浦島太郎 千五百年の孤独
『土左日記』をクレオール日本語を用いた最も古い実験的な文芸として位置づけることは正しい。『古今和歌集』の序文を真名と仮名の二各国語で書き記した貫之は、晩年の『土左日記』において、さらに「をとこもすなる」漢文日記に対抗して、もうひとつの日記形式を試みた。旅のすさびに、ひたすら三十一文字をひねりだすことに唯一ともいってよい娯楽を見出した十世紀の浦島。
土佐守としての任務をつとめあげた貫之やその一行を、浦島の名で呼ぶのはいかにも無謀なことである。貫之にとっての土佐は、蓬莱でも龍宮でもなく、朝廷による四国南部植民地支配の拠点であり、彼にとって、三十一文字の韻文形式とは、漢文によって書き記され、古代語とはまた異質な新日本語としての訓点語で音読されもした文書・日記・漢詩類と並んで、植民地の地域言語文化とは対立する中央的・宮廷的な言語形式のレパートリーのひとつだった。植民地官僚が京都に栄える文化を再生産することに傾けたその情熱は、おそらく浦島の健忘症の対極にある非=浦島的な自己防衛・自己制御であったと考えるべきだろう。任地での五年間のあいだに『古今集』に次ぐ『新撰和歌』の編集にもっぱら傾注した貫之の執念たるや、おそるべしである。
[二月]十六日(…)家にいたりて、門にいるに、月あかければ、いとよくありさまみ
ゆ。聞きしよりもまして、いふ甲斐なくぞ毀れやぶれたる。
五年ぶりの帰京の日の貫之のこの落胆は、確かに、貫之と浦島の運命の類似性を指し示している。しかし、貫之と老いとの戦いは、すでに土佐赴任中から始まっていたのであり、帰京にかけた二か月足らずのあいだに、それはいっそう熾烈を極めていた。
同じことは、赴任中に幼くして亡くした愛娘に対する追慕の念の持続性についても言える。半ば崩れ落ちた庭の松を嘆きつつも、その下生えに小松が混じっていることに、亡き娘の面影を見出し、記憶の園に遊ぶ心は貫之の老後生活の基調をなす固定観念のひとつだ。
青春時代から一足飛びに老境へと転落するのが浦島なら、貫之はきわめて緩慢な老いをこそ描き続けるのだ。
植民地官僚の憂鬱。
しかし、貫之は任地での憂鬱を書こうとはしないし、帰郷後の絶望そのものを書こうとはしない。『土左日記』の主題としては、任地で失った愛娘の記憶ばかりが前面に押し出され、老境にある貫之の厭世的気分も、長生や性的充実を懐古的に夢見る失意もそこにはないのである。むしろ二か月足らずの土佐から京までの道中をのみ肥大されて描き出した海洋文学として、『土左日記』は読まれるべきである。蓬莱への行き来を短縮することで、二都物語を描いた『浦嶋子伝』が大陸の神仙小説に倣った冒険物語なら、『土左日記』は「老水夫行」にも似た古代日本植民地主義を背景に持つ海洋倦怠物語である。
貫之は浦島のような単独旅行者ではない。船団を組んで移動する一行は、外敵からの攻撃に脅えながらも古代王権の版図を確保するために、暗躍した武装官僚集団なのであった。
『土左日記』は、古代日本の高級官僚が、いくら海上の移動を重ねようとしても、決して浦島ではありえず、かといって浦島的な形式からまったくの自由ではあり得ないことを二重に語ろうとした、そのパロディーなのである。
『土左日記』を書くに際して貫之が選び取った方法を吟味しておこう。
和漢――正確に言えば訓点語で朗詠される漢語と、古代日本語で歌われる和語――の言語的二重生活を送っていた官僚貫之の二か月間を描くに当って、敢えて「をとこ」的な漢文を避け、架空の「をむな」を想定してまで、和文で書くこと。そのためには、期間中に男たちが交わし合った漢詩の類は「これに、え書かず」とあっさりと割り切り、原則的に排除する。この選択こそが、『土左日記』を和文日記の金字塔たらしめる結果になった。
ただ、ここで排除された、あくまでも漢文で「日記」を男らしくつづることの可能性についても一応考慮しておこう。漢文脈の中に「和歌」を組みこむくらいのことならば、十世紀のヤマト文芸には朝飯前のことであったはずである。少なくとも、これまでの『土左日記』研究においては、あらかじめ漢文で書き留められていた日記をもとに、帰郷後、和文で書き改められたと考えるのが常識とされている。
それでは、そこを敢えて和文で書くこと――漢詩を徹底的に排除することで貫之が企んだことは何であったのか?
これまでの日本文学研究は、大勢として、これを貫之の国粋主義と理解することで納得してきたように思う。漢文主導の官僚階級の文化的偏向に対して、敢えて「をみな」に仮装することによって「国風文学」の確立を目指したのだ、と。
しかし、この「和漢」「をみな・をとこ」の二分法は、お手軽だが、あんまり安易にすぎる。
たとえば、貫之が敢えて和文で「日記」を書くことで削除されたのは「漢詩」だけだろうか?逆に強調されたのは「和歌」だけだろうか?
『土左日記』は、漢文と万葉式仮名日本語の境界を問わない代わりに、こんどは古代日本語の様々な位相のあいだにある境界を問題化する。古代日本語と訓点語のあいだの境界が問われ、曖昧化される(築島裕など)ということもそのひとつだが、さらには「和歌なるもの」と「和歌ではないもの」――さらには韻文と散文――こそが、ここでは徹底的に問われている。漢文・万葉仮名併用文体では、もっぱらこの二つの文体の境界ばかりが突出してしまうが、和文で書かれた仮名文学の中では、文字化された日本語そのもののあいだの起伏をすぐれて可視化しうる。
貫之が漢文日記を捨てて、敢えて和文日記形式を試みなければならなかった理由は、この戦略にあったのだと私は思う。そして、それは植民地官僚貫之自身がみずからの日本語使用を問い、さらには彼を取り巻いた古代日本人の言語生活全体をまで併せて問い直した、その試みでもあったのだ。
[十二月]廿四日。(…)ありとある上下、童まで酔ひしれて、一文字をだに知らぬ者
しが、足十文字にふみてぞ遊ぶ。
文字所有者の優越感が、ここでは露骨に書き表されている。文字を所有する官僚と、所有しない土地の老若男女。しかし、彼らの身体的表現力は文字所有者のそれに優るとも劣らない。貫之ではなく浦島であれば、まさに異郷の地の人々の身体表現のエロスにとりつかれ、そのまま忘我の境へとさまよいこんでいったところだ、貫之はそこをさらりと非=性化して語り、むしろ自身と「ありとある上下」や「童」との差を、文字能力の有無だけで説明している。
[年あけて]九日。(…)船子楫取は船唄うたひて、なにとも思へらず。そのうたふ歌
は――
はるののにてぞねをばなく。わかすすきに、てきるてきるつんだるなを、
(春の野) (音)(泣く) (若薄) (手切る手切る摘んだる菜)
おややまぼるらむ、しうとめやくふらむ。かへらや。
(親)(貪る) (姑) (食ふ) (掛け声?)
よんべのうなゐもがな、ぜにこはむ。
(夕べ)(若者?) (銭)(乞わん)
そらごとをして、おぎのりわざをして、ぜにももてこず、おのれだにこず。
(空言) (=で購うこと)
これならず多かれども、書かず。これらの人の笑ふをききて、海は荒るれども、心はす
こしなぎぬ。
古代日本の非文字文化の担い手たちの用いた韻文形式のある種の典型として、この船唄はとらえることが可能だろう。この船唄を聞いた後、船は港につき、貫之夫妻とおぼしき「翁人ひとり、専人ひとり」は、「あるがなかに心地悪しみて、物もものし給ばで、ひそまりぬ」と、宿に引いたようなのだが、いったい、色を失った貫之と、船唄を嬉々として楽しんだ話者の「をみな」とは、ここではどういう関係にあるのだろうか。「をむな」を敢えて語り手に据えた貫之の技巧が、最も生き生きとしている箇所の一つがここである。そして、『土左日記』の「紀行文学」としての画期性のひとつがまさにここにあり、「歌論」と「紀行文学」とがみごとに結ばれあった箇所もまたここである。
貫之ではない「をむな」の本領は、このような俗語による歌謡を船酔いの中にあってさえ堪能し、さらには書き取ってさえみせた書記マニア的性質にこそある。先程の甲斐歌については、そのイメージの源泉は漢籍にあるというのが定説になっているが、この船唄の大らかさは、貫之ら上流知識人の諧謔とも知的遊戯とも無縁な、庶民芸能の笑いそのものだと考えてよいだろう。
さらに、船唄はもう一度紹介される。
廿一日。(…)使われむとて、つきてくる童あり、それがうたふ船唄。
なほこそくにのかたはみやるられ、わがちちははありとしおもへば。かへらや。
(尚) (国の方) (父母)
とぞうたふぞ、あはれなる。(…)
父母を捨てて、貫之ら一行に仕えようと名のり出た青年の望郷の念が、和歌ではないが、ここに歌われている。前に引かれた船唄同様「かへらや」で終わるところは、船唄の定型でもあるのだろうが、ここでは形式的修辞というよりは、故郷から遠く離れて生活する楫取りや家出青年だちの心境を素朴に表現したもののようにも思われる。
一方で赴任地から都へと帰還する途上にある高級官僚の風流な旅を描くかたわら、そこかしこに、そうではない、むしろ職業的とも言えるような航海者たちの心情の吐露をこまめに書き留めようともした「をむな」のフィールドワーカー的側面――『土左日記』が是が非でも和文で書かれなければならなかった理由を私はそこに見たい。そして、この故郷を捨てた青年の表現行為を「あはれ」と断言できる価値基準が、彼女には備わっているということ。貫之が構想した「をむな」の画期性はここにある。
しかも、この挿話の直後に、「をむな」は、楫取の何気ない言葉を引用する。
(…)楫取のいふやう、「黒鳥のもとに、白き浪をよす。」とぞいふ。このことば、何
とはなけれども、ものいふやうにぞきこへたる。人のほどにもあはねば、咎むるなり。
「人のほど」で人を見る階級的な視線が、こうして再三可視化されることで、批判の対照に据えられていく。その過程こそが、『土左日記』が企んだ知的実験であり、共に古代日本語を「うた」にかえる創造性をそれぞれに秘めた人々の間の垣根が、所詮、垣根にすぎない曖昧な境界線以外の何物でもないことを、この日記は明らかにするのである。
かくいひつつゆくに、船君なる人、浪をみて、国よりはじめて、海賊むくいせむなるこ
とを思ふうえに、海のまた恐ろしければ、頭もみな白けぬ。七十八十は、海にあるもの
なりけり。わがかみの/ゆきといそべの/しらなみと/いづれまされり/おきつしまも
り。楫取、いへ。
思わず対句を用いた「ものいふやうな」口をきいてしまった楫取だが、船君(=貫之らしい)の本格的な和歌をぶつけられてその先を継ぐことは困難であったろう。「楫取、いへ」と皮肉っぽく口にする「をむな」のアイロニーは、楫取に対する悪意のあらわれである以上に、和歌芸術の枠の中でしか日本語韻文の美を表現できない官僚たちと、より自由な表現形式を有する楫取たちのあいだの言語感覚の差異に対する強い問題意識の表現であると考えたい。
海賊の恐怖や嵐の恐怖にさいなまれて、いっそう白髪のめだつようになった船君の姿が、ここでは、返す言葉を持たない楫取の沈黙によって、いっそう突出する。
すでに「浦嶋子」の物語として、知識人階級の間では知らぬもののない物語となっていたに違いない浦島の伝説は、貫之のような風流人にとっては、「海のもたらす老化作用」をあらわす象徴機能を果たしたにちがいない。
海の自然的魔力、海を徘徊する海賊の暴力、愛するものを喪失した悲哀――鳴門海峡の手前で、貫之は都にたどり着きもしないうちに、老いさらばえていくみずからをこのあたりでは浦島になぞらえたのかもしれない。しかし、そういった心境をよそに、「をむな」はひたすら中立的な位置に立って、貫之と楫取との対決に期待を抱く野次馬性を発揮する。
楫取と海賊。そもそもはヤマトによって平定された地域の海民であったはずの彼らだが、かたや朝廷に屈服し賃労働にたずさわり、かたや報復と称した略奪行為に励む存在として、彼らは分断されている。しかし、その境界はことばで言うほど明確ではあるまい。それこそ、浦島に至っては、貫之でも、楫取でも、海賊でもなく、ただ日本の海辺をさすらう放浪者だ。『万葉集』から『丹後国風土記』から各種『浦嶋子伝』までの古代文芸は、この浦島にあるときは漢詩を読ませ、また仙女とのあいだに和歌を交わし合う叙情性を強調することでこれを宮廷伝説化したのではあったが、はたして、浦島とは誰であったろうか?
浦島は貫之ではない。むしろ、船唄をうたった青年や楫取や、あるいは海賊であったかもしれない、貫之を脅かす存在としてこそ浦島は、古代日本の海辺に出没したのではないか。私が『土左日記』を反=浦島の物語として読むのは、そういう考えからだ。
かつて和文で浦島を歌いこんだ高橋虫麻呂は、浦島を「おぞやこの君」と笑うことで、その亡霊を封印し去ったが、『土左日記』は和文を用いることで、宮廷文学の枠を踏み外し、ふたたび浦島の亡霊を呼びこむことになった。
貫之その人が浦島であるというよりも、浦島ではない自分を安定させるために、ひたすら、暦をめくりめくり、あいまに漢詩と和歌の正当性とは何かだけを問うことで無聊と不安を癒す日々を送り続けた、知的畸形者、紀貫之。
一方、その俗物性の中に住み着いた浦島の亡霊。
しかも、その貫之をさらに「をみな」の視線で丸裸にしてしまった著者貫之の怪物性。
和文脈で浦島を再び想起することの可能性として、平安朝文学が独自の発展を見せたのだとすれば、この『土左日記』の実験性を省いて論じることは誤りだろう。
宮廷文化とその外部の境界を明確化することに老骨を笞打つ貫之と、その内部と外部の境界を記述するために和文日記という冒険に踏み切った「をみな」の創造者としての貫之。
とまれかうまれ、疾(と)く破(や)りてむ。
『土左日記』の結語として書きつけられたこのなげやりさ。しかし、同時に、そのなげやりさ故に、破り捨てられず今日まで伝えられてしまった『土左日記』のしぶとさは、単なる「日本語文学」「日記文学」「紀行文学」「歌論諸」としてだけ読むだけでは惜しい広い文脈の上に絡みついている。