3 Jill McGown, Murder at the Old Vicarage
クリスティアナ・ブランドに似て
思えば、洋書屋通いをはじめて、そろそろ二十年になる。長いあいだ通ったものとして、ほかには学校があるが、そちらのほうは十数年で通うのをやめてしまった。つまり、私は学校よりも長く洋書屋に通っている。
ただし、最近の私は、あんまりいいお客さんとはいえないだろう。経済的にボーダーレスになった時代の恩恵をこうむって、外国の本屋に直接、注文を出し、クレジット・カードの決済で本を買っているのだから。そうすると、ペーパーバック一冊につき、数百円は確実に安くなる。貧乏な翻訳者には、それがたいへんにありがたい。
なのに、相変わらず洋書屋に足を運んでいるのは、カタログで本を買っていると、「現場の勘」が鈍りがちになるからである。実物が店先に並んでいるのを見ていなければ、視覚と触覚で面白い本かどうかを見分ける直感が失われてしまう。
ここ十年のあいだに、洋書屋のミステリの棚は大きく様変わりした。昔そこに並んでいたのは、半裸の美女をかたわらにはべらせながら、妙にむっつりした顔で拳銃を構えている男が表紙になったKiller's Wage(殺人者の分け前)というスリラーであったり、寝室で不安げに脅える美女の前にナイフを持った何者かの影が忍び寄っているThe Case of the Missing Coed(女子大生失踪事件)というミステリであったりした(いずれも架空の本だよ)。
そういう痴呆的男性娯楽路線が、いつのまにか、もっと穏やかで、女性的な、(こういってよければ)知的なものに変わってきているのである。それはあくまでも視覚と触覚による判断だが、ページを開いて中身を読んでみると、十冊のうち一冊くらいの割合で本当に知的なミステリを発見することができる。
今回紹介するジル・マゴーンのMurder at the Old Vicarage もそんな一冊で、題名(古い牧師館の殺人)も表紙(牧師館の前に雪が積もり、血のついた火かき棒が刺さっている)もつきなみだが、冒頭の部分を読んだときに、これはいけるかもしれないと思った。こんな書き出しである。
Lloyd finished the last chapter of his library book, and closed it with relief, wishing that it was in his power to abandon books half-way through. But no matter how obvious the plot, how stilted the dialogue, he was obliged by some natural law to finish them. The worse they were, the more likely he was to devour them, reading into small hours to get them out of the way. Good books relaxed him, and he would fall asleep with them in his hand, but no such luck with the lousy ones.
「ロイドは図書館から借りてきた本の最後の章を読み終え、ほっとしてページを閉じた。いっそ途中で放り出せたらいいのだが、どんなに筋が見え透いていても、どんなに会話が下手くそでも、まるで自然界の法則にうながされるように、最後まで読んでしまうのである。駄作であればあるほど、夜の夜中まで読みふけって、とにかくその一冊を片づけようとする。名作なら心が穏やかになって、手に持ったまま眠り込むこともあるが、くだらない本の場合はそうは問屋がおろさないのだ」
駄作だと仕方なしに遅くまで読んで、傑作だと満ち足りて眠くなるという逆説。ああ、わかるわかる、と思った瞬間、もう話に引き込まれている。
ロイドというのは、イギリスの地方警察の警部で、パートナーの婦人警官と一緒に物語の主役を務めるのだが、このコンビは、上司と部下で愛人関係になっているという設定で、痴話喧嘩をしたり、仲良くなったりのいきさつが本筋のわきで描かれる。
そういう主人公たちの面白さとは別に、ミステリだったら魅力的な謎が提出されなければならないが、そのあたりが作家・読者ともに好みの分かれるところだろう。
昔読んだ日本のミステリに、運転台に人の姿がない無人の霊柩車が白昼の大都会を走り回って、忽然と姿を消す(幽霊霊柩車!)、という話があった。これは一見面白そうだが、扇情的な書きっぷりがいかにも古めかしかった。同じ霊柩車を使うなら、たとえば、福島ナンバーの霊柩車が真昼の六本木を走っていた(遠出する霊柩車!)、という設定にするほうがずっとしゃれていると思う。それだけで充分に不思議なのである。
この作品も、事件そのものは、まあ平凡なものだろう。ある古い牧師館でクリスマスのパーティが開かれる。そこには牧師の娘夫婦も来ていたのだが、その夫が粗暴な男で、しょっちゅう妻を殴っている。いわば一族の嫌われ者で、みんなから疎まれている。その娘の夫が、パーティの翌朝、死体で発見されるのだ。
いってみれば新聞の三面記事と同じなのだが、主人公コンビの捜査が進むにつれて、複雑な人間関係の細部にさまざまな矛盾が露呈して、魅力的な謎が醸し出される。どこにでもあるような事件から、長編小説一冊の土台になる謎を作り上げる観察力とイマジネーション。現代のミステリ作家には、実は、そういう知的な能力が要求されているのだ。今の時代に、痴呆的なこけおどしはもう通用しないのである。
古くからのミステリ・ファンにこの本を紹介するのは簡単で、「クリスティアナ・ブランドと似たところがあるよ」といえばいい。そうすると、おお、面白そうだ、とわかってもらえるだろう。ところが、この題名は、ブランドではなく、アガサ・クリスティの作品、『牧師館の殺人』のもじりである。あんまり趣味がよくないと思っていたら、もともとの題名は『つぐない(Redemption)』という渋いものだった。『古い牧師館の殺人』は、アメリカの出版社がつけた題名だったのである。