13 William Trevor, The Collected Stories
アングロ=アイリッシュの短篇の名手
筑摩文庫から出ているマルセル・プルーストの長い長い小説、『失われた時を求めて』が、意外によく読まれているらしい。この長編小説は、四百字詰めの原稿用紙にすると約一万枚あり、文庫では全十冊の分量になある。一日に五、六十ページずつ、丁寧に読んだとしても(密度の濃い文章で書かれているので、読み飛ばせないのだ)、読破するには三か月以上かかるだろう。それに比べたら、短編小説を読むのはだいぶ楽で、長いものでも、だいたい一時間あれば読み終えることができる。
短編小説は英語の勉強にも役立つ、と思われているらしく、中学・高校の教科書にも、よくO・ヘンリーの短編(「最後の一葉」とか「賢者の贈り物」)などが載っているし、短編集は英語の副読本にもよく使われる。
日本でも外国でも、短編の名手、と呼ばれる作家は何人もいて、日本の作家では、国語の教科書でお馴染みの志賀直哉などが、昔から短編の名手と呼ばれてきたが、今回は、外国作家の中から短編の名手を一人紹介しよう。ウィリアム・トレヴァー(William Trevor)という作家である。トレヴァーの両親はイギリス人だが、当人はアイルランドで生まれ、アイルランドで育っている。そういう背景を持つ人は、アングロ=アイリッシュと呼ばれる。トレヴァーは、イギリスの作家、といわれたり、アイルランドの作家、といわれたりしているが、正確には、アングロ=アイリッシュの作家といったほうがいいだろう。
トレヴァーが最初の小説を発表したのは一九六四年で、その処女作は長編小説だった。以後、十冊ほど長編を書いているが、それと平行して短編集も七冊出している。外国の作家で、長編の分量と同じくらい短編を書いている人は、実は、それほど多くない。長編を書けば長編だけで勝負するのが普通なのだが(たとえば、最初に挙げたプルーストは、ほんのわずかしか短編を書いていない)、トレヴァーは例外的な存在であるといえる。
今回紹介するCollected Stories (短編集成)と題された本は、そのウィリアム・トレヴァーがこれまでに書いた短編をすべて集めたもの。トレヴァーの短編をまとめて読みたい、という読者はたくさんいるのだ。
もちろん短編小説にもいろいろなタイプがあり、あっと驚く意外な結末がついたO・ヘンリーの短編と、虫が死ぬのを見て淋しいと思う志賀直哉の「城ノ崎にて」のような短編(心境小説という)とは、ずいぶん印象が違う。トレヴァーは、さまざまな登場人物がくっきりと描かれ、起承転結がはっきりした短編を書く作家である。彼の短編は凝縮された長編小説だといえるかもしれない。
たとえば、代表作と目されるBeyond the Pale (「囲いの向こう」)という短編は、次のような書き出しで始まっている。
We always went to Ireland in June.
Ever since the four of us began to go on holidays together, in 1965 it must have been, we had spent the first fortnight of the month at Glencorn Lodge in Co. Antrim. Perfection, as Dekko put it once, and none of us disagreed. It's a Georgian house by the sea, not far from the village of Ardbeag. It's quite majestic in its rather elegant way, a garden running to the very edge of a cliff, a long rhododendron drive -- or avenue, as they say in Ireland. The English couple who bought the house in the early sixties, the Malseeds, have had to build on quite a bit but it's all been discreetly done, the Georgian style preserved throughout.
〈わたしたちは六月になるといつもアイルランドに出かけた。
わたしたち四人が一緒に休暇旅行を楽しむようになったのは、たしか一九六五年からだったと思うが、そのとき以来、一か月のうち最初の二週間は、アントリウム郡にある〈グレンコーン・ロッジ〉で過ごすことにしていた。文句のつけようがない――いつかデッコーがそういったとき、わたしたちはだれも反論しなかった。そこは、海のそばに建てられたジョージ王朝様式の宿で、アードビーグの村からそれほど離れていなかった。堂々として、しかも優雅で、崖っぷちぎりぎりまで庭が広がり、ロードデンドロンの植わった長い車回しの私道があって――そんな私道のことをアイルランドではアヴェニューと呼んでいる。六〇年代の初めにその屋敷を買ったイングランド人の夫婦、マルシード夫妻は、かなりの建て増しをしなければならなかったが、充分な配慮をして、ジョージ王朝の様式を徹底して守っていた〉
この語り手は中年の女性で、仲良しの中年四人組で毎年アイルランドまで休暇旅行に出かけている。その四人組に「デッコー」という男がいるのはこの部分からわかるが、デッコーの言葉に「わたしたちはだれも反論しなかった」というところで、デッコーがボス的な存在であることが暗示されている。話が進むと、旅行に出かけている四人組は、デッコーと、その妻と、デッコーの学生時代の悪友と「わたし」という構成であることがわかる。ここまでが、起承転結の「起」の部分にあたる。そのあと、「わたし」とデッコーとが不倫の関係にあり、デッコーの妻もそれを黙認している、という事実が語られる。これが「承」の部分である。デッコーという男は、妻と愛人と親友を連れて毎年旅行に行くような男なのだ。続いて、「転」の部分に入り、人が一人死ぬのだが、どういう死に方をするかといえば、ここに引用した冒頭の一節に出てくる「崖っぷち」から海に転落して死ぬのである(つまり、最初から伏線が張られている)。「結」の部分では、デッコーの妻が、利己的な夫とその愛人(語り手の「わたし」)に怒りをぶちまけ、この短編の主人公は、語り手ではなく、デッコーの妻であったことがわかる、という仕掛けになっている。
むろん、話はそれだけではなく、デッコーという身勝手なイギリス人と重ね合わされるようにしてアイルランドの政治問題もそれとなく語られるのだが、その複雑微妙な味わいを堪能するには、現物を読んでもらうしかないだろう。
この本には、こういう大人の短編が八十八編収録されているのだが、一日に一編ずつ読んでいけば、三か月のあいだ、毎日、楽しめるはずである。