国境と文学

浦島太郎 千五百年の孤独

西 成彦

第8回

ディアスポラ

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仙界での放恣な生活に代えて、地上では「声色好むこと莫く、真性損なうこと勿れ」とは神女(=乙姫)の謂である。「清醪芳醴は性を乱す毒なり、紅花素質は命を伐つ斧なり」――後に「六根清浄」の教えとして仏教的文脈を伴って流布することになる養生訓が、女の口を通して語られることによって、貞節の契約として伝達される。「嶋子、若し此の言を守り永く誡を持せば、万歳の契を終え、再会の志を遂げん。」

仙界において「性」はそのまま性であった。ところが地上的な「色」は「性」を損なう。

同じく仙界においては「性」の奥義であった「方」や「術」は、地上においては行動を律する「法」として抑圧的に作用しなければならない。

仙界において、「性」の奥義を科学的に記述する手段であった「言」が、地上に旅立つ浦島に対しては「法」を授ける手段と化す。契約の言語と化す。

『續浦嶋子伝』は単なるポルノグラフィーではない。これは「法」の発生を告げるテキストでもある。

はじめに言葉ありき。

しかし、楽園での言語と、楽園追放後の浦島を拘束する言語とは、完全に異質なのである。

「吾聞く、君子人に贈るに言を以ってし、小人将に人に贈るに財を以ってす」――孔子との別れに際して老子が贈ったとされる別離の言が、ここに引かれることで、「言葉」は「法」の言語として、あらたに始まるのだ。

漢文脈を通してどれだけ多くの「法」がヤマトの地に発生したことか。

いかに多くの「法」がヤマトにおいては異界からの贈物として説明されたことか。

『續浦嶋子伝』においても同じことが起こっている。

シナイ山としての仙界。神女を前にして、浦島はモーセのように、断食修業の後に、律法を授かるのだ。

神的な「性」そのものである天地創造の営みは、地上においての世俗的な再現を禁止され、神は地上の営みに対しては「戒律」をもって制する。

浦島の楽園追放物語は、アダムとイヴのそれとは無縁である。キリスト教的な「原罪」主義に回収される以前の古代ユダヤ教の「プロテスタンティズム」との類似。

しかも、ここでは「法」の発動が、「財」との対比においてなされているところに注目すべきだ。

神女は、「我、君子にあらずといえども(…)子に贈るに言を以ってせむ」と言うには言うのだが、彼女が浦島に授けるのは「裏(かさ)ねるに五綵の錦繍を以ってし、緘するに万端の金玉を以ってした」――「玉匣」だ。

「玉匣」という贈答品は「玉匣の緘を開くこと勿れ」という「言」のシンボルとして、浦島の手に手渡されるのだ。

物神崇拝を禁じた神の意に従いながら、その神の「言」を記録した「トーラー」が物心崇拝の対象となるユダヤ的フェティシズム。

仙界の「法」とは、このようにして「言」と「財」――「内容物」と「容器」――の関係の措定とともに与えられる。

「財」を「法」たらしめるのが「言」である。

「言」を「法」として機能させるための物神が「財」である。

ところが地上において、このような託宣が世俗化され、空洞化される過程こそが、浦島伝説なのだ。

しかも、地上に帰還した浦島の行動は、プラトン主義者のそれだ。失われた「イデア」を彷彿とされる「像」を愛する浦島は、封印された「真実」を開封せんとして「法」を侵犯する。「財」も「言」も地上に戻った浦島にとってはことごとくが、仙界の記憶のよりどころとして神秘化され、浦島は「法」の門の前に立ちつくすのだ。

「桑田変改して家園河濱となり、水陸推遷して山岳江海となる」――この地上世界の有為転変を前にした浦島は、仙界の「法」を手にしたまま、地上の変化の法則を思い知ることになる。

「言」によって封印去れた「法」と、「言」によって祖述されるべくして横たわる地上の法則。

ここで浦島は、契約的言語を裏切ってまで、地上の自然法則の祖述者たりうる可能性を授かるのである。

モーセでもあり、プラトンでもあり、さらにはスピノザでもありえたかもしれない存在としての浦島。

「浦嶋子は何許の人なるかを知らず。」

仙界の「性」の手ほどきを受け、地上に生きる「養生」の核心を伝授され、さらには地上を統べる法則の神秘にたたずんだディアスポラ的英雄をめぐるこの物語は、「性」と「色」、「法」と「侵犯」、「言語」と「失語」の中間にしか居場所を持たない中途半端な存在のとっておきの寓意である。

雄略帝以降、ヤマト王権の神話として、ヤマト王権への服属の証として記された丹後国の民話として、また万葉歌人のオルギア願望の形象化として幾度も語られてきた浦島の物語は、新しい言語的思考の出発を語って、日本思想の始まりを記すことになる。

中国伝来の理想世界、中国伝来の法思想、中国伝来の歴史記述法――これらはヤマト王権の確立にそれぞれ活用された政治的テクノロジーそのものだが、『續浦嶋子伝』は、それら政治テクノロジーの言語的自己表出を前にして、ただ佇むだけの存在の物語だ。

楽園喪失と回復不能な無垢と有為転変を前にした無力さ。

同じころ、仏教は言語の効用を説き、その政治力を主張しはじめるが、『續浦嶋子伝』はただひたすら言語の暴力性と、ひとを失語にまでおいこんでしまうような世界の変容を前にした言語の無力さだけを語って、浦島を世界政治の外に追放してしまうのだ。

「性」を語るテキストが同時に「性」からの疎外を語る。

「其の後、金梁(=鼻梁のことか?)を鳴らして玉液(=唾液のことか?)を飲み、紫霞を餐して青衫を服す。頸を延して鶴立し、遥かに鼈海の蓬嶺を望む」――私たちはこの浦島の追放された姿から始めることなしにはディアスポラの思想を紡ぐことができない。

ユダヤ的メシア待望論からも、キリスト教的贖罪論からも、スピノザ的エチカからも遠い文学という荒野の思想のはじまり。

仙人世界からの自発的離脱を「愚行」ととらえる『万葉集』の大らかさと、禁欲的「地仙」のディアスポラを描く『續浦嶋子伝』のあいだには大きな断絶がある。

(第8回了) 
Upload May.26 1998

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