『万葉集』を読むときの注意として「七日」を文字通り「一日」七回分と取ってはならないという一般了解があるらしい。「水江の浦の島子が鰹釣り鯛釣りほこり七日まで家にも来ず」の「七日」は、「海境(うなさか)を過ぎて漕ぎ行く」と結びついていて、時間的・空間的リミットの侵犯を意味する。要するに、島子が岸辺を離れてから、生半可ではない時間が流れ、その消息を誰もが疑わざるをえなくない事態に達する。その後の日本で、「七日」は仏教的に、死者が成仏するための時間を測るための一単位となるが、境界を越えていたものが、もはや生還するはずがないと判断されるまでの猶予期間として「七日」を理解せよ、というわけだ。
パスポートの有効期限のような。
離婚請求の根拠となる別居期間のような。
「七日」以上の外泊にはそれなりの許可申請が要る。後に島子が思い立ったように「しましくは家に帰りて父母に事も告らひ」というのは、ホームシックだの、マザコンだのと言う前に、「七日」以上の無断外泊の禁を犯したものの良心の呵責からくる。仮に事後承諾であっても「承諾」さえあればという島子の人間世界への忠誠の証明。
次が「三年」(みとせ)である。「七日」が「七日もの日数」であるのに対して、「三年」は「たったの三年」であるらしい。普通なら故郷の風景が決して変貌するはずのない取るに足りない時間。「七日」が人間関係の中で測られた心理的時間なら、「三年」は世界を緩やかに変貌させる歴史的時間を尺度に定められた期間なのだ。
まさか「三年」で故郷がすっかり変質することはありえないという島子の判断の根拠になっている現世の慣習的な掟の時間、それが「三年」だ。
島子のアイデンティティーが郷里で人間によって保証されるのは、最高「七日」。
そして島子の祖国の安定が期待されている期間が、最低「三年」。
法的な時間と、政治的時間。
カサノヴァのような遍歴をするお歴歴の御伴をしながら、男たちが夢見るオージー願望を代弁するポストにあった高橋虫麻呂は、みずからの生活基盤の崩壊を恐れる宮廷人たちの二重の時間感覚を表現していった。
そこにはもはや『雄略紀』の浦嶋子のように「癒しとしての時間」に対する期待などない。ただ権力装置の中にあって自由が許される時間的リミット「七日」と、その権力機構の安定に期待できる時間的リミット「三年」があるきりだ。
法の下にある存在は、こうして時間においたてられながらしか、性にうつつを抜かすこともできない。この時間神経症から逃れられないのが宮廷人であり、とどのつまりは私たちなのだ。
そして、高橋虫麻呂は、時間の病から解き放たれる幸運に恵まれながらも、その選ばれた幸運を取り逃がした「愚人(おろかびと)」としての島子を笑いながら、時間の逆説を笑い、自分たち宮廷人の悲しい性を笑う。
時間が癒しのためにあるのでなく、ひとを追い落とし、失脚させ、たいせつなものを失わせるための時限爆弾として世界を統べていることに対する諦めの物語。
浦の島子から太田豊太郎まで、男たちの神経症は男たちの文学においては定番とも言えるような選ばれた主題のひとつであった。
『雄略紀』においては開かれた亡命者の物語であったはずの物語が、愚かな落伍者の物語として読みかえられて終る。
時間に追われる日常性と絡まりあった性と、時間からの解放をもたらす究極の性。私たちは案外、性を目の前にしたときにこそ神経症に陥りやすい。日常性と性を両立させようとすると、そこに必ず綻びが生じるからである。
実は、ひとを待たせた側の島子の時間的悲劇(時間の経過によってもたらされた悲劇)の物語は、後に、平安時代の女性作家たちによって、異なった角度から文学化されることになる。
刻一刻をやりすごすために、書かれた「日記」――がそれだ。
帰ってこない男を待ち続ける女。それは要するに、島子の約束を信じて待ち続ける常世の女の途方もない時間、しかも一日一日を来るようにして、刻みを入れられながら積み重ねられていく時間、「七日」というはっきりとした期限を持たない無限の待機を強いる宙づりの時間のとりことなった女。
島子を苛む神経症と、常世生まれ、常世育ちの妻が置かれた無限地獄。
不毛ともいいたくなるような文学の退屈さを準備する時間性が、高橋虫麻呂の歌の余白にはもう書きこまれている。
数量的に区切りうる種類の時間と、計測不可能な時間の対比。
閉め切られた門の前でたちすくみ、老いていく男。去勢コンプレックス。
開け放した扉の前で、首を長くしたまま老いていく女。受動コンプレックス。
この対比の中に、男と女の物語をそれぞれ封じこめてしまった文学。「日本文学史」は、この定型を如何にして克服できるのだろうか?
人生の多様さ。現世からの脱出。そういったものを先頭を切って語っていけたはずの浦島説話だが、日本文学の始まりの時代に、浦島説話はありきたりな性と婚姻の不幸の物語としてのみずからを図らずも封印してしまった。
あわれ。