を旅しているのだ。