羽根木雑記

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「センシティヴ・カオス」

―日暮の透視図 2―

西谷 修

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 まっ青な空の下に波打つ黄土色の砂、たとえば映画『シェルタリング・スカイ』のスクリーンに切り取られた砂漠は圧倒的に美しい。シベリアの上空から見る大蛇のような川のうねりも、景色ばかりでなく生き物の姿態もときにすばらしい美を感じさせる。

 その美しさに惹かれて人はそれを再現しようとする。洞窟壁画からずっと時代を下って現代まで、ひとは美を再現しようとしてきた。写真はそれを精密化し、やがて定着されるイメージは動くものとなった。だがそれでも再現の欲望に充足はない。というのも、それはいずれなまの物の「再現」にすぎないからだ。

 もちろん芸術は「再現」ばかりではない。それは未知の美や感動を「創出」しもする。むしろ現代の芸術は、再現よりも構成へと、あるいは新たなヴィジョンの創出へと向かっている。科学とテクノロジーの時代には、人間がものを「発明する」のと同じような仕方で、芸術家は「美しいもの」あるいは「新奇なもの」を創り出す。

 それは、神に代わって人間が世界の主人になり、神の創造行為が人間の生産活動に置き換えられた時代の刻印である。そこで美を創造することは、人間の崇高さを示す特権的な営みになる。だから芸術は天才という考えと結びつく。

 ところが今世紀に入ると、芸術はテクノロジーというそれ自体コピー可能な手段の発達によって変質する。その先端にコンピューター・アートがあるわけだが、だれもこの種の作品の背後に生身の芸術家を見はしない。とはいえそこではやはり人間が、自動車を運転するようにテクノロジーを駆使して、新たな美の形を創り出そうとしている。テクノロジーとアートがそこでは蜜月を生きている。

 ついでに言えば、芸術が「アート」と呼ばれるようになったのは、英語がありがたがられるせいばかりではない。「芸術」という言葉自体が明治の時期にできた「アート」の翻訳語なのだが、その時代の語義のしみついた「芸術」という語では、近年の現象は捉えにくくなっている。むしろ技術という意味を含みもつ「アート」という語の方が、現代芸術の大きな変容を適切に表現できるという事情があるのだ。

 「芸術」は創造の天才を想起させるが、「アート」の背後には造物主はいない。たぶん現代のアーチストたちは、自分が神のような創造者でないことを知っているだろうが、ではかつての芸術家、そして現代のアーチストとはいったい何なのだろうか。

 そんな疑問にふっと触れさせ、さりげないく答えを示唆したのが、最近新宿にオープンしたNTTインターコミュニケーション・センター(ICC)の『センシティヴ・カオス』という展覧会だった。

 ここに展示された作品というより装置は、何か未知のものを作り出しているわけではない。科学が明らかにした自然の物理的作用を、いわば切り出して提示しているだけだ。

 たとえば、大きなたらいのような円筒のなかに細かい砂と扇風機がおかれ、外のノブで風向きを変えると、砂が流体のように舞い上がって、刻一刻と地形を変化させる。(N・カートン「風が演ずる風景」)。

 あるいは、高さ三メートルばかりの二枚のガラス板の間を、シャボンが六角形の模様を作ってのぼってゆく。上までいっぱいになると動きは止まり、透明なリボンのようなシャボンの断面が時とともに微妙な色彩をおびて、やがて水の重みで薄くなって消える(J・オッシ「デリケートなカオスの構造体」)。

 シャボンの薄膜がこの場合一二〇度で交差するという性質や、流体力学の法則は、日常的にそのまま体験されるわけではない。だが自然はそう言ってよければ生きており、それも総体として生成変化し続けている。そしてわれわれ人間という観察者も、その大きな運動のなかにあるのだ。

 その生成の流れにひとつの切断面を設けると、そこにふだんは見えない運動の相があざやかに現れる。ここでアーチストたちがやっているのは、何かを独自に表現することではなく、見えないまま生起している自然の多様な作用に滑り込むように介入し、それを「表現」へともたらすことだ。その慎ましい介入が「美」を目に見えるものにする。

 自然のなかでの感動を反復し再現しようとする人間の営みは、美の理想を抱かせ、芸術の理念を生みだし、産業と科学とテクノロジーの時代に、そのすべてを駆使したイメージの創作へと変貌している。けれども科学のもたらすヴィジョンはまた、人為的に構想された「美の追求」の眩惑から抜けて、最初の感動に、人間が作り出すのではなく、人間に与えられたものに対する単純な感動へと人を立ち返らせもする。『センシティヴ・カオス』の作品群が示したのは、科学の時代のアートのそのような局面である。

(1997年9月)
 Upload Jun.7 1998

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