神戸市は須磨区の鷹取駅近辺に、下中島公園という小さな公園がある。川をはさんだすぐ向かい側は、去年の夏、例の児童殺傷事件で全国から注目された須磨警察署だ。その建物はテレビで何度も見たはずだが、近くにこんな公園があるとは気づかなかった。
ここには十数戸のコンテナ・ハウスが並び、「しんげんち」という名の集会所を中心に、今も被災した人びとが暮らしている。地震からすでに三年がたち、町の中心部は復興して、住宅の供給もほぼ整ったといわれている。それなのになぜこの公園の人びとは避難所にとどまっているのか。
震災はあらゆるものを破壊し、多くの犠牲を生み出した。だが破壊の作り出した空白は、現代社会が見失っているものを一瞬かいまみさせてもくれた。
都市という社会生活の枠組みが一挙に崩れたとき、瓦礫(ガレキ)のなかに投げ出された人びとの示したふるまいは、無関心や冷淡さとは正反対のものだった。水や食料の確保も、暖をとるのも、けが人を救い出すのも、その場に居合わせた人が互いに手を貸し合って急場をしのいだ。とりたてて善意を意識することもなく、あたりまえに人びとが助け合った。そのありさまは地震にもまして世界を驚かせたほどだった。
ところが「無政府」の数日が過ぎて行政機能が回復し始めると、不合理なことがあちこちで起きる。避難所は「公認」と「非公認」とに区別され、救援物資は「公認」のところにしか配られない。また届いた毛布は、全員に行き渡らないから不公平だというので、震える老人を前に山積みのままになる。
やがて仮設住宅が建つ。公園の被災者たちは、そこが「公共」の場所だというので追い立てられる。住宅が建つようになっても、人びとはもともと住んでいた場所には戻れない。市は住宅の数だけは用意するが、市街地に供給は少ない。都市整備のためということで、住宅が建つのはたいていは周辺部だ。
仮設の住民は徐々に減り、統廃合のたびに残った人は別の仮設へ引っ越すことになる。そんな暮らしに疲れた人は、希望が少なく空きになった不便で殺風景な住宅にあきらめて入る。だがそのときにはもう疲れ果て、慣れない場所で新しく生活を作り出すだけの気力はない。
その一方で神戸空港や淡路大橋をはじめとする都市「復興」は鳴り物入りで進められる。復興計画の事業には震災前に計画されたものも多いという(『世界』二月号による)。以前には法的規制でできなかったものが、「復興」名目の規制緩和で工事ができるようになったのだ。これではまるで震災を利した開発だ。
都市のインフラは整備されても、すみかを失い離散した人びとは「復興」の陰でしだいに磨滅し消耗してゆく。まるで、地震の後で「復興行政」という二次災害に遭っているかのようだ。
下中島公園の人たちがここに踏みとどまるのは、その「二次災害」によって、ついに「復興」という名の人間の廃墟の瓦礫になることを拒否するからだ。
かれらはただ元の生活に戻ることを求めているのではない。それよりむしろ、現在の都市が失い、瓦礫のなかに一瞬よみがえった、あの裸の人間の互助や共生の経験をもとに、町を一から作り直すことだ。その「夢」を支えに、世話人のTさんは他の仮設住宅の人びとと連携して粘り強い活動を続けている。
避難所は今でも「地震の翌日」だ。そこにはよくも悪しくも、現代の都市が管理と機能性によって封印してしまう生活が息づいている。だから被災地の外からも、さまざまな人が引き寄せられてくる。最近も下中島公園にひとりの絵描(カ)きが住み着いた。かつて新宿西口でホームレスのダンボール・ハウスを絵で飾り、東京都が設置した「突起物」に絵を描いて逮捕拘留された武盾一郎だ。
かれが絵を描くことには政治的意図があるわけではない。だが、根っからのストリートの絵描きであるかれは、行政管理となまの生活とがせめぎ合うこんな境界地帯につい身を置いてしまう。そこから生まれるのは「支援」でも何でもない「共感」のタブローだ。
Tさんたちもいつかこの公園を撤収する日がくるだろう。それが、闘いに疲れて「復興」のなかに埋もれる日なのか、それとも新しい生活の拠点を手にする日になるのか、そこに震災からの「人間の復興」の試金石があるように思われる。