最近、縁あって全国教誡師連盟の研修会に呼ばれて話をする機会をもった。教誡師とは、刑務所で服役者の「教務」活動にあたる人びとだが、死刑囚の教誡にあたるのもかれらの重要な役目だ。『原理主義とは何か』の「あとがき」で鵜飼哲が触れているティム・ロビンスの『デッドマン・ウォーキング』('96)で、ヒロインの引き受ける役所がちょうどそれにあたる。
アメリカでこの制度がどうなっているかは詳しく知らないが、日本では戦前は刑務所制度に組み込まれたかたちで本願寺系の僧侶がこの役にあたっており、戦後は「信教の自由」の原則もあって浄土真宗だけでなく、他の仏教宗派はいうに及ばず、キリスト教や一部の新興宗教も含めて、あらゆる宗教宗派の人びとがボランティアでこの職務を担っているという。ただしその職に正式の法的規定はないとも聞く。
ところで、法的規定をもたない(あるいは実定法に根拠をもたない)教誡師の勤めとは何なのだろうか。そしてそれは必要なのか。
とりあえずロビンスの映画を手がかりに問題を考えてみたい。死刑囚マシューが見ず知らずのシスター・ヘレンに助けを求めてくる。そこでヘレンは何とか手を尽くし、再審や恩赦の可能性を求めて奔走するが、道はすべて断たれ、ヘレンは結局死刑執行のときまでマシューに付き添うことになる。
ヘレンはマシューが無罪だと思っているわけではない。犯罪は大筋では明らかだ。男はもうひとりの仲間と若いカップルを襲い、強姦殺人の罪に問われ、残忍な手口のために死刑を言い渡された。ところが、自分は死刑なのに、仲間は無期懲役だ。それがマシューには納得できない。悪いのは奴なのに、というわけだ。そう言ってしまえば、往生際の悪いエゴイストである。そのうえかれは「極刑」を望む犠牲者の親たちに向かって悪態さえつく跳ねっ返りだ。いわゆる「罪の意識がない」と見える。また、かれは単純な力の発現を肯定し、ヒトラーの「果断」にあこがれたり、黒人を型どおりに軽蔑したりする。そんな男のために尽力するヘレンは、信心という弱みにつけ込まれたお人好しにも見える。
ではヘレンはなぜ、そんな男のために奔走するのか。もちろんマシューに隠れた美点があるからというわけではない。シスター(修道女)のヘレンにとって、ひとの魂を救済するのが神への勤めだと言えばそのとおりだが、もしそれだけが答えなら、キリスト教の精神に照らしても、ヘレンの行為はかならずしも誉めたものではない。神への勤めを果たして救われるのはヘレンの魂ではあっても、そういう自己救済のだしにされたマシューの魂が救われるかどうかはわからないからだ。それに、ヘレンの行為が神の方を向いているとしたら、マシューはそれに答えないだろう。かれは神など信じていないし、自分の方を向いていない者には心を開かない。
とすると、シスター・ヘレンが神への勤めとしてこの役目を引き受け、なおかつ死刑囚の魂に触れるためには、この死刑囚がある意味で「神」であるのでなければならない。あるいはこの男の彼方に「神」が望見されなければならない。
じっさいこの映画では、マシューはある意味でイエスになる。少なくともその擬態を演じさせるのが、この映画の演出である。最新の注射式処刑台(死刑囚の表面的な苦痛を消去するのに効果的だとして採用された)に固定されたマシューは、十字架に架けられたイエスと同じ姿勢で告発者たちの視線にさらされ、意図せずして「イエスのまねび」を演じながら死んでゆく(処刑のための眠りに落ちる)。
けれどもそれは形だけの話である。ではなぜ、このあからさまな「パッション(受難)」の演出が、この映画では無理なく感じられるのか。言いかえれば、マシューがイエスの似姿となる根拠はどのように準備されているのか。それはかれがすべてを失う「赤貧の者」であるからだ。死刑を宣告され、そのうえさらに、ひとつひとつ衣服を剥がれるように生き延びるわずかな可能性を失ってゆく。それがなんの取り柄も美点もない男だ。人への信頼も、思いやりもない。要するにかれは、「救い」となるような契機をいっさいもたず、世界から見放される文字どおりの「心の貧しい者」であり、だからこそシスターはこれをみすてることができない。「心の貧しい者」とは文字どおりに受け取ってよいだろう。心にわずかなりとも「豊かさ」が、つまり「善」があれば、その者はすでに救いに近づいている。だが「貧しさ」ゆえに全世界から見捨てられた者は、神の慈悲を待つしかない。神の愛はそのためにある。だからかれは「幸い」なのだ。そしてその「貧者」が「デッドマン」として処刑室に入ってゆくとき――この場面はまさに「ゴルゴダ」の現代版たりえないる――、シスターはもてる愛のすべてをもってかれに付き添う。
鵜飼の言うように、この映画は徹頭徹尾キリスト教的である。だがキリスト教的文脈の外でこれを見たらどうなのか。この場面は、「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」を想起させずにはいない。「悪人」とはまさしくマシューのようにすべてを剥奪された「貧者」だからだ。富や市民権がないということではない。まず、社会との、他人たちとの信頼関係がない。だれにも心を開かず、開いてももらえない。美徳と呼びうるようなものをまったくもたない(カンダタでさえ一匹の蜘蛛を救ったことがあった)。その「貧しさ」にこそ救われるべき由縁がある。
ところで「救い」とは何なのか。映画では、マシューが最後にシスターに心を開きえたことが、かれの「救済」の少なくとも約束になっている。「約束」と言うのは、それが地上の救済ではなく、天国での救済だからだ。その罪の認知と「告白」なしに、マシューはイエスの似姿として死ぬことはできなかっただろう。ただ、キリスト教的「救済」が地上のものではなくあくまで「神の国」のものであるとするなら、この「約束」は地上では(言いかえれば「神」なしに考えるとすれば)すでにして「救済」である。
その意味でかりにマシューが「救われた」とするなら、その「救い」はどこにあったのか。それはかれの「社会性」の回復である。かれは最後に初めて、ヘレンと「真実」(実際の犯行がかれにとってどうであったのかということ)を「分かち合う」ことができた。その「真実」は法廷で明らかになったとされ、判決文に記述された「事実」とはまったく違うステイタスのものだ。だが「真実」は分かち合われなければ「真実」たりえない。その「真実」への通路を開きえたことがおそらくマシューを「救っ」ている。ただしそこで問題は「真実」そのものであるよりも、むしろ「分かち合う」ということの方にある。「真実」は何か共有財産のようにしてそれ自体であるのではなく、逆に「分かち合い」が「真実」を「真実」たらしめるからだ。
「他者の臨在」に恵まれるということ、それが文字どおりの「恵み」であり「救い」であり、「社会性」への通路である。裏を返せば、ひとは独りでは救われないということでもある。いわゆる「悪人正機説」の問題(自分の悪行を好都合に解釈できる)もおそらくここにある。つまり「救い」ということを自分一人の問題として主観的に考えることはできないのだ。「救い」は「外」から、「他者」からしかやってこない。いささか唐突だが、その「分かち合い」という出来事が、いま見失われている「生命」つまりは「人間にとっての生存」という次元を指し示すひとつの指標だと思われる。
現在、日本では死刑は即日執行される。つまり朝起きたら「今日だ」と言われ、早ければ一時間後には処刑されることになる。かつては数日前に予告され、数日間の「準備」の猶予があったようだが、執行前夜に自殺するという例が出たため、即日執行になったという。死刑と決定されたら国家(とは誰か?)が処刑しなければならないという至上命題があり、あとは判決に基づいて死刑囚は「処理」されてゆくことになる。
そこにあるのはフランスの法制史学者P・ルジャンドルに倣って言うなら、社会の規範性に関する「経営管理的」発想であり、もうひとつは死刑の「権利」を行使することであくまで維持しようとする現代国家の意志である。ただ、「国家の意志」という言い方がどこまで真実を言い当てているかどうかには疑問がある。むしろ目に見えて確認できるのは、ペルー国家が一四人の「国民」を裁判もなしに一斉処刑する、その行為が明白な礼賛と隠れた羨望とをもって迎えられるという社会の風潮である。
だからむしろ問題は、たとえば日本の社会はみずからが死刑制度を抱えているということを、どのように了解するのかという点にある。殺人の善悪を超えて殺人が起こるように、死刑の善悪から出発して(さまざまな人権論議のように)死刑をなくすことはできないように思われる。むしろこの社会は死刑制度をもつことをどう引き受けるのかと問うてみなければならない。そこでまず出会うのは、一方ではしたなく「極刑」を求めて「攻撃的衝動」を垂れ流す風潮と、その一方でまさにその「衝動」がみたされるはずの処刑そのものは限りなく脱色された経営管理的処理に委ねるという、まったく矛盾した症候ともいうべき状況である。そこには「生命」を断つ「権利」を主張する社会の「責任」の環が完全に断ち切られており、その症候の分裂ぶりは、最近のいくつかの極端な犯罪の特質とみごとなまでに対応している。
(了)