『六月声明』
文書20



《8月3日「参議院『国旗・国歌に関する特別委員会』参考人陳述」報告》





「8月3日参議院『国旗・国歌に関する特別委員会』参考人陳述」:報告(8月3日発信)

 1999年8月3日 石田英敬

 共同署名者の皆さん、本日(8月3日)参議院の「国旗及び国歌に関する特別委員会」の参考人(民主党推薦)として、「意見陳述」と「質疑」を行いました。午前10時からの意見聴取と質疑を12時25分まで行いました。

 

  参考人 東京大学大学院総合文化研究科教授  石田英敬

      武蔵女子大学教授          杉原誠四郎

  質疑者 中川義雄(自民) 

      江田五月(民主)

      松 あきら(公明)

      阿部幸代(共産)

      山本正和(社民)

      扇千景(自由)

      山崎力(参院クラブ)

午後1時30分からの参考人意見聴取

      明星大学文学部教授 高橋史朗

      中央大学教授    堀尾輝久

 以下は、午前の部で、私 石田英敬 が読み上げました参考人意見陳述の草稿です。質疑につきましては、「賛成派」議員のかなりアグレッシフな「十字砲火」に対しての全面的な「空中戦」といった内容でしたが、機会を改めてご報告申し上げます。とりあえず意見陳述の内容をご報告申し上げます。(8月3日夜 石田英敬)

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参議院「国旗・国歌に関する特別委員会」参考人陳述

1999年8月3日 石田英敬

 東京大学の石田英敬と申します。私は、記号とコミュニケーション研究の専門家として今日ここでお話をさせて頂きます。と同時に、この法案が提案されることがはっきりとしたこの6月以降、私たちのような人間科学・社会科学の比較的新しい研究分野で、特に日本の近代について、「国民」「国民国家」「近代性」「記号や表象」といった問題を研究してきた研究者や知識人たちが出した「日の丸・君が代の法制化に反対する共同声明」(その800を越える共同署名者は、ニューヨーク、カリフォルニアからパリ、オスロ、ライプチヒ、香港、台湾、ソウルにいたる、第一線の研究者を含むものですが)の起草者ひとりにして共同署名者としての発言ともなるということを申し上げておきます。従いまして、私がこれから述べます意見は、もちろん一人の学者としての私の個人的な見解ではありますが、同時に、「国民国家」「ナショナリズム」「国民と象徴や記号」の問題について世界各地の大学で日頃研究を行い、その知見にもとづいて、今回の法制化について重大な危惧を表明している国際的な研究者たちの定説や共通した考えをある程度代弁するものでもあることを理解していただきたいと思います。

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 今回意見陳述を求められております「国旗及び国家に関する法律案」が提起しております問題を、私たちのように「国民」「国家」「近代の共同体」を研究する立場から一言で定義するとしますと、これは「国家の象徴政治」の問題であると言えると思います。それは、どのような記号や象徴 ――「旗」にしても「歌」にしても、意味を生み出す記号やシンボルですから ――を通して、国民や国家の共同体を作り出すのか、を国家が政治的に決定することに関わる問題です。これは、いうまでもなく国の根幹に関わる重大な決定がかかっている事件であり、これこそすべての国民による広範な議論と十分な論議が尽くされるべき問題であることをまず述べておくことにいたしましょう。

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 限られた時間での意見陳述ですので、私が提起いたします問題の論点をあらかじめ幾つかに絞って整理して述べていきたいと思います。

 今回の「国旗・国家の法制化」に関して、私が提起したい問題の論点は、ほぼ次の5つです。

(1) 今回の法制化と「天皇制」の問題

(2) 法制化がもたらす「記憶の封殺」の問題

(3) 法制化された「日の丸・君が代」が、「スペクタクル社会」と呼ばれる今日のメディア・情報社会の「集団的忘却」の回路と結びつく問題

(4) とくに学校教育において強化されるとみられる「象徴と権威」の作用がもたらす問題

(5) それらすべてが、私たちの国の「民主主義」にもたらす「危機」の問題

以上の5つの問題です。

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(1)「天皇制の問題」

 周知のように、日本の近代国民国家は、<天皇制>という象徴的な権威の体系を創り出すことによって、<国民>の統合をおこないました。人々は古い共同体から引き離されて、天皇制国家の象徴の体系のなかに呼び込まれることによって<国民>になったのです。そのとき、近代天皇制の象徴体系のなかに呼び込むための「象徴装置」の役割を担ったのが、「日の丸」「君が代」「御真影」「教育勅語」といった、明治国家によって新しく創り出された記号でした。これらすべては古来からの「伝統」ではなく、近代国家を作るための「新しく発明された伝統」であったということが重要です。「日の丸」は幟などとはちがってヨーロッパ的規格にもとづく新しい視角記号であり、「君が代」は洋楽と雅楽の折衷のメロディーにより歌詞の意味を近代的に組み替えた新しい歌、「ご真影」も外国人画家が描いた肖像を写真として複製したという二重の意味で新しい記号でした。それらの記号は、公教育を通して、未来の国民としての生徒たちの身体のなかに刷り込まれたのです。天皇を唯一の超越した<君>と呼ぶことで、一人称の<私たち>は、ひとりひとりが、天皇という超越的な<君主>の臣下としての<国民>(すなわち明治憲法下における「臣民」)になる。これらの「国民」を制作する象徴装置によって、人々は「大日本帝国」という近代的国民国家の「君主」に対する「臣下」として統合されたわけです。

 今回の法制化の問題点は、<戦後>の第二の国民国家において、<あいまいなまま>にとどめられていた明治憲法下における国家の象徴装置だった記号を、再び国民をつくり、あるいは、国民が自己を国民として確認するための国家の記号として明示的に定めようという点にある。この時に問われるのは、当然、「大日本帝国憲法」下の近代日本の第一期国民国家における象徴的な権威の体系としての天皇制と、戦後の「日本国憲法」下の第二期国民国家における<象徴天皇制>との関係であるといえる。しかしまた、同時に、現在の<国民国家>を単位とする世界システムの再編期(すなわち「冷戦の終わり」以後の世界秩序)との関わりからいうと、「明治憲法」五十余年、「戦後憲法」五十余年という二つの国民国家をへて、おそらくいま姿を現しつつある二十一世紀の第三期国民国家における<天皇制>の確認と再定義の問題なのであろうと分析されます。「君が代」の<君>をめぐっての6月11日の政府見解や、6月29日の小渕首相による「補足」は、天皇性の象徴体系について、<戦前>と<戦後>の連続性を初めて「政府見解」として明言したものですが、「21世紀を迎えることを一つの契機に(……)成文法で明確に規定することが必要」という首相の説明は、来るべき第三の国民国家においては、明治憲法下における国家象徴が再定着・再定義されるべきだという意志の表明だと理解できます。

 以上が、「天皇制」をめぐる問題です。

(2)<法制化>による「記憶の封殺」

 第二の論点は、多くの人々がすでに訴えているように、この法制化が、<記憶の封殺>につながらないかという問題です。「日の丸・君が代」は、日本の近代国家の成立過程において、国内においては国家による国民の強制的で規律的な統合の道具になったし、朝鮮や台湾の支配に見られるように植民地化と異民族の併合、そしてとくにアジアに対する戦争と侵略の道具になりました。第二次大戦後、「日の丸」や「君が代」が批判され議論の的となってきたのは、そのような日本国家の過去の行いについての記憶を持つ人々がげんに多数存在しているからです。「日の丸・君が代」は、国内における文化的・民族的・宗教的マイノリティや戦争犠牲者たち、アジア近隣諸国の侵略を受けた人々の「社会的記憶」の象徴となっている。「法制化」はそれらの人々の記憶にどのように答えるのかを示してはいません。今回の私たちの共同声明には、アジアの研究者のほか、アジア諸国からの留学生や逆に日本からアジア諸国に留学して研究をおこなっている大学院生が、沢山の署名をよせました。そのような日本の過去の歴史を反省する議論を打ち切り、法による封印をすることになるのではないか。過去の侵略の歴史事実を否定したり、虐殺を否認したりする、<歴史修正主義>が無批判に流布される傾向が存在しているこの国では、過去をまともに正視し、きちんと整理した上で国の未来を議論をするという契機をないがしろにしてしまうような、<国家の不道徳>がさらに蔓延することにならないか、というのが研究者・知識人の深刻な懸念であると申し上げておきましょう。国家のシンボルとは、国家の内側に向けたシンボルであるだけなのではなく、その国家により抑圧されたり侵略を受けたりした人々にとってもシンボルなのだ、という当たり前の人間的事実を私たちは忘れるべきではないでしょう。しかも、「社会的記憶」については、侵害を受けた側の方が侵害を行った側よりもずっと長く記憶を維持しつづけるものである、というこれまた極めて人間的な事実も思い起こされるべきでしょう。「国民への定着」をいうのであれば、それらのシンボルが、「在日」韓国人・「在日」朝鮮人の人々や、アジア近隣諸国のひとびとにどのようなイメージとして「定着」しているのかをも調査し検討すべきなのではないでしょうか。

(3)「スペクタクル社会」と「集団的忘却」

 オリンピックやワールドカップなどのスポーツ・イヴェントにおいて国民国家の象徴が果たす意味作用をもって、それらの象徴が人々に広く受け入れられたものとする見方が流布しています。それは、文化記号論的にいうと完全な誤りです。スポーツはゲームである。すべてのゲームは、便宜的な象徴や記号の働きによって可能になるのですが、それはその場限りで共有されたルールにもとづいて作り出される意味の経験にすぎない。そして、すべてのゲームは、世界の時間からの離脱と歴史の一次的な<忘却>を作り出すという効果をもっている。人々は現実から一時はなれ、自分の生活をひととき忘れるためにこそゲームするのです。スポーツなどのゲームによって生み出される人間の意味の経験は、その場でのプレーが作りだしていくものにすぎません。メディア・イベントが支配する「スペクタクル(見せ物)社会」はそうした象徴のゲームによる<忘却装置>を社会のいたるところにもつことになった。そして、それは<歴史の忘却>を生み出すにいたった。しかし、<歴史>の中に蓄積された<社会的記憶>と<ゲーム>が生み出す<集団的忘却>とを同じ水準で論ずることはできないのです。社会は、さまざまな水準で経験を組織し、同じ象徴でもそれらの水準においてちがった機能を担っている。現在の日本のマス・メディア状況はこの点で極めて危険な状況にある。マス・メディア自体がスペクタクル社会の担い手であり、水準の混乱を引き起こし、歴史の忘却を促す役割を果たしつつあるとも言えます。例えば、サッカーのサポーターが日の丸をボディ・ペインティングして熱狂することと、学校の国旗掲揚の儀式化をとおして「国民国家の一員になる」ということは、同じシンボルを介したものであるとしても、まったく違った意味の経験です。前者は、観客の一人一人が想像の中でせいぜい「日の丸」サッカーチームの一員になるといった程度の想像的経験にすぎない。ところが、後者は、「国民国家」の運命を引き受ける習性(エートス)をもった、ひとりひとりの国民主体になることを意味している。それは国や国民の歴史や運命を引き受けることを含むものです。両者が混ぜられ水準が混乱するときに、スポーツやイベントの「政治利用」が行われることになる。このような水準の混乱や政治利用の経験は、旧ユーゴスラビアの1984年のサラエボ冬季五輪や、ナチス・ドイツの「ベルリン五輪」の「民族の祭典」が教えるものです。

(4)象徴と権威

 <象徴>は、人が何かを語るときの<後ろ盾>にもなり、権威の体系と結びつくこともできます。「国民」を生みだす象徴装置という役割をすでに述べましたが、「日の丸」「君が代」の天皇制の象徴体系は、そのような権威の体系として成立し機能した。そして、再び「日の丸」・「君が代」は、学校においてそのような権威と規律の体系を強化するために再び使われようとしているのではないか。国家の象徴体系と、権力の系列関係が、学校において整序され・対応するようになると、「教育」という行為がどのようなものになっていくか、という問題がここにはある。「国民国家」の教育という場合、「教育」の役割は「国民」の再生産ということですから、その再生産は、理論的には、「市民社会」や「国民」を基礎にして行われるという在り方(「国民」による「国民」のための「国民」の教育)と、「国家」がヘゲモニーをもって「国民」を創り出していくという二つの方向性がありうることになります。「法制化」はあきらかに後者の傾向に「象徴的な裁可」を与えることになります。

 <国家による教育>の強化によって、市民社会における市民の教育の自由はますます狭められていく。そのことによって、教師たちはますます物言わぬ人々へと変えられてゆき、生徒たちは、規律による教育の受動的な受け手に変えられていく、そして、市民の公教育への参加の契機はますます閉ざされていくことになりはしないか。先ほど紹介いたしました私たちの共同声明は次のように述べています:「かって一度も法制化されたことのなかった国旗・国歌を、法制化によって正当化しようとするこの動きが、主として学校教育の場を念頭において進められていることも、私たちの懸念をより深刻なものにしています。いま学校教育にもとめられているのは、有無を言わせず「日の丸」を揚げ生徒たちに「君が代」を歌わせることではないはずです。疑問を封殺するために国家の規範を強制するのではなく、世界の人々と共生することができる国や社会の原理とはなにかを生徒たちに考えさせること、他の国々との相互の歴史認識を深め、国の内外の異なった言語や民族や文化の人々と共に生きる市民社会の基本的価値や原理とは何かについての議論を重ねることからしか、国民的同一性についての真の教育は根付かないのではないでしょうか。」と。これが、「国家」の教育の強化か、「市民社会」にもとづく教育かという対立に関わる、今回の「法制化」の問題点です。

(5)「民主主義の危機」

 最後に、以上に述べました問題点を総合してみた場合に、「法制化」が私たちの近未来社会にもたらす影響についての論点です。学校では、日の丸・君が代という<古風(アルカイック)な>記号を強制され、規律と権威のルールの体系を身体的に刷り込まれ、他方、学校の外では、ますます拡大し続けるスペクタクル社会の忘却のゲームにのみ込まれ流されていくというような生活が<定着>するときに、<国民>とはどのようなものになっていくことを運命づけられるのかという問題です。同じような生活は、学校を終えたのちの国民の生活の基調でもありつづけるでしょう。例えば、仕事の場においては、権威と規律の関係に支配され、仕事の外ではマス・メディアのスペクタクルの支配に流されていくという生活、それは基本的には今でもよく見慣れた「国民生活」の光景といえるかもしれません。「国家イメージ」を作る記号に関してそのような回路が定着してしまうとき、決定的に欠落してしまうのは、じつは、私たちの市民社会とは何か、国民とは何か、国とは何か、という問いかけと反省の理性的な契機なのです。法という沈黙の掟によって決められた国家の<象徴の囲い>は、市民社会の自己イメージ化をゆるさない。国家の象徴を自らモチヴェートする対話をゆるさない。そして、スペクタクル社会は、自らの「最も近い過去」の歴史を問う回路をあらかじめショートさせてしまう。「国民」自身が自問すること、自分たちの過去の歴史についての議論を公共化し、自分たちの未来をともに考えて決定することや、他者との関わりにおいて自己を問題化するための契機、市民社会の原理にもとづいた理性的な<他者との/自己との>対話の契機を、この国は失ってしまうことにならないか。過去の記憶の封殺と、集団的忘却をつくるメディア社会の仕組み、そして、権威の体系の強化、それらが国家のシンボルをめぐって結びついたとき、私たちの国からいったい何が失われていくのか。それこそ、私たちがもう一度理性的に考えてみなければならないことではないでしょうか。

 その意味で、今回の<国旗・国歌の法制化>は、私たちの国の民主主義の大きな危機を予告していると、私は、多くの研究者や知識人とともに、深く危惧せざるをないのです。

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 いずれにいたしましても、冒頭に申し上げましたように、今回の「法制化」は、日本の国民国家の基本原則に関わる、国と国民の未来にとって重大な問題でありますので、拙速な決定は避けるべきであります。多くの国民が慎重に議論を重ねた上で決定すべきであると考えていることは新聞社による世論調査の結果等が示していることでもあります。この問題については、広範な国民的議論が行われなければならないと思いますし、誰の目から見ても問題のない民主主義的なプロセスをへて決定が行われることが何よりも重要なことであろうと思います。国民世論と国民の声の負託が、議会に反映されるという代議制民主主義の基本原理にもとるような、国会内的な数合わせによって採決決定されるには、余りに重大な案件であり、二十一世紀の国民国家の未来にとって禍根を残すことのないよう、十分な審議を尽くすことを国会には望みます。

 以上、私、石田英敬、からの参考人意見陳述でした。

                           



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