「バルカン動物園」という題に惹かれて、平田オリザの主宰する青年団公演をみにいった。旧ユーゴの現代史を豪放に描いたクストリッツァの映画『アンダーグラウンド』の冒頭近くで、動物園が爆撃される場面を思い出したからだ。逃げまどう動物たちのグロテスクな滑稽さと悲惨が、戦乱に翻弄される人間たちの運命を予告するような印象的なシーンだった。
だが、ある意味ではとんだ思い違いだった。日本の演劇から足が遠のいて久しく、ここ数年精力的な活動をしているらしい平田オリザの芝居を知らなかったのがうかつだった。こまばアゴラ劇場の小さなホールに入ると、そこに繰り広げられるのは戦争の活劇でも悲惨でもなく、穏やかな大学の理科系研究室のある日の午後だ。
そこでは生物学者や物理学者や心理学者たちが集まって、脳に関するいろいろな研究を進めている。脳型コンピューターの開発や、類人猿(ボノボ)を交配して進化させる実験や、チンパンジーのクローンを使った脳機能の研究などが共存している。
考えようによってはおどろおどろしい世界だが、研究室の日常は何とものどかだ。たむろする研究者たちが、日常に組み込まれたそれぞれのの仕事の話を世間話のように交わし、かたわらでは学生たちが教育実習のリハーサルをしていたりする。二〇一〇年ごろの近未来という設定だ。
事件らしい事件と言えば、この日アメリカから日系の女性が、死んだ婚約者で世界的な大脳生理学者の「生きた」脳の保管を依頼に来るということぐらいだ。その依頼を受けるかどうかが今日のミーティングの課題だ。だがそれも、ここにたむろする登場人物のお喋りのなかで、留学やそれに絡むちょっとした愛情のもつれや、ある女講師の自閉症の子どもの話以上に際立っているわけではない。場面はこの研究室だけ。そこに人が出入りし、入れ替わりテーブルに座った人たちが、居合わせた顔ぶれに見合ったお喋りをする。
たしかにこれは徹頭徹尾作られた芝居なのだが、観客席でこの光景をながめていても、芝居をみている気がしない。俳優たちは芝居がかった演技をいっさいせず、みごとなまでに日常のお喋りを再現している。だから観る方は、たまたまそこに居合わせて研究室をのぞいているといった具合になる。時間はまったく原寸大で、ステージに流れる時間は、そのまま観客が芝居を観ている時間だ。だから劇が終わったあと、俳優たちの去った研究室のテーブルに座ってそこにある本を手にとっても、ほとんど違和感なく時間はそのまま流れる。
舞台にはチンパンジーのクローンも生きた脳も登場しない。培養液に漬かった恋人の脳に愛をささやくなどという場面ももちろんない。すべてはただ会話のなかで語られる。それだけに、そこで話題になる現実の不気味さが、確かなかたちをとらないまま脳裏を生々しくよぎることになる。
要するにここでは、演劇的なものが徹底的に除去されている。ふつう演劇は、舞台に別の時空を作り出すことで、日頃の現実とは違う世界を観客に体験させるのだが、この芝居は芝居らしさの要素をいっさい消して、どこまでも現実に地続きであることを装っている。装っているというのは、その「無作為」が作られているからだ。
そのために、お喋りを通してこの場(研究室)に浸透する世界の様相が、見えないまま妙にリアルに浮かび上がってくる。その現実はまさにバルカン半島の動物園さながらに、グロテスクな混沌を呈している。要するにこの芝居は、もはや要約したり断片化したりしては造形できない現実に、逆にわれわれの方を開いてゆく装置になっているのだ。
脳や知性や生命が「もの」として扱われる科学主義的な世界の日常、それを再現する舞台にときおりきらりと「命」の別の様相が浮かび上がる。科学に期待して婚約者の脳を生き続けさせようとするナオコは、わたしが近づくとふとかれの脳が反応するような気がすると言う。ある女科学者は、自閉症の息子が「どうして女の子が花が好きなのかわかった」とうれしそうに叫んで「はい」と差し出した花に「泣いた、泣いた」とあられもなく語る。そこには科学漬けの世界にあっても、人が生きるということがどんなものなのかが確実に表現されている。
その見えないきらめきがドラマのないこの劇を確かに成立させており、そこに現代世界や演劇の現状に対する平田オリザの並々ならぬ批評意識が感じられる。
脳死移植法案が国会で成立したのもこの芝居の公演中だった。われわれが生きているのは、科学の「恩恵」のために生死さえ法律で定めなければならない不分明な時代であり、そうい時代をこの小さな芝居はみごとに映し出していた。