街で見かける若者たちの服装に、近頃妙ななつかしさを感じることがある。すその広いジーンズに、ちぐはぐな柄のセーターや上着、底のぶあつい靴、シャギーの入ったバサバサの髪。もう四半世紀にもなるが、一時代の若者がこれによく似たいでたちで街を闊歩(かっぽ)していたものだ。
「ストリート系」と言うのだそうだ。街にたむろするストリート・キッズ風ということのようだが、言うほどに不良っぽくもない。昔のビートルズ世代に比べると、経済的な豊かさのベースがある。それに色はカラフル、形のアンバランスを平気で取り込むあたりでも、いまの若者の方が融通(ゆうずう)がきいている。それでも、「ストリート系」と昔の「街頭派」には、どこか気脈の通じる節がないでもない。
七〇年前後は学生運動などで世の中が騒然としていた。アメリカのベトナム反戦運動の高揚やヒッピーばやりの流れで、長髪やベルボトムのジーンズには、何となく「反抗」の臭いが漂っていた。時のスターのビートルズからして、ジョン・レノンが「ラヴ・イズ・ピース」と歌い、オノ・ヨーコと反戦ベッド・インを演じたりする程度には政治的だったのだ。
今はどうだろうか。不景気といってもモノはあふれ、欠如感のようなものはない。それに世の中には、手本になりそうなことより、ひんしゅくを買うことがごまんとある。けれども「世界を変える」といった雄壮な夢の余地はもうないし、政治に未来は託せそうもない。そこで若者たちは、できあがったシステムのすきまからはいだして、そっぽを向いて「勝手にやる」とばかり、自分の領分を作り出すほかない。
「ストリート系」にはそんな趣がある。その手の読者をもつ雑誌『ジッパー』あたりをのぞいてみると、これが従来のファッション誌とはまったく違う。モード写真というより、一見スナップ風で、ポラロイドのような色合いの、それもモデルっぽくないモデルの写真が並んでいる。見方によっては幼稚でダサイ。だがそこには、既成の観念にとらわれない自在さが感じられる。古いものへの対抗意識というのではなく、通念とは無関係に若者たちの好みを押し出しているふうだ。
かれらの好みは、業界やコマーシャリズムが作ったものではない。この系統で人気のある高橋盾とか、荒川眞一郎といった若いデザイナーも、これまでのファッション界のエリートたちとは違う経路で登場してきた。高橋は原宿で服を売り、それが口コミで人気を得た。その意味でも「ストリート」の生まれだ。パリで仕事を始めた荒川も、成功したのは買い手の若者に支持されてだ。
大阪発の「20471120」というブランドもある。デザイナーは中川正博とリカの二人だが、ブランド名にかれらの名前はない。デザイナーが「クリエーター」つまり「創造者」として君臨するという業界の習わしに、かれらはもうとらわれていないのだ。
そんなかれらも今やコレクションの常連だが、荒川の今季のコレクションはビデオクリップを招待状代わりに使い、戦後史のフィルムの断片を重ねて、そこから生まれるものの予感を「蚕」に象徴させている。一方、高橋は、かつての第三世界革命のヒーロー、チェ・ゲバラからのインスピレーションでコレクションの全体を構成した。
高橋の場合はこれまでのストリート的な面が影をひそめ、この様変わりに従来のファンが失望したとの風評もあったが、ゲバラを持ち出した「理念性」は、おそらく「ストリート」の感性に無縁なものではないだろう。
戦後史といい、ゲバラといい、ある意味では手あかがつき、色もついた素材である。だが「ストリート」の感性は、その色つきの素材を洗い直して新鮮にするかもしれない。数年前にヒットしたスパイク・リーの映画『マルコムX』が思い出される。この六〇年代の黒人反体制運動のヒーローは、その「過激さ」のためにその後ずっと忘れられてきたが、左翼や反体制の神話も崩れ去った時代に、リーはこの英雄に再び輝きを取り戻させた。
価値観が崩壊した不分明な時代と言われるが、それは人びとがまだあまりに既成の見方にとらわれているからでもあるだろう。だが、今に比べてものごとが「はっきりしていた」時代など知らない若者たちは、自分たちの「分かり方」をそれぞれの場で編みだそうとしている。それを「若さ」と言うのだろうが、しばらく見えなかったそんな「若さ」の胎動がファッションの領域にも見え始めている。