羽根木雑記

1-3

「センシティヴ・カオス」

―日暮の透視図 3―

西谷 修

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 この頃、見慣れないものによく出会う。渋谷のシアター・コクーンで観た『ザ・ケイヴ』もそのひとつだ。

 ステージに五面の大型スクリーンが並び、そこに少しづつ違うビデオ映像が映し出される。そしてその下に十数人のオーケストラが陣取り、四人の歌手が歌う。ただし、オーケストラは画像の伴奏をするのではなく、スクリーンの映像と緊密に連携して、視聴覚の多元的な語りの交響を作りだしてゆく。

 ビデオ・アートの草分けのひとりベリル・コロットと、ミニマル・ミュージックから出発した現代音楽の作曲家スティーヴ・ライヒが共同製作したものだが、見慣れないのも道理、これはこの作品によって初めてなされた新しい劇場芸術の試みなのだ。

 ビデオと現代音楽の結合といっても、前衛的なおもむきはほとんどない。それはテクニカルな部分に埋め込まれており、作品はほとんど古典的といってよいほどの典雅さをそなえている。

 三幕からなる全体の構成がそうだし、モチーフも具体的な現実に結びついている。

 テーマは現代まで残る旧約聖書の史跡で、一神教の祖アブラハムの一族が埋葬されたとされるマクペラの洞穴(ケイヴ)だ。この洞穴はいま、パレスチナ紛争の焦点のひとつ、ヨルダン川西岸地区のアラブ人の町ヘブロンに現存するが、実はこれはユダヤ教とイスラームの共通の聖地なのである。というのも、アブラハムはユダヤ人とアラブ人との共通の父祖だからだ。

 聖書によれば、この族長には二人の息子があった。はじめ妻のサラに子がなかったので、サラは侍女のハガルを夫に与えて子を得させる。その子をイシュマエルという。ところがその後、老齢のサラに神が子を約束し、やがてサラはイサクを産む。このイサクが父を継いで後のユダヤ人の祖となるのだが、イシュマエルは母とともに追放されて砂漠にさまよい、神に救われて後のアラブ人の祖となる。

 この物語を背景に、コロットはこの地に住むユダヤ人とアラブ人、それに作者たちの住むアメリカの多様な人びとにインタヴューし、あなたにとってアブラハムとは誰か、サラとは、イシュマエルとは、といった質問を向ける。つまり過去を描くのではなく、現代の人びとに文化の「記憶」を問うわけだ。

  その問いに答える人びとがスクリーンに映し出される。けれどもただのインタヴューの再現ではない。人物の語りある断片が切り取られ、声の抑揚から旋律が起こされて、それをオーケストラが演奏する。その演奏は語りに重なるが、さらにその断片が反復され、それに伴ってイメージも反復される。そしてわれわれはいわば音楽化されたビデオに立ち会うことになる。

 そんなインタヴュー場面の連続を、聖書の詠唱がリレーする。同時にその字句がスクリーンに英語、フランス語、ヘブライ語などでタイプされる。あるいは手書きで筆記される。そのときはタイプの音や、紙を削るペンの音がそのまま音響として取り込まれる。

 こうして映像と言葉と声と音とオーケストラによる複合的な「語り」が織りあげられるのだ。ライヒの作曲だが、その水も漏らさぬ緊密な結合ぶりには舌をまくばかりだ。

 作品の全体は、第一幕がユダヤ編、第二幕がアラブ編、第三幕がアメリカ編として構成されている。係争の地のユダヤ人とアラブ人の記憶は、まっすぐに聖書の過去に遡り、二つの民が運命を異にする兄弟として、同じ起源を分かち合うことを確認させるが、第三部のアメリカは、その起源を現在のなかに離散させるものになる。

 聖地を遠く離れたアメリカでは、アブラハムはリンカーンの名前でしかないし、イシュマエルは「荒野のカウボーイ」、そして黒人女性にとっては「サラは黒人だ」ということになる。ここでは聖書の物語はもはやルーツではなく、自分をなぞらえる類型でしかない。前の二幕との対照は、起源の物語のもつ呪縛の毒消しのようでおもしろい。

 またインディアンの青年は「まったく知らない」と答えるが、たしかに今の世界は一神教の伝統に立ち戻ることで和解できる人びとだけでできているのではない。

 だがともあれ、すばらしいのはインタヴューの内容というより、のっけからすでに古典の風格をもつこの作品の全体である。生まれて年浅く得体の知れなかったビデオ・アートと、既成の音楽概念を崩して実験を続ける現代音楽とが、みごとに結合して新しい表現のアンサンブルを作り出している。そしてこれが、たんに新しい表現形式の創出というにとどまらない魅力をもつのは、この共同作業が作者たち自身の文化への真摯な問いに支えられているからだろう。

(1997年10月)
 Upload Jun.7 1998

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