『テンペスト』のキャリバンが、カニバルのアナグラムであるのか無いのか、知る術はない。なぜなら私たちは、シェイクスピアの頭の中には入り込めないし、またそのテクストを文化表象として読むためには入り込む必要もないからだ。より有効な問いの立て方は、アナグラムであるとするなら、そこに何を私たちは読み込むべきか、と問うことだろう。議論の出発点として確かに言ってもよさそうなことは、一四九二年一一月二三日、コロンブスの航海日誌に、史上初めて文字に記された「カニーバル」という語なくして、キャリバンの名もあり得なかっただろうということだ。
東方に岬ともみえる陸地が見えたが、同伴のインディオ達は、これはボイーオという広大な土地で、そこには額に一つしか目のない人間や、カニーバルとよばれる連中が住んでいるとのべ、彼らを非常におそれているようであった。そして船がそちらに向って行くのを見るや、彼らに食われてしまう、彼らは武器をたくさん持っている、といって黙り込んでしまった。……(林屋永吉訳、岩波文庫、p.101.)
一四九二年以前と以後とで何が決定的に変わったのか? この年には、モーロ人撃退によるレコンキスタの完了、ユダヤ教徒の追放、ネブリハの文法典完成に象徴される国家言語としてのスペイン語の成立、それにコロンブスの「新大陸」到着といった、一連のできごとがスペインで起こる。人によってはそれを、プロスペローの一人娘ミランダと口を合わせ"O brave new world"「素晴らしき近代の始まり」とも呼ぶかもしれないし、あるいはマルクスのように先住民の血によってあがなわれた残酷な資本主義時代の幕開けと呼ぶこともあるだろう。いずれにしろ、ヨーロッパ産業資本の発展が、カリブ海域の奴隷労働なくしてあり得なかったように、大西洋圏全体を包み込む、政治経済社会の激しい動きを考慮することなくして、近代に成立した「文学」や「教育」という制度を考察することも不可能である。
言うまでもなく、コロンブス以前にも「食人種」を示すアンソロポファガイという言葉があり、ギリシャ以来、他者を示す語として使われてきた。そのなかでも特に有名なヘロドトス、マンデヴィル、マルコ・ポーロといった著者達は、いわゆる「嘘」を言っているわけではない。彼らが認識の彼方にある究極の他者を示そうとするとき、アンソロポファガイという語が当てられたに過ぎない。こうした著者たちは、もちろん実際に食人種と出会ったわけでもないし、出会ったと公言したり、また自分の発言を幻想と自覚する必要もなかった。一四九二年のコロンブスの航海は、こうしたヨーロッパ的自己と、他者との関係を決定的に変えてしまう。コロンブスは、かなりの読書家だったらしく(本に埋もれた魔術師プロスペローにはかなわないだろうが)頭の中を食人やら、アマゾン、犬の頭をもつ怪物、金(きん)、宝石、香料の話で一杯にして「新大陸」にやってきた。それゆえ言ってみれば彼が到着した時、そこにはそれらが存在していなくてはならなかった。その後数年でいわゆる「カリベ族」は滅ぼされてしまったために、カニバルの語が先住民の言葉でいったい何を意味していたのか、さらには彼らが本当に「食人種」であったのかも今となっては知る由もない。なのにこの語は、「食人」を意味することになり、その名の出自にして行き先という、トートロジー的状況に追い込まれた「カリブのカニバル」は、侵略者に敵対するもの全ての代名詞となってしまった。アンソロポファガイが絶対的な他者の概念であったとすれば、カニバルは相対的な他者の表象である。前者を外人という存在とすれば、後者は異人という自と他の境界で関係を取り結ぶ記号と言ってもいい。しかし本当に問題なのは、二つの「他者」記号のあいだの認識論的差異ではなく、それまでアンソロポファガイが占めていた地位に、「実際の出会い」を通じて新しい記号カニバルが特権化される過程である。ここに絶対的な他者記号「アンソロポファガイ」が現実の差別にはつながらず、相対的な「カニバル」が強力な差別記号として機能するというパラドックスが生まれる。相対的な関係項であれば、そこにどんな実体を当てはめることも可能だからだ。コロンブスにとって最大の不利な条件の一つは、彼の通訳がヘブライ語、カルデア語、アラビア語しか話せなかったことだ。もっとも彼はその障害を補って余りあるほどの想像力と偏見とを持っていたのだが。彼の十一月二三日の記述は次のように続く。
提督は、これはある程度事実なのかもしれないが、武器をもっているというなら、知恵がある人間だろうと考えた。そして、何人かが捕えられて島へ帰って来なかったため、食われてしまったものと考えたのだと思うとのべている。彼らは、キリスト教徒達や提督を、初めて見た時には同じように考えていたのである。
コロンブスがどの程度インディオたちの言うことを理解していたのか、この文の書き手であるラス・カサスがどれだけ正確にコロンブスの日誌を写しているのか、あるいは情報の発生源であるインディオたちの発言の真偽や、彼らがどのような意図でこうしたことを述べたのか、そうした問題は今は問わないでおく。ここで取り上げたいのは二点、記号が普遍化する過程と、命名にまつわる相互性という問題である。前の引用にあった「ボイーオ」にしろ「カニーバル」にしろどちらもコロンブスの耳に偶然響いたローカルな名称であるにもかかわらず、この日以降後者だけが特権化されていく。ボイーオが消去されてカニーバルが中心化されていくこの過程には、しかし、食人現象に対するコロンブスのきわめてまっとうな疑いに伴う、記号の相互性への認識がある。武器を持った他者はヨーロッパ人でもインディオでも最初は「食人種」に見える。おそらく世界中どこでも、食人という根源的逸脱に対する恐怖と欲望とがない混ぜになった幻想は、人類の歴史とともに古い。それが自分とはまったく見かけも習慣も異なる他者と遭遇した時、言説となって、そしてある時には実践となって噴出するのだ。その見知らぬもの達が機会あるごとに、食人だけでなく「黄金」、「怪物」、「アマゾン」などと、先住民には訳の分からぬ奇怪なことばかりを脅したりすかしたりして口走り、時には生命の危険さえ及ぼすとすれば当然だ。食人は強力な逸脱であるがゆえに、差別の対象であると同時に、威嚇と抵抗の手段ともなり得たからである。
このようにして創始された「アメリカ」の「起源」なるものを考えるとき、一四九二年一〇月一二日に始まる一連の出来事を「発見」の代わりに「到着」と言ってみたところで、それだけでは他者の生産による自己の構築というプロセスに光を当てることにはならない。必要なのはその到着という偶然の事態が、「歴史」として整序され、「始源」が設定される過程を検証することだからだ。「発見」はそれにつきまとう多くの偶然を否定し忘却することによって必然となる。メキシコの歴史家オゴルマンは、アメリカはそれを探検した者たちが発見するのを渋ったがゆえに発明されねばならなかったと論じている。本当の先住民という主体を「発見」せず、その代わりにおのれの規律から逸脱する「インディアン」を「発明」することによって、「アメリカ」というひとつの虚構の歴史が創始された。本当に「発見」されたのは、コロンブスたちの「野蛮性」の方であって、「野蛮人」たる先住民ではなかったのである。
その後「自由な主体」による国民国家が、先住民の抹殺を通して成立し、その国名として"United States of America"が「発名」される。それをそのまま和訳すると「アメリカ合州国」となるはずで、「アメリカ合衆国」というのはひとつの理想だ。「人種のるつぼ」という言い方にしても、「文化相対主義」にしても、人種や文化を数えられる統一体として捕らえ、複数並存する状態を前提としていることに変わりはない。どのような権力の拮抗によっていかに並存状態が維持されているかを問わずに複数性や重層性を寿ぐ議論は、現実の異種混淆を単一主義や特殊主義に容易に回収させてしまう危険を孕んでいる。そのような文化本質主義が黙殺するのは、「語らされること、隠蔽すること」という物語形成に決定的な契機と、複数の文化の「平和共存状態」を支えている暴力の介在である。共生の中に渦巻くヘゲモニーの力学を問わない文化主義からは、「クレオリテ」や「ハイブリディティ」のような「歴史の現実」に直面するために欠かせない発想であるはずの、「叛史」の可能性や「死産される純血性」という問題機制は決して出てこない。
しかしアメリカ合州国の歴史のなかでは、合衆国という理想に近付く努力が成されなかったわけではない。たとえば一九五〇年代からの「公民権運動」。その渦中にはマーティン・ルーサー・キング・ジュニアとマルコムXがおり、そして同時代のマルチニックには、「アメリカ」における雑種性という現実を、終生の課題とした詩人政治家エメ・セゼールがいた。彼がシェイクスピアの『ザ・テンペスト』(The Tempest)を改作した『ア・テンペスト』)(Une tempete)をアメリカ合州国の「公民権運動」との関わりで読む試みはこれまでもされてきた。セゼール自身ある講演の中で、アメリカ合州国の黒人についての劇の構想を語っているし、批評家たちもキングとエアリアル、マルコムXとキャリバンとの相似を指摘する。だが同時にセゼールがあくまでこの劇をアメリカ合州国という単独の国よりは、「複数のアメリカ」'americas'における「植民地状況」ないしはそこから生じた「クレオール的現実」を踏まえて創作したことも、エアリアルが「奴隷、民族的にはムラート」、キャリバンが「ニグロの奴隷」と定義されていることからも推察できるだろう。シェイクスピアの原作が「大西洋的テクストと地中海的言語との重ね書き(パリンプセスト)」であるとすれば、セゼールのこの改作は、一九六〇年代の合州国的な文化並存状況と一五世紀末以来のアメリカ全域のクレオール的な文化混淆状況との対話法(ダイアロジズム)よって成り立っていると言える。この二つの作品を、相互性、とくに言語を介した他者への応答責任(レスポンシビリティ)いう視点から比較しながら、抵抗する主体と支配の媒体という「キャリバン」の二面性について考えてみたい。
まず『テンペスト』における教育と言語という西洋中心的な制度の問い直しについて、キャリバンの表象を鍵としながら考えてみることにしよう。ヨーロッパ中心主義による露骨な異人表象を許容すると同時に、劇の最も詩的で友愛に満ちた側面を表現するキャリバン。彼の姿は、「自己」と「他者」の狭間で両面的価値を帯びざるを得ない。異者表象が前景化すればするほど、排除の構造が具体化し、それに反抗する力も増大する。キャリバンが排斥されようとすればするほど、彼の声や体は、「主体」に対抗する肉体として我々に訴えてくる。シェイクスピア演劇は、このように消去から拡大まで、観客と舞台との距離を自在に伸縮させるのである。『テンペスト』というテクストが、同時代のほかの作品に比べて植民地主義のエトスが稀薄であるからこそ、その後の歴史において植民地言説として有効に機能し得た事情に迫るためには、差別の叫びと虐げられたものの声を同時に聞かねばならない。「キャリバン」とは、不在であるがゆえに排除の構造を際立たせ、周縁での寄る辺の無さを打ち破る確かさを持った「他者」の記号なのである。
キャリバンがプロスペローから習得した支配者言語を用いて植民者との出会いを語りながら、おのれ自身の「歴史」を構築しようとするとき、その言葉はあらゆる先住民族の悲惨な屈服と勇気ある抵抗とを象徴する。
あんたが最初やってきたとき、
あんたは俺をなでて可愛がってくれて、イチゴのはいった飲みものを
よくくれたもんだった。それから教えてくれたっけ
大きな明りと小さな明りの名前を、
昼と夜に燃えるやつさ。だから俺、あんたが好きになったよ、
それでこの島のことははなんでも教えてやった、
真水の出る泉や、塩水の池、どこが痩せてどこが肥えた土地かまで。
(一幕二場三三四ー四〇行)
自らの文化を「野蛮」として根源から否定された先住民は、征服者の言語でしか歴史を語るほかなかった。だが受容は同化とは限らない。キャリバンは侵略者の言語を使いながら、それを独自の肉体的リズムとローカルな色合いによって食いちぎり変容させる。こうして彼は劇中唯一の歌人となることさえできるのだ。
言葉は本来ローカルな属性を表す。だが「大きな明りと小さな明り」が「太陽」や「月」として普遍化(ヨーロッパ化)された瞬間に、その記号を含む言語体系は被支配者に対して拘束力を発揮する。言語は情報に転じ、地理的知識として流通して植民者を助ける。植民者にとってマリンチェやフライデーのような通訳が重要なのも、彼女らがローカルな特質を伝達可能な情報へと置き換えてくれるからにほかならない。言語は本来混交した指示対象を純化して整序するための道具だが、記号はいつ何時現実の混交性に逆襲されないとも限らない。それを防ぐために命名者が誰なのかという「起源」の定立が必要となる。
キャリバンのおかれた従属状態を示す表象をいくつかの側面で考えて見たい。まず「怪物」としてのキャリバンについて。劇のなかでキャリバンは、実は「人間」であることを繰り返し強調されている。その一つの決め手が彼に初めて言及するプロスペローの台詞だが、それはまるで彼に「人間らしさ」を認めようとしない話し手の意識を写し出すように、二重否定を伴う紛らわしい言い方となっている。
当時この島には――
あの女がここに捨てていった息子、
鬼ばばあの生みおとしたあのそばかすだらけのガキ以外には――人の姿を
したものは一人としていなかったのだ。 (一幕二場二八一ー四行)
キャリバン=怪物という先入観を持っていると、最後の数句だけが耳に残って、これこそ彼の非人間の証しと持ち出されかねないが、プロスペローはここで、彼自身の到着以前には、キャリバンが島で唯一の人間だったと言っているのだ。その認識はプロスペローに苦々しいおもいをおこさせるらしく、彼はさらに吐き捨てるようにエリアルに言う。「ばか、だからそう言っているじゃないか、そのキャリバンがと。/いま俺が召し使っている奴のことだ」(二八五ー六行)。こうして観客は、キャリバンを実際に目にする前に、三つの基本情報を与えられている。一つは彼が(プロスペローの目から見て)醜い人間であること。第二に彼が(プロスペローにとっては)邪悪な魔法を弄するアルジェリア女の息子であること(後でプロスペローは、彼の父親が「悪魔」であると言うが、もとよりシコラックスに実際会ってもおらず、彼の出自も伝聞でしか知り得ないプロスペローから発せられる蔑称にすぎないだろう)。第三に彼がプロスペローの使用人であることである。さらに舞台だけでなく、台本からも情報を得ようとすれば、一六二三年のシェイクスピア最初の全集であるフォリオ版の登場人物表に、キャリバンは「野蛮で(salvage)奇形の(deformed)奴隷(slave)」と記されている。無論これが劇作家自身の指定であるかは判らないが、少なくとも17世紀前半の上演では、非文明(非ヨーロッパ)人、異常な外見、主人に仕える奴婢という三つの要素を軸にして、彼は登場してきたのである。しかしこの三つだけでも表象の範囲は、高貴な未開人からおどろおどろしい怪物まで多岐に及んでしまうだろう。そのことがまた今に至るまで、演出家や役者に挑戦を突きつけ、観客や読者を魅了してもきたのである。
劇中、キャリバンを人間と認めるのはミランダも同様だ。彼女も強権をふるう父親に対しては、ひとりの犠牲者に過ぎず、ファーディナンドを一目見て父親に言う台詞が、彼女の被支配者としての一面を現している。「この人は/私が見た三人目の男の人、でも/溜め息まじりに眺める初めてのひと」(一幕二場四四七ー九行)。ミランダが島に漂着する以前の他人の記憶は、数人の侍女にかしずかれていたことだけだから、惚れた男以外の二人とは、父親とキャリバンということになる。(三幕一場五〇ー二行でミランダは、男と呼べるのは、ファーディナンドと父親だけと言うが、これは当のファーディナンドに向けた台詞であるからその状況では、彼女の意識のなかで、キャリバンは人間の範疇から外されたものらしい。)
しかし、なによりもキャリバンが人間であることを証しし、人間であるが故の苦難を示唆するのは、プロスペローとミランダによるキャリバンの使役と教育である。「あいつは欠かせないよ。やつは我々の火を起こし、/我々のためにに木を集めてくる、そのほかいろんな用に使えて/我々の役に立つからな」(一幕二場三一三ー五行)。この聞き捨てならない台詞のなかで、プロスペローは「我々」という単語を三回繰り返して、所有権を強調する。「我々」の用役に使用するキャリバンは、「我々」以外の'he'か'it'でしか有り得ない。明確に境界線を引かれた「我」「汝」関係のなかで、'slave'という記号が一人歩きを始め、「salvage 人間」と「deforme 怪物」とを包摂してしまう。人間を怪物として表象することが奴隷労働を正当化し、奴隷労働が人間を実際に怪物にしてしまうのだ。
次に言語と教育の問題を考える。プロスペローとミランダによるキャリバンの教育は、相互性の外見を装った支配の構造の産出であると言える。言語を通じた太陽と月の区別、すなわち命名することによる分節化の技術を教える代わりに、先住民キャリバンから島の地理的情報を収集する。しかしこうした蜜月状態は、教育の成果が現れるにつれ、すなわちキャリバンが自分の隷属状態と階級意識に目覚め、プロスペローの権力獲得の技術を学ぶにつれ、壊れざるを得ない。奴隷としての従属と自由な主体としての抵抗にとって決定的なのは、キャリバンが「言語」を、つまりヨーロッパ語を教えられ、彼がそれを習得した(それもかなり見事に)ことだ。ミランダによれば、キャリバンは「言葉」を教えられる以前には「獣のように/早口でわけのわからないことをがなりたてる」(一幕二場三五八ー九行)だけだった。ヨーロッパ人にとって、「未開」の人々の言語が人間以下の獣の叫びに聞こえたという事例には事欠かない。プロスペローやミランダにしてみれば、魚や亀に言語を教えても役には立たないわけで、教えるとすれば自分の意思を理解し、自らの用に供せる(奴隷としてであれ、通訳としてであれ、話し相手としてであれ)相手でなければならない。いずれにしろ大事なことは、キャリバンにとって習得した言語が屈従の足枷と抵抗の武器という二重性をもつことである。
ル
主人プロスペローの最初の命令"speak"に対して、("There's wood enough within."「薪なら中にあるじゃないか」一幕二場三一六ー七行)で答えるキャリバンにとって、教えられた言語を話すとは、奴隷労働をすることと直結する。教育の最大の目的は、支配する側とされる側との階級の区別を自覚させることにあるからだと言ってもいい。この自覚はキャリバンの身体(からだ)にほぼ完全にプログラム化されてしまっているので、ステファノーが現れると彼が願うのは独立ではなく、新しい主(あるじ)の到来だ。しかしながら教えられた言語を話すとは同時に対抗することでもあり得る。しかしキャリバンは呪うだけではなく、母シコラックスからの島の所有権の継承を主張することによって、プロスペローの正当な歴史に対して叛史とも言うべきalternative historyを提出する(一幕二場三三三ー四四行)。しかしこの反抗はかならずプロスペローに包摂(コンテイン)される運命にある。なぜならキャリバン自身の言説が、その主張の悪魔性と劣等性とを暴露してしまうからだ。つまりプロスペローの家父長的権力体制においては、巧みに隠蔽されている母親からの継承権の主張、シコラックスの魔女性の表明、そして自分に同胞がいないと認めることで民族的独立と革命の可能性を閉ざしてしまうこと――抵抗に見えるこの台詞こそが、プロスペローの優位を証明してしまうのである。
そして恐らく教育の成果を最も如実に表しているのは、キャリバンによるミランダの強姦未遂だろう。プロスペロー自身、ミランダという私有財産をファーディナンドと結婚させることで、権力を回復するのだから、めざすところはキャリバンと同じ、スティーブン・オーゲルの言葉を借りれば、'imperial rape'(帝国の存続に不可欠な強姦)ということになる。確かに「邪魔されなければ島じゅうキャリバンたちで一杯にしてやれたのに」(一幕二場三五二ー三行)という彼の台詞が示すように、キャリバンの欲望は性的なものというよりあくまで政治的なもの、生殖を通じての彼を長とする父権制の創始と、同胞の獲得による島の支配権の奪回だ。
しかしここで大事なことは、キャリバンのレイプが失敗したのだという事実の表明である。これこそ島の支配を左右する最大の鍵だろう。この「既成事実」の確認によって、いくつもの事がいちどきに成し遂げられるからだ。すなわち、1)キャリバンの悪魔化、2)彼が子孫を持ち得ないので革命が不可能になること、3)ミランダの処女性が確認され権力の媒介となる資格が彼女に保証されること。さらに先ほど見たローリの記述を思い起こしてみれば、強姦に対する非難はそのまま自己の権力の正当性を支える。キャリバンという名前が食人種を表すためにコロンブスによって「発明」された「カニバル」記号のアナグラムであることが、シェイクスピアの意識的操作であるかないかという問いには答える必要はないのだが、ここでキャリバンは、イギリス人プロスペローによって、いわば「食人種カニバル」から植民先進国民にして先住民を虐待する「悪逆」なカトリックのスペイン人へとズラされているのだと言ってもいい。
キャリバンの従属を考える上でもうひとつ重要なのは、テクノロジーの問題である。我々は、先住民の征服を考える時、ヨーロッパ人の卓越したテクノロジーの勝利を先入観として持ってしまいがちだ。しかしテクノロジーそのもののレベルでは、鉄砲や大砲と、食料の採集や天気の予測との間に甲乙を付ける事は不可能であって、実際に初期のヴァージニア植民地では、先住民の卓越したテクノロジーに依存することで、かろうじてイギリス人達は生き延びていた。とすればキャリバンに対してプロスペローが優位を主張する方法は、言語の魔術しかない。自分のテクノロジーの方が相手のテクノロジーよりも優れているように見せ掛ける、説得する術こそが権力を保証するのである。プロスペローが行うのは、フーコーがいうような意味での、ディスクールによる、自分が生きるためのテクノロジーから、他者支配の魔術への転換だ。だからこそ彼は、事あるごとに、「俺の魔術がやったのだ」と主張し続けねばならない。魔術はそれを魔術として認定する言語の枠内でのみ、魔術として機能する。つまり魔術という概念を知らなければ、奇跡的なできごとも偶然として片付けられてしまうことになる。だからプロスペローにとって一番大事なことは、彼の魔術的な力の源泉が、己のローカルな文化と言語に発することを隠蔽することだ。彼が「本」の存在を強調するのもそれと密接な関係がある。「本」とは、一見開かれた言語の宝庫であるようでいて、実は閉ざされた表象体系であり、言葉を「暗号」へと変換してしまう装置だと言っていい。この一種の詐術によって、先住民キャリバンのテクノロジー的優越が、侵略者の地理的情報に転化され、自給自足の民が、主人に奉仕する奴隷にズラされるのである。
いまやおそらく昔の言語を忘れてしまったキャリバンは、命名という起源の神話にもとずく創世記的教育を拒否し、主人の言葉であるイギリス語を唯一の抵抗の拠り所とするほかない。「あんたがたは言葉を教えてくれた。でもそれで俺が得したのは、/悪態をつくことだけだ」(一幕二場三六五ー六行)。キャリバンが操れないのは、そして操ろうとしないのはプロスペロー的な魔術としての、すなわち他者支配の道具としての言語である。しかしその代わり、『テンペスト』のなかには、私有財産や所有といったヨーロッパ的な主従の関係を根底から問い直すような稀有な瞬間がいくつかある。三幕二場一三三行以下の"Be not Afeared"にはじまる詩(私)的な(ポエティカルでプライヴェートな)呟きは、自己と他者との関係を確立しようとする欲望から免れているからこそ、それを主従の関係から、異人同士が取り結ぶ不透明な関係へと、ズラし返す可能性を秘めている。彼が一見はかない反抗の武器である呪いの言葉を使って、ときに特異な詩人となることを観客は(プロスペローやミランダには思いもつかないだろうが)知っているのである。
怖がらなくたっていい、島は音で一杯なんだ、
響きや甘い調べは、楽しくさせるけれど、悪さはしないよ。
ときどき千もの楽器がはじけて
おいらの耳もとでうなるんだ、それでときには声がする、
それはもし長く眠って起きたとこでも、
もう一度眠らせてくれるんだ。それで夢のなかで、
雲のあいだが開いて、宝物が見えるような気がする
おいらのうえにおっこちてくるようにさ。それで目が覚めると、
もう一度夢が見たくて泣くんだよ。 (三幕二場一三三ー四一行)
こうした詩を聞くと我々は、キャリバンの習得した言語が実は支配者の語る言葉から変質していることを悟る。呪いは歌に転化するのだ。僕らがここで聞いているのは、ジャズやサンバのリズムに乗ったピジン語やクレオール語だ。いやむしろそうした固有名詞を必要としない翻訳不可能な森の言語、教育制度に支えられた「標準語」をかわす戦略としての普遍言語と呼んでもいい。この視点から見返すならば、逆にプロスペローの「言語の魔術」こそが、他人に苦痛と屈辱をもたらす「呪い」と定義できないだろうか? キャリバンの言語に虐げられたものの呪詛を見るだけでは、そこでどんなに抵抗を語ろうとも、支配と被支配との二項対立構造を変えることはできない。我々はむしろ、プロスペローの言語にこそ、自分自身と他者に向けた'curse' 、むき出しの暴力性を見るべきなのだ。
キャリバンの「夢」とは、西欧的始源神話への憧れではなく、言葉のなまの力によって、" 'Ban,´Ban, Cacaliban"(二幕二場一八四行)と、GoldをGod とGreed から解放する試みなのだ。「宝物」に、金銀のきらびやかさではなく、原石のにぶい輝きを取り戻すこと。Caliban もCannibalもCarnivalも、すべて口を通して自己と他者、見るものと見られるもの、表象するものとされるものとの境界を侵犯し、関係を転倒する。このとき「食人」は、ある文化から他の文化に向けられた蔑称ではなくなり、異文化の混交と変容のメタファーとなるのである。ヨーロッパの白くふやけた肉体を、bali, bali, cali, cani と食らい尽くす「食人」への恐れと憧れを観客に引き起こすこと、それこそがCaliban を Canibalのアナグラムとして創造しながら、「食人」への言及を意識的に回避した劇作家の倒錯した戦略ではなかろうか。キャリバンという「文化的食人」に食われることによって、「コロブ」ことしか知らなかったヨーロッパ人は、自らの「内なる他者」であるカニバルを発見する。
プロスペローがキャリバンに投げつける蔑称、「けだもの」「土くれ」「汚物」「悪魔」は、実体不在の記号としてキャリバンに欠損や負性を被せることによって、かえって彼がそうしたシニフィアンの群れを消化し尽くして、全ての虐げられし者のヒーローとして舞台で歌い踊ることを可能にするからだ。キャリバンはいわば、したたかな芸能の徒であって、単なるモノモライではありえない。
キャリバンの見果てぬ夢を伝える歌――この歌を生む行為を、私は「本物の食人」と呼びたい誘惑にかられる。なぜなら彼はここで、領有した言語、生きていくために使わなくてはならない支配言語のなかから、「暗号」や情報になる以前のなにかを掘りだし、あらゆる文化が必竟ほかの文化との混交、つまり食ったり食われたりすることでできていることを示唆するからだ。呪いから歌へ、秩序だった音楽から、「ノイズ」に溢れたカーニバルのリズムヘ――このとき自己閉塞したプロスペローの島は、複数の見知らぬ声が交錯する民衆の「リバティ」の劇場として、ほんの瞬時ではあっても再生するだろう。このときキャリバンは、「カニバル」という不在の記号を食ってしまうことで、おのれのうちにそして私たちのうちに隠された「食人そのもの」を呼び戻す。命名と固定化を拒否するキャリバンの歌は、限りない流動性と包容力を持つという点で、真の意味での口承(哄笑)文化、オーラルでオオラカニ笑う文化に属する。だから私たちも彼を笑いのめし、そして彼と共に笑うことができる。私たちとキャリバンとの関係は、互酬的であり得るのだ。
キャリバンが何より恐れたのはプロスペローの魔法とそれを生み出す書物、すなわち他者支配のためのテクノロジーであった。酒という魔法の飲料と本という魔術の装いが、先住民の隷属化を招いたのである。ピーター・グリーナウェイが「プロスペローの本」で映像化したように、魔術師はペンで世界全体を表象することによってそれを支配する。同様にコロンやコルテスも、新大陸では一種の魔術師に生まれ変わる。トドロフは、コルテスのモクテスマに対する優位をアステカ族における文字言語の不在に帰しているが、デリダがレヴィ=ストロースを批判して指摘するように、文字言語(エクリチュール)は自明のものではない。(ツヴェタン・トドロフ『他者の記号学――アメリカ大陸の征服』。ジャック・デリダ、『根源の彼方に――グラマトロジーについて』。)「言語」とは限りなく多様なものだから。
シェイクスピアはキャリバンの名を「食人」から借りながら、同時代の文書にあふれていた「食人」としては描かなかった。劇作家が駆使したこの記号の曖昧さこそが問題にされねばならない。コロンブスは目前の事象を記号として解釈するが、キャリバンはそうした解釈を拒否する。彼の" 'Ban,´Ban, Cacaliban"を名前の脱構築と呼んでもいいが、その歌は表象システムの恣意性を暴露し、それをすりぬけた「カリベ」でも「アラワク」でもない無名で翻訳不能な生身の肉体を突き出すのだ。孤独な奴隷の見果てぬ夢に現れる「宝物」(三幕二場一三九行)は、誰をも巻き込まずにはおかない「タダの音楽」(一四三行)を弾き出す、祝宴の「太鼓」(一二二行)へと変身する。キャリバンの体全体が、素朴で力強い楽器("tabor ") となって、「食人」というtaboo を、カーニバルという劇的なtableau のなかに溶け込ませてしまう。他者表象のための言語の法典(table) は、自他の区別なく食べ放題の宴席のtable に転換するのだ。キャリバンの習得した言語が、支配者には呪いとしか聞こえないよう運命づけられているとすれば、彼の耳が巧妙に捕らえて真似る音節は、単なる模倣ではなく、まるでジャズの即興のように新しい音楽をその場で作り出す。酔漢ステファーノの歌と、空気の精エリアルの音曲に、キャリバンの詩が混交することによって、島は起源の神話を紡ぐ帰属的なトポスではなく、異人同士の不透明な関係を取り結び、複数の声が交錯する場へと転移する。酔っ払いたちの歌が、観客の解放への願いに連帯することがあり得る。「思いは自由」だからだ(一三一行)。ときには夢や沈黙が、権力のレトリックや猟犬の雄叫びよりも雄弁であるように、「悪魔」(黒人、ユダヤ、同性愛者の代名詞)と「魔女」との混血児キャリバンの方が、純血(純潔)主義を標傍するプロスペローよりもしぶといのだ。男性中心主義を反映して女性の名前をつけられた島に無名性を取り返すこと、すべてのキャリバン達の目的はそこにある。
劇の最後でキャリバンを「この暗黒の存在は、私自身のもの」(五幕一場二七五ー六行)と認めるプロスペローには、帰る場所はあっても境界を侵犯する命の泉はない。他者表象の最大の武器である王権も魔術も放棄してしまい、最後に「私を自由に」と懇願して、書物も杖も魔法のガウンもない裸の舞台に一人取り残された彼にとっての船出とは、死出の旅路に他ならないのだ。しかし、船出を新しい港への到着と見るものも確かに居たのである。例えば一六一一年の御前上演においてこの劇を見たジェイムズ一世にとって、プロスペローたちのミラノへの帰還は、自らの新大陸への領土拡張主義を言祝ぐものとは聞こえなかっただろうか。
プロスペローがキャリバンを最後に「私自身のもの」として容認したことは、(それまで何度も「私のもの」と呼ばれていて遂に解放されたエアリアルとは違って)キャリバンの自由を決して保証しない。むしろキャリバンが永遠に奴隷たることを運命づけられる台詞、すなわち「発見」から「植民」、「低開発化」という近代の暗い汚辱の歴史を、予言するものとさえ響くのだ。たとえしばしプロスペローたちがこの島を去っていったとしても、言語、教育、テクノロジー支配という植民地主義的構造が変わらない限り、プロスペローの子孫たちがかならずこの島に戻ってきて、子孫も同胞も持たないキャリバンを奴隷化するだろう。そしてこのような帝国主義的枠組みを背景に考えるとき、この劇における解放的な契機が一時的なものにすぎない、と結論づけることも不当なことではないだろう。いったんは貴族の豪華な衣服を「そんなのボロだ。」(「.i.224)と言い切ったキャリバンも、「これからは赦し(グレース)を請うようにします」(」,i,295) と述べて、最後は自分からキリスト教文化に同化してしまうように見える。プロスペローたちがこの島を去ったあとで、キャリバンに残された道は、本国植民者の傀儡として抑圧的な権力を行使するという、ネオ・コロニアル状況の産出に手を貸すことではないだろうか。
かくして島に土着の文化を再創造する試みは挫折する。『ザ・テンペスト』におけるネイティヴィズムは、あくまで束の間の領有、一種の転覆の戦略(インヴァージョン)に止まるのだ。キャリバンが自らの母シコラックスの遺産を捨てて、キリスト教の慈母「グレース」の恩寵に縋ろうとするとき、植民者による使役と教育に対する怒りと拒否は、テクスト上の美学的な逸脱として包摂される。プロスペローたちが島を去った後の脱植民地化がはらむはずの、アメリカ的ネイティヴィズムとヨーロッパ的モダニティとの緊張を問う代わりに、劇が前景化するのはかつての植民者の諦念と、それを介した劇作家/主人公と観客との特権的な応答責任関係にすぎない。「大西洋的テクストと地中海的言語との重ね書き(パリンプセスト)」は、ついに地中海的文脈の中に解消してしまうのである。
今歩み始めたばかりの未来の大英帝国は、その限りない恩寵と赦し、グレースのなかにキャリバンをも優しく包み込む体裁さえ整えておくに違いない。もしキャリバンが醜いアヒルの子ならば、いつか白い白鳥になるかもしれない。だが自分の肌の色に、「白い母ヴァージニア」の痕跡を決して認め得ないキャリバンにとって、頼るべきなのは、グレースではなく自分の唯一の母、シコラックスの呪いなのではないだろうか。スキタイ人という「食人種」を祖先に持ち、アルジェの魔女、船員相手の売春婦として島に置き去りにされ、悪魔と情けを交わしたと表象される彼女は、人種、階級、ジェンダー、セクシュアリティーいずれのカテゴリーでも最大級の差別をされている。キャリバンの未来は、植民者の慈しみのママ、彼らの清純な守護神である処女王ヴァージニアと共にあるのか、それとも差別されるものの肝っ玉母さん、しぶとい混血の娼婦シコラックスと共にあるのか。シコラックスを母さんと呼ぶことは、言い換えれば、スペインのように自らの暴力を正当化するためにせよ、イギリスのように差異を強調しながら土地収奪の事実を隠蔽するためにせよ、そこに潜むアンソロポファガイからカニバルへ、そしてキャリバンへという記号化の戦略を暴き、再び「抵抗する主体としての食人」として取り返すことだ。『テンペスト』は同じ言語のなかに魔術を装うものとそうでないものがあり得ることを示唆することによって、表象の暴力をあばきだす。キャリバンの抵抗と屈服――その呪い(カース)と恩寵(グレース)は、近代を生きる我々自身の言語の欠くべからざる一部分なのである。
セゼールの劇においてエアリアルとキャリバンとの思想的対比は明らかだ。二幕一場における二人の対話で、自由を求める手段は異なっても目的を共有しているはずだとするエアリアルに対して、キャリバンは「アンクル・トムの忍耐」はプロスペローをより暴君にするだけだという。暴力も屈服も信じない「知識人」的姿勢を臆病と非難するキャリバンに対してエアリアルは、変わらなければならないのはプロスペローで、彼におのれの不正義を悟らせることが二人の義務だと述べる。もし彼に「良心」がないのならそれを生み出させるべきだ、「自分たちの自由はプロスペローの自由でもなければならない」のだから。六三年夏のワシントン・マーチにおけるマーティン・ルーサー・キングの名高い演説の反響が聞こえるのはエアリアルの次のような発言だ――「僕は時折こんな夢に高ぶる、いつの日か、プロスペローと君、それに僕が、互いに兄弟として力を合わせ、素晴らしい世界を作る、それぞれが持っている特質を生かしながら。忍耐、活力、愛、決意、そして気力。そんな夢がなければ人間は窒息してしまうだろう。」しかしこのような言葉の上での共生のユートピアをキャリバンは否定する。彼が描く共同体のイメージは徹底して暴力的なものだ――「恥辱や不正義より死んだ方がましさ。それに、どんなことになっても、最後に語るのは俺なんだ……すべてがこれで終わりという時になったら、火薬の樽を盗んで、この島も俺の持ち物、仕事も全部、あの君がよく舞い上がる山の頂きから、空中に吹っ飛ぶのが見えるぜ、プロスペローも俺も木っ端みじんさ。花火をお楽しみに、キャリバンのサイン入りだよ。」
ここでキャリバンが自分の名前に言及していることは重要である。というのもそれより先、一幕二場におけるプロスペローとの会話でキャリバンは自分の名前を否定しているからだ――「あんたの憎悪が俺に着せた渾名、その名で呼びつけられるたびに俺は屈辱にさいなまれる」。それをプロスペローはからかって言う、「悪魔め、気取りやがって! じゃあ言ってみな、どんな名前がいいんだ、とにかく名無しじゃ呼びつけられんからな! カニバルか、まあ嫌だろうな! それじゃ、ハンニバル! こいつはいい! おまえらは歴史の有名人の名前は大好きだからな!」こうした発言にある命名の暴力、それはヨーロッパ文化を唯一の起源として規範化する植民地主義者の恣意性の現れだ。それに対するキャリバンの返答はまさにマルコムのものと言っていい――「Xと呼んでくれ。そのほうがいい。ちょうど名前のない者に呼びかけるようにな。もっと正確に言えば、名前を盗まれた者のことだ。歴史とか言っていたな。なるほどそれが歴史か、有名だということが! あんたが俺を呼ぶたび、俺はいつも根本にある事実を思い出す、あんたがすべてを俺から盗んだということ、俺のアイデンティティさえもだ。ウフル!」最後の'Uhuru!'はスワヒリ語で「独立、自由」を意味する。ここにもマルコムにつながる「アフリカ回帰」の契機が見られる。 この'Uhuru!'はキャリバンの最初の発言でもある。シェイクスピアのキャリバンの最初の言葉が、「薪なら中にたくさんあるぜ」という奴隷労働者の従属状態を象徴したものであるのとは対照的に、セゼールのキャリバンは、植民者には意味不明のこの言葉を吐く。それをプロスペローは「ボンジュール」のかわりぐらいにしか考えられないのだが、ここにあるのはそうした支配者言語の枠組みを越えたバイリンガル的戦略による抵抗だ。もちろんここで問われているのは、プロスペローの主人対奴隷という一元的支配機構だけでなく、ヨーロッパ言語しか解さない観客の応答責任でもあるのだが。このような他者性による自己の侵犯は、死と生との境界をも侵さずにはおかない。プロスペローがシコラックスの記憶を冒涜するのに怒ったキャリバンの発言は、おそらくこの劇の中で最も詩的な台詞だろう。
死んでいようが生きていようが、彼女は俺の母さんだ、決して見捨てるもんか!
それにあんたは死んだと言うが、あんたにとっては大地も死んだものだからな……
死んでれば、烙印を押して、汚して、征服者の足で踏み躙れる!俺はな、母さん
を崇めている、大地が生きているのと同じように、シコラックスも生きているこ
とを知っているからだ。
「大地の中に今も生きているシコラックス」、このような回収し得ない過剰に植民者はどのように応答できるのか、この劇が最後に立ち返る相互性という問いがここにある。さてXと自分を再命名したキャリバンの呼びかけ拒否に出会ったプロスペローはエアリアルを聞き手としながら、ヨーロッパからこの島に流れ着いたアロンゾたち、かつて自分のミラノ王位簒奪に協力したものたちについて、次のように述べる。「あの者たちの罪がどれほど重大でも、悔い改めれば赦してやろう、何と言っても彼らは私と同じ人種、同じ高い階級の出なのだから。」つまり「赦し」は同質な他者への呼びかけの次元でのみ可能となるのであって、キャリバンのように異質な他者であることを選びとったものに対しては適用されない。おそらくここにすべての他者に対する「赦し」ないしは「回収」で終わるシェイクスピアの原作との最大の相違点がある。セゼールの関心は、植民地的搾取状況においてヘゲモニーはどのように形成され、またどのような変革が可能なのかということだからだ。かくして私たちがシェイクスピアの「重層的な」テクストから受け継いできた様々な物語、「プロスペローの諦念」「キャリバンの悔悛」「エアリアルの抵抗」などといった「文化相対主義」の断片が見直しを迫られることになる。そのためにセゼールが選ぶのは、対話法(ダイアロジズム)に徹することで、植民者と被植民者との間の根本的な相互性を暴き出し、応答責任のありようを探求することである。
たとえばミランダを凌辱しようとしたという嫌疑に対するキャリバンの返答――「凌辱! 凌辱!よく聞け、この老いぼれ山羊さん、性的衝動(リビドー)を教えてくれたのはあんただぜ。」(一幕二場)主人の近親相姦の欲望が奴隷に転移する、このようなプロスペローの潜在的な欲望、内心の不安を最もよく現すのが、劇中劇へのEshuの侵入(三幕三場)だろう。
「黒人の悪魔神」と定義されたエシュは、「いたずら者のトリックスター」で、ミランダとファーディナンドの婚礼を祝う仮面劇を台無しにしてしまう。プロスペローはこの失敗を自らの魔術の衰えに帰する−−「自分の不安を征服できないでなんの権力か! 俺の力も冷えきってしまった!」シェイクスピアの場合とは異なり、このプロスペローの最大の敵は彼自身の内面にある。しかし内心の不安を振り払うように、彼は自らの「責任」である「文明化の使命」を捨てようとはしない。
こうして三幕四場におけるプロスペローとキャリバンとの対決を迎えるのだが、シェイクスピアの原作と違って、いちはやくステファノやトリンキュローを見限ったキャリバンは、「自分一人の力で自由を獲得する道」を選び、プロスペローに武器を振り上げながら、そこで逡巡してしまう――「おまえも武器を取れ! 俺は暗殺者じゃない。」このためらいのせいで彼は捕らえられ、プロスペローは勝ち誇って宣言する――「だから奴隷は馬鹿だというんだ。これで喜劇は終りだ!」しかしこの劇は終わらないのだ。
最終場(三幕五場)はキャリバンとプロスペローとの長い対話から出来ている。この島を去るつもりのプロスペローは最後にキャリバンに和解を申し出る――「一〇年間一緒に働いて来た仲じゃないか、一〇年だぞ! 同じ国の国民だろ!」しかしこのような複数主義をキャリバンは言下に拒否するのだ――「俺が欲しいのは和解なんかじゃない、それはあんたもよく知ってるはずだ。俺が欲しいのは自由、自由だぞ!」セゼールのキャリバンが被植民者の声を雄弁に代弁するのもまさにここだ。
もう何年もあんたに言われる通りにしてきた。それも今日で終りだ。もちろん今だってあんたが一番強い、だがあんたの力なんてくそくらえだ! なんでだか分かるか? それはあんたが自分が磨いた杖で串刺しになるのが分かっているからだよ。あんたは嘘ばかり俺に押しつけてきた。おかげで俺は自分のイメージにがんじがらめになった、未開、無能力、それがあんたが押しつけた俺の姿だ。このイメージが俺は憎い、こんなの嘘だ。そして俺はいつの日か拳骨ひとつであんたの古い世界を潰してやれるんだ。あんたはここから出ていかないよ!「使命」だって、笑わせるな! あんたの「使命」とやらは自分を呪うことだ! だからあんたはここから離れられない、植民者は植民地以外に住むところはないんだ。
ここにあるのは「イメージ」としての己れのネイティヴ性を拒否ながら、かつての抑圧者との共存を覚悟すること、そして暴力へのこだわり、他者に対する不寛容だ。セゼールはかつて「ニグロ・アメリカ詩への序」(1941)のなかでハーレム・ルネサンスについて次のように書いていた。「ニグロ詩人の主旋律をなす感覚は不寛容の感覚である。現実(レエル)に対する――なぜなら醜悪だからだ、世界に対する――なぜなら籠に閉じ込められているからだ――、生に対する――なぜなら太陽の街道で強奪されてしまったからだ――不寛容だ。そして苦悩と、押し殺された憤怒と、長い間口を閉ざしてきた絶望という重い背景から、ひとつの怒りが立ち昇り吹鳴を響かせ、アメリカは、体制順応主義のぐらつく寝台の上で、どんな恐ろしい憎悪がこのような叫びを生み出したのか、不安に駆られるのだ。」「アメリカ」という「現実」を揺るがす憎悪の叫び、セゼールが一九三〇年代に「ネグリチュード」として見出だしたこの「ネイティヴィズムの源泉への回帰」は三〇年以上を経て、かくしてキャリバンの叫びの中に蘇るのである。
しかしこの劇は「アメリカ」に対して「アフリカ」というもう一つの神話を提出して終わるわけにはいかない。一九四六年セゼール自身がマルティニック島選出フランス国民議会議員として主導したマルティニックの「海外県化」というフランスへの「同化」の現実、一九五〇年代後半からのアフリカにおける植民地の独立とアメリカ合州国における公民権運動を経た今、「ネグリチュード」は怒りの発源地ではあっても、「合衆国」という共生の理想を体現するものではとうてい有り得ないからだ。激動の一九六〇年代が終わろうとする今、いまだに議員とフォール・ド・フランス市長の職にあるセゼールが示そうとした一つの答を、この劇の中に見出せるだろうか。
キャリバンの長台詞に対するプロスペローの最初の反応は「憐れんでやる」だが、あくまで「憎む」ことに固執するキャリバンに対して、とうとうプロスペローも憎悪で答える――「そうか、それなら俺もおまえが憎い! なぜならおまえが初めて俺に自分を疑うことを教えたからだ。」憎悪を支点にした全き相互性のなかで一体化する植民者と被植民者。こうしてプロスペローは島に残る、植民者の「義務」を果たすために。シェイクスピアの原作がヨーロッパ人たちが全て島を立ち去る脱植民地化で終わるとすれば、セゼールの 『もうひとつのテンペスト』は、植民者が島に残るネオコロニアル状況、植民地独立後の問題を扱うのである。
貴族たちが去り、取り残されたプロスペローがキャリバンに語る台詞は、しかし「文明化の使命」というよりは暴力的闘争宣言にほかならない――「十回、いや百回も、俺はおまえを助けようとした、とりわけおまえ自身からだ。だがそのたびにおまえは怒りと毒で答えてきた。まるで夜の中から自分を引き出そうとする手に噛み付くために、自分の尻尾で自分を宙吊りにしてしまうpossumのようにだ! これからは、おまえの暴力には、俺も暴力で応じるとしよう!」こうして「文明化」の一方向的責任は、暴力という応答責任に変換される。だが最後に現れるポッサムのイメージの奇妙さをどう解釈したらいいだろう。北アメリカ東部に生息するこのフクロネズミは危険に出会うと死んだふりをするという。ハリケーンやカニバルのような暴力的な「新大陸」の形象とは異なるこの小動物は、それでも不可思議で不気味な(アンキャニー)力で植民者を蝕んでいくのだ。
いったん幕が閉じて、時間の経過が示唆され、再び幕が開くと、年老いて疲れ切ったプロスペローが舞台に一人。動作は人形のようにぎこちなく、言葉使いもたどたどしい――「変だぞ、ここのところ、ポッサムだらけだ。いたるところ……メキシコ豚、野豚、汚ねえ生き物ばかり! でもとりわけポッサム……なんてえ目だ! それにあの顔、あの卑しいニヤニヤ笑い。きっとジャングルが俺の洞窟を取り囲もうとしているにちがいない。でも俺は自分を守るぞ……俺の仕事を滅びさせてなるものか……。」ヨーロッパ植民者の「文明化」の意思を徐々に侵していく「自然」の群れ。「文明を守るんだ」という彼の叫びも空しく響く。寒気に襲われた彼のために火を起こしてくれるキャリバンはどこに行ったのか?プロスペローのあがきは、キャリバンとの究極的同一化を承認する叫びで終わる。「やれやれ、キャリバンどの、この島にはもう俺たち二人だけじゃないというわけだ、おまえとおれだけじゃなくてな。おまえとおれ! おまえ−おれ! おれ−おまえ! それにしてもいったいあいつは何をしてるんだ? キャリバン!」主従の相互性の果てに辿りついた究極の合一化。ここにあるのは、植民地に呪縛されその大地に逆領有された、周囲の自然物と区別がつかなくなった植民者のイメージだ。しかし興味深いことは、プロスペローがそこに自分とキャリバン以外の他者の存在を認めている点だろう。ポッサムの視線とその笑いに植民者が応答しようとするとき、その文明化の使命は終焉し、彼の主体は小動物の予期せぬまなざしの対象物に還元される。かくしてキャリバンの予言が成就するのではないだろうか――大地のなかでシコラックスは生きている。シェイクスピアの『ザ・テンペスト』が消去したネイティヴたちの母、それが今、この島のあらゆる生き物のなかに痕跡として蘇る。『ア・テンペスト』におけるネイティヴィズムの詩学は、サバイバルの政治学でもあったのである。
セゼールの劇は打ち寄せる波の音と鳥のさえずりに混じって、遠くに聞こえるキャリバンの歌の断片で終わる――"LA LIBERTE, OHE, LA LIBERTE! ."それにしてもなぜセゼールは、スワヒリ語で始めたキャリバンの「自由」の叫びをフランス語で終わらせるのだろうか? ここに「ネグリチュード」と「クレオール」のはざまで揺れ動く「他者」としての自己の有り様を解く一つの鍵があるだろう。この最後のフランス語の宣言に「海外県」として本国への「同化」を目指してきたマルチニック島のアイデンティティへのセゼール自身のアンビヴァレンスを読み取ることも可能だろう。
フランス併合という原罪を犯した張本人としてセゼールを糾弾し、ネグリチュードに代わって「クレオリテ」を主張するジャン・ベルナベ、パトリック・シャモワゾー、ラファエル・コンフィアンらは、セゼールのネグリチュードを初めてカリブ海文化に自己のアイデンティティを見出だす契機を与えたものと評価しながらも、それがヨーロッパという「白い普遍」と「アフリカ」という「黒い普遍」の二項対立、フランス語による単一言語主義、「ニグロ」という純血主義に囚われていたと批判する。しかし「クレオリテ」も「ネグリチュード」と同様、ひとつのイデオロギーにすぎない以上、それを歴史の特殊性から切り離して賛美すれば、私たちはアンティル諸島におけるヨーロッパ文化への全般的同化という現実、地球大の規模で進行するネオコロニアルな搾取状況を忘れてしまう。
そしてセゼールがこの劇の最後に展望するのも、植民地独立後の過酷な現実状況ではないだろうか。キャリバンの抵抗が勝利したあとで、それまでの敵と味方がどのような共同体を作っていくのか? 自然を含めた他者の視線のなかで言葉の力を失った自己が再生する可能性はあるか? 独立と自由を獲得したキャリバンが、その類いまれな言語運用能力によって他者を抑圧しない保証はどこにあるのか? クレオリテやハイブリッドの賞賛が、ネオコロニアルな搾取を容認する文化相対主義に回収されないためには、どこまで否定を貫き、どこで互いの多様性を認め合えばいいのか? クレオール的多様性とネグリチュード的な解放の契機のはざまで、私たち自身の発話の場における「読み」の応答責任が問われているのだ。こうした様々の問いを抱えながら、植民者に突きつけた「否」としての'Uhuru!'と、カリブの自然のざわめきと混淆した'LA LIBERTE!' とのあいだで、植民者と被植民者とが共に「ネイティブ」として再生する「ある無名の合衆国」の歴史がこれから始まろうとする、そんな期待と不安に満ちた出発を、セゼールは提示する。『ア・テンペスト』のキャリバンが最後にフランス語で叫ぶ歌は、我々すべてが引き受けざるを得ない「ヨーロッパ言語」の呪い(カース)と恩寵(グレース)を、背負う覚悟を決めたものだけに可能な、植民者への、そして私たちひとりひとりへの応答の呼びかけなのである。