ディアスポラは、長いあいだユダヤ教徒の放浪をあらわすタームとして流布してきた。イエルサレムの神殿崩壊からシオニズムの成立まで、彼らは離散状況を生きながら、パレスティナにあるよりは、異郷の地にあることの方をよしとした。救世主の到来までは。その後、シオニズムはディアスポラの終焉を予感させるものとしてあらわれたが、約束の土地においても、ユダヤ教徒との放浪と迷走はまだまだ続く。要するに、救世主の到来に至るまで、ユダヤ教徒は安住することのないディアスポラの民なのだ。パレスティナ=イスラエル国家の内にあっても、異郷の地にあっても、等しく。
ディアスポラとはこう理解することによって、こんどは非アフリカの地に一度は散って離散状況に陥ったアフリカ系市民にもそっくりあてはまる。
アフリカを追われ、新大陸に渡った後、そのディアスポラを耐えつづけた人々にとって、アフリカ回帰は積年の夢ではあったが、その夢の実現が可能になってからの人々の選択は、かならずしもアフリカに回帰する方向へと収束していきはしなかった。
ネグリチュード、ラスタファリアニズム――イスラエル国家創設期のディアスポラ状況からの脱出の夢は、ブラック・シオニズムという運動をもたらした。しかし、この種のブラック・シオニズムがアフリカ外のアフリカ系市民の選択の主流にならなかったことは、ユダヤ系シオニズムがきわめて限定された運動に終ったこととほとんど一致する。
しかも、脱植民地主義時代にさしかかった一九六○年代以降、ディアスポラの民の多くは、こんどは旧宗主国や北米への移動を開始した。
今日私たちがディアスポラを考えるとき、この文脈を抜きにして語ることはほとんど無意味である。イスラエル建国がユダヤ人にディアスポラの終焉を意味したと考えることの過ちは、パレスティナ国家の問題と密接に関連している。パレスティナ=イスラエルに帰郷したユダヤ人は、あくまでも帰郷した浦島のように、「旧郷の遷変を悲嘆し、仙遊の未だ央(つ)きざるを想像す」る以外にない。
イスラエル(アフリカ)にあっても、異郷の地に留まりつづけても、またあらためて新しい土地を求めて旅立っても、彼らの「仙遊は央きる」ことがない。「玉匣」を開封しようがすまいが、彼らは「地仙」として生き続けるより他ないのである。
そしてそのときにはじめて彼らは同じ「地仙」の境遇にある仲間を見出すだろう。
先日来日したマリーズ・コンデの軌跡とは、まさに浦島太郎の足跡に似ている。
ネグリチュードの響きに魅せられ、グアドループからパリへ留学に出た彼女は、ネグリチュードの響きに魅せられたこともあって、それが当然のことであるかのように、次はアフリカに向かった。ところが、彼女はアフリカ回帰に失敗する。その失敗を彼女は処女作『ヘルマコネン』に書く。
このときはじめて彼女はディアスポラを生きはじめる。彼女はグアドループもパリもアフリカも自分自身の場所ではないと考える。そして、どれだけ多くのカリブ人が彼女と同じようにして自分の場所を持たないまま「地仙」として生きてきたのかをはじめて知るのだ。
売買の対象であった奴隷時代の「地仙」の予期せぬ移動からはじまり、奴隷解放後の流動化時代の移動労働者時代の現実主義的な「地仙」の放浪を経て、上京願望とアフリカ回帰願望が高まった第二次世界大戦後の母体回帰的な「地仙」の再移民、そして再出発までまで。
彼(女)らは生命の安全を求め、欲望の充足を求め、単一なアイデンティティーのよりどころを求めつづけた末に、「地仙」としてディアスポラに身をあずけることを自覚的に選択することになった。
しかし、彼(女)らの性の遍歴には重大な言語的問題がつきまとう。
彼(女)らには父祖の地の言語と、性的成熟を経る中で付随的に身についた言語と、文字教育を通して獲得した言語がある。
古代の浦島説話は、蓬莱からの帰郷者である島子を羨望するヤマトことばの歌人高橋虫麻呂の長歌を唯一の例外として、漢文で書かれた。それが当時のヤマトでは蓬莱の言語そのものだと理解されていたからだ。蓬莱世界での性は、ヤマトことばへの翻訳を許さない共約不能なものであったからだ。
ディアスポラの文学は、まずどのことばで書くかを選択するところから始めるしかない。みずから筆をとることのなかった浦島の伝記については、それを代行する作者自身が選択しなければならない。『續浦嶋子伝』の作者は、蓬莱での性生活の描写に重きを置きたい一心から蓬莱の言語の模倣を試みた。逆に、高橋虫麻呂は長歌形式を取り入れることによって、浦の嶋子に対する羨望をヤマトの文脈から語るという視角を獲得した。こうしてディアスポラを生きた存在の物語を描くための形式が、一通り出そろったところにヤマトの文学の一定のパラダイムが確立したのだ。
クレオール語で思春期を過ごし、パリで自立的性生活の主導権を握りはじめ、アフリカで結婚・出産・育児の経験に入り、そうした自己の経験をフランス語で書く作家となり、その後も大西洋の西と東を、低緯度と高緯度のあいだを往復しながら、過去のアフリカ系新大陸人のディアスポラを描き続けるのに、フランス語を手放さないコンデの浦島物語と比較したとき、平安朝時代の浦島説話の抽象性は無惨としか思えないほどだ。
ディアスポラの実感を持たないものがディアスポラを描いてしまう文学の抽象性――平安朝宮廷文学の二言語使用の平板さのおおもとにある。
移動と行軍をつづけながら版図を広げ、異性関係の環を広げ、遷都を重ねることによって権力増大の可能性を験しつづける天皇たちの移動は決してディアスポラではない。
天皇の治める領内を旅しながら、エキゾティックな性を享受しながら、それでも「常世」へと招かれる幸運にはめぐりあったことがないのを嘆きながら、浦の嶋子の愚を説きたてる万葉歌人も決してディアスポラの境遇を知らない。
いや『續浦嶋子伝』の筆者もまた、漢籍を通じて異郷の地の性をなぞる術を案出するだけで、ディアスポラの何であるかを知りはしなかった。
しかし、古代ヤマトはかならずしもディアスポラと無縁なひとびとの共同体であったわけではない。
いいかえれば浦島伝説を正しくディアスポラの文学として聴き取り、それを再話しうる民衆の存在を度外視していいというわけではない。
それではそのような民衆にアクセスする方法として何があるか?
次回からは、ヤマトの宮廷文学の外部を眺めてみることにする。