浦島太郎は実在か、否か。
この問いは、神武天皇や仁徳天皇は実在か否か、小野小町や和泉式部が実在か否か、三四郎や時任謙作は実在か否か、という問いよりも、はるかに根源的な問いとしてある。
というのも、浦嶋子の実在性を疑うことなく取り扱おうとする試みが、少なくとも古代期の日本には事実として存在したし、中世期になると、浦嶋子、改め浦島太郎の実在性を信仰する庶民的形式が、神仏習合の文脈の中で、多様に展開されていった。これもまたゆるぎない歴史的事実である。そして、なによりも重要なのは、そういった実在性を否認する圧力が、この浦嶋子のような存在に対しては一度も作動した痕跡が残されず、明治になって、浦島太郎は、もはや実在性など問うことさえ問題にならない、新しい「昔話」世界の主人公として、桃太郎や、こぶじいさんと並列にならべられる一固有名の座に落ち着いてしまうのである。
実在性を疑うイデオロギーを一度も作動させることなく、ひたすら実在と虚構とのあわいをさまようことを運命づけられた浦嶋子こそ、日本文学とわれわれが呼んできたもの、またこれからも呼ぼうとしているものの、ある意味では、中央に位置する「フィクションの中心」であるかもしれない。
浦嶋子の名前を歴史的人物の名として呼び起こした最初のテキストのひとつ『日本書紀』は、日本の地に導入された漢字表記システムの政治的効用を最初に発揮させた呪術的文字文献である。「いにしえ、天と地いまだわかれず」というある意味では地球史的に見ても「事実」としかいいようのない記述に始まって、日本列島をかつて東進したであろう、権力と文化の中核を代表する神武天皇をめぐる記述、さらには『万葉集』の巻頭詩の作者としても知られる第十四代雄略帝をめぐる編年体の記載をへて、その隙間にこっそりとさしはさまれた一節は、『日本書紀』が文字の力を用いて、一気に捏造し、同時に、その過去における実在性をフィクショナルに定着させた「史実」である。
秋七月丹波国餘社郡管川人水江浦島子乗舟而釣遂得大亀便化為女於是浦島子感以為婦相遂入海蓬莱山歴覩仙衆
(=秋七月、丹波国餘社郡管川の人であった水江浦島子は、舟に乗って、釣りをしていたところ、遂に大亀を得る。それは便ち女と化し、ここで 浦島子は感じいって、その女を婦となし、ともに逐って海に入り、蓬莱山に到り、仙人たちの生活を遊覧した)
あまりにも唐突に呼び覚まされ、しかもその後、中世期の『水鏡』の中ではじめてその帰還が記録されるまで、もはや中央の「史書」の記憶の中ではその消息に対する懸念が失われてしまう浦嶋子とは何者なのか。
この問いに対する可能な解答のひとつは、上の引用につづく「語在別巻」(=このことは別巻にある)にある「別巻」の中に隠されているはずなのだが、その「別巻」そのものが実在はしたかもしれないが、少なくとも現存せず、むしろその「別巻」の異文としての『丹後国風土記』の「逸文」のみが残っている。私たちは幻の「別巻」をめぐって、不毛な議論をくりかえすことしかできず、そこに私たちは、「日下部首等先祖」(くさかべのおびとらの先祖)ときわめて具体的に記され、もう一方では「風流之士」としての肩書きを与えられたもうひとりの浦嶋子を再発見するにすぎない。その浦嶋子たるや、その「風流之士」の名にふさわしく、「三百余歳」の後の帰郷後も、ふたたび会うことのかなわなくなった「神女」とのあいだに歌を交わし合う当世流風流の道をまっとうするのだが、いったい雄略帝時代の西暦四七七年と思しき時代に、日本海に船出した浦嶋子が、いったいどこで女性と歌を交わし合う「風流」の身につけたのやら、謎は解けない。いったい日本の外のいったいどこで浦嶋子は、「風流」を磨いたのか?
『記紀』は、そこに登場しながら、ただしく埋葬されることなく、そのまま、うやむやに歴史的記憶から追放されたまま、むしろ民間信仰の中でのみ生き残っていった英雄として、他にも、イザナギ・イザナミの初子・二子である蛭児(ひるご)と淡洲(あわしま)の浮かばれない運命について単刀直入な記述がなされていることを、私たちは知っている。中世期以降の民間信仰の中で、蛭児や淡洲の二人が、浦嶋子と同じく、後の神社縁起等ではその再序聖化がおこなわれていった存在であることを私たちは知っているのだが、『記紀』という日本最古の現存する「史書」は、彼らについて、その旅立ちこそ語ろうとはしても、その新たな漂着に関しては、もはやほとんど無関心を貫いている。それはもはや「別巻」というような二次的な「史書」の中にしか書き留めようのないものなのか。たとえば、浦嶋子の帰還の年号を天長二年(西暦八二五年)と断定する『水鏡』(十二世紀末に成立)の一節のような形でしか……
御門ハ彼嵯峨法皇ノ四十賀シ給キ。今年、浦島ノ子ハ帰シ也。持タリシ玉ノ箱ヲ開タリ然バ、紫ノ雲西様ヘ昇テ、幼リシ躰ハ忽ニ、翁ト成テ、ハカバカシク歩ミヲダニモセヌ程ニ成ニキ。雄略天皇ノ御代ニ失テ、今年ハ三百四十七年ト云シニ帰リ来レリシ也。
消息不明としてのみ書き留められた日本人群像。
歴史の余白にあって、一旦は「史書」に名前を引かれながらも、その後を宙につられたまままま、宙ぶらりんの生を余儀なくされてしまった英雄たち。
ここで私が敢えて、そういった意味での浦嶋子の名をいまさらのように呼び起こそうと思うのは、まさにこうした「宙ぶらりんの日本人」をこそが、おそらくは『記紀』や平安朝女流文学の登場人物たちよりも、はるかにまして、日本文学の主役であると考えたいからである。日本文学史が書きとどめるべきは、浦嶋子の名を、ふと思い出したように口にしてしまった名もないひとびとの名前のない名前ではないのか。
『丹後国風土記』や『万葉集』に始まって、漢文系の平安朝文学の中では、「和歌」どころか、「漢詩」を用いて、一生をふりかえる役者としてさえ生きてしまうことになった浦嶋子の超人性。まさに大陸文化の流入期に日本を離れ、「蓬莱山」での遊学という、いかなる遣随使・遣唐使にも許されなかった経験を余儀なくされ、また許可された存在が、いったい古代史の中ではたした役割は、それが大文字でいう政治的な役割でなければ、それだけ、なかっただけ、逆に、大きいかもしれない。それこそ、浦嶋子という名前は、太安麻呂の名よりも、紀貫之や紫式部の名よりも、また天智天皇や光源氏の名よりも、はるかに日本文学史の中核をなす名前であるかもしれない。そんなふうな予感が私にはある。
というのも、飛躍するが、戦後の日本史は、戦前の日本をあとにし、なにがしかの「トラウマ」を背負って、戦後、生還したものたちの記憶をぬきにしては語り得ない何かであろうし、その記憶がかならずしも正当に語り継がれてきたわけではない戦後五十余年の隔たりをこへて、私たちがいま「史実」の中に呼び覚ましていかなければならないのは、まさにこの二十世紀の浦嶋子たちの名前ではないのか。
そこで、この連載では浦嶋子の名前を再三にわたって呼び覚まそうと試みてきた『記紀』編纂者から、明治以降の「教科書」執筆者、「童話」作家までの系譜をたどりながら、同時に、浦嶋子的存在の召喚装置として、文学にいかなる可能性が残されているのかを併せて考えてみたいと思うのである。