TWICE TOLD TALES

Book Review Archive

宮脇孝雄


5 James Sallis, The Long-Legged Fly


ハードボイルドの条件


 ハードボイルドというミステリのジャンルは、日本でもすっかりお馴染みになっている。日本の推理作家の登龍門である江戸川乱歩賞の受賞作にも、このところハードボイルドが増えている。十数年前には、これほど人気のあるジャンルではなく、ミステリ専門誌でハードボイルドの特集を組んだら売れ行きが二割落ちる、などといわれたものだが、それに比べると隔世の感がある。

 というわけで、まだハードボイルドを知らない人には少しでも知識を増やしてもらうために、とっくに読んでいる人にはおさらいを兼ねて、最近のこのジャンルのミステリを一冊取り上げてみることにしよう。James Sallis(ジェームズ・サリス)という作家のThe Long-Legged Fly(内容とは直接関係ないが、虫の名前である)という小説である。

 酒と女にめっぽう強く、腕力・知力ともに抜群の私立探偵が、悪党どもをこてんぱんにやっつける、という痛快ハードボイルドもあるが、最近では、どちらかといえば文学的なハードボイルドが主流になっている。ハードボイルドの創始者の一人は、ノーベル賞作家のアーネスト・ヘミングウェイなのだから、まあ、当たり前の話だろう。この作品もいわゆる「文学性」は非常に高い。

 主人公はルイス・グリフィンという黒人の私立探偵で、アメリカ南部のニューオリンズに住んでいる。このグリフィンが、社会の歪みから生まれた事件に取り組んでゆく。

 ハードボイルド・ミステリでは、家庭の悲劇や社会問題がテーマにされることが多い。そして、たいがいはシリーズになって、同じ探偵を主人公にした作品が何冊も書き継がれる。ここで一つ困った問題が発生する。同じ探偵が、毎回、毎回、人生観が変わるような深刻な事件に巻き込まれ、次の作品ではまた何食わぬ顔をして読者の前に登場する、というのでは、あまりにもリアリティがなさすぎるのだ。そこで、最近、よく書かれるようになったのが、探偵が事件によって成長する(あるいは堕落する)さまを描くハードボイルドである。

 この作品もその範疇に属するもので、小説全体が年代順に四部に分かれている。第一部一九六四年、第二部一九七〇年、第三部一九八四年、第四部一九九〇年という具合に。第一部では、黒人の公民権運動を背景にして、若い女性黒人運動家の失踪事件をグリフィンが解決する。第二部では、家出少女とポルノ・カメラマンの悲恋が描かれる。

 この二つの事件にかかわることによって、グリフィンは人間になかば絶望する。で、第二部の十四年後にあたる第三部に登場するとき、グリフィンは探偵をやめ、ホームレスになって、野垂れ死にしそうになっているのである。そんなグリフィンがどうにか立ち直るまでを描いたのが第三部だ。

 しかし、ストーリーだけでハードボイルドを語るのは充分ではない。ハードボイルドには独特の文体がある。それは事実だけを書く文体であり、生の心理描写はできるだけ避けられている。つまり、普通の小説なら、

「彼女は悲しんでいた」

 と書くところを、

「彼女の目にはうっすらと涙の膜ができていた」

 と書く。目に涙の膜ができているのは主人公の視点から見た事実だが、他人が悲しんでいるかどうかは本人でなければわからないからである。

 もう一つ、まるでテープレコーダーの録音を活字におこしたような生きのいい会話もハードボイルドの特徴だろう。本書から引用すれば、友人の警官(Donという名前)と主人公とが交わす会話は次のように書かれている。

 "What happened, Don?"

 "He was jumped by a gang of some kind, apparently. Beat him with something, chains or tire irons, maybe. Stabbed him a couple of times. Got one lung"

 "Any idea why?"

 "You know as well as I do that there doesn't have to be a reason"

「『何があったんだ、ドン』

『ギャングみたいなものにやられたらしい。チェーンかタイヤ・アイアンか何かで殴られた。二回、刺されている。肺の片方がやられた』

『なぜだろう』

『あんたも知ってるだろう。こういう事件には理由なんかいらないんだ』」

 電報のように短いセンテンスを重ねる会話は、翻訳しづらいものである。なお、tire ironというのは、自動車のタイヤを交換するときに使われる鉄の棒で、凶器になる。

 会話とともに、ハードボイルドの特徴になっているのは、叙情的な(ときとしてバロック的になる)風景描写だろう。本書にも、次のような描写がある。

 That night, sudden and unseen in the embracing dark, as though the city, like Alice, had tumbled into some primordial hole and through to another world, a storm broke.

 I woke, at three or four, to the sound of tree limbs whipping back and forth against the side of the house.

「その夜、闇に抱かれ、誰にも見られることなく突然に、まるでアリスよろしく街が原初の穴に落ちて別の世界にたどりついたかのように、嵐がやってきた。

 木の枝が家の側壁を繰り返し打つ音で、私は三時か四時に目を覚ました」

 嵐がきた、というのをこんなに回りくどく表現しているわけだが、これが主人公(「私」)の心象風景にもなっているのはいうまでもないだろう。これも試訳はあまりうまくできていない。結論としては、ハードボイルドは英語で読むのが一番面白い、ということになるだろうか。

uoload 97/10/26


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