脱領域ワークショップ 「歴史の中の『テンペスト』」






鈴木 慎一郎



「バン、バン、キャリバン」

―― ブラスウェイトにおける‘skeletone’としての音楽 ――



Brathwaite, Islandsを読む

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はじめに

 この稿では、エドワード・カマウ・ブラスウェイトによる詩「キャリバン」を、シェイクスピアの『ザ・テンペスト』ではほとんど前景化されることのなかった、キャリバンという形象の音楽性を、ことさら強調し称揚した作品として読む。その際、とくに詩のなかの西インド的記号である、リンボー、カーニヴァル、パン(スティール・ドラム)などに注目する。

 ブラスウェイトの詩「キャリバン」は、ロブ・ニクソンの整理によれば、1950年代末から70年代初期にかけアフリカやカリブ海出身の作家・批評家が発表した一連の『ザ・テンペスト』改作ないしは批評の系譜に位置づけられる。この系譜においては、植民者であるプロスペローからの抑圧に抵抗し解放を志す被植民者の姿がキャリバンに見いだされている。当時はもちろん、第三世界の旧植民地がつぎつぎと政治的独立を達成していった時期でもあった。

 G・ラミングやブラスウェイトの世代の西インド知識人がイギリス式教育の梯子を昇っていた頃には、シェイクスピアはすでに宗主国の文化帝国主義の神聖なイコンとなっていた。P・ヒューム「奇妙な魚――ポストコロニアル批評とキャリバン像」が指摘するように、そうしたイコンを批判すること、あるいはキャリバンを中心とした読解を実践することは、権威に対するある種の冒涜の意識なしには行ないえなかった、と考えられる。

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「キャリバン」におけるリンボーについて

 詩「キャリバン」を含むブラスウェイトの詩集『島々』は、「新世界」、「リンボー」、「反逆」、「憑依」、「始まり」とそれぞれ題された五つの詩編から構成されている。このうちの「リンボー」がさらに六つの詩すなわち、「砕けた母」、「牧師」、「キャリバン」、「小石」、「儀式」、そしてヒューム『征服の修辞学』のエピグラフに選ばれた「島々」から構成されている。(なお『島々』は他の二つの詩集つまり1967年の『通行権』、1968年の『仮面』とともに、1973年に『到来者たち−−新世界三部作』として刊行され直した。「キャリバン」にかんする以下の私の議論は、『到来者たち』所収のものをテクストとしている。)

 「キャリバン」が「リンボー」と題された詩編に収められているという事実。何といってもこれがまず私たちの注意をひく。「地獄の辺土」「忘却された状態;不要なものとして顧みられない状態」「拘置所;拘留状態」「中間地帯」などの意をもつ語、リンボー。だがその同音異義語はきわめて西インド的な記号の一つであるのだ。こちらのリンボーは、ダンスのリンボーである。水平の棒の下を、身体をめいいっぱい反り返らせかつ両膝を広げた踊り手が、音楽を背景としながら棒にあたらぬよう地面すれすれにくぐりぬけていく、リンボー・ダンスのことである。踊り手はある高さの棒の下をくぐり抜けるのに成功したら、次にはさらに低められた棒に挑戦する。しかもこのダンスは後述するように、強制移送、文化的切断、さらには新植民地主義といった、西インドの奴隷の子孫たちをめぐる複数の契機においての(再)節合を経てきたものに他ならない。

 リンボー・ダンスは、ブラスウェイトの「キャリバン」の随所に挿入されている:

 And limbo stick is the silence in front of me

 limbo

 limbo

 limbo like me

 limbo

 limbo like me

 long dark night is the silence in front of me

 limbo

 limbo

イタリック部分はリンボー・ダンスにともなってよく歌われる歌の詞であり(この部分はむしろ合いの手といったほうがよいかも知れないが)、それはこれまで作者が特定されることもなく歌われ、レコードにも録音されてきた。といってもこんにちの私たちがこの歌を聴くことができる可能性があるのは、あるいは、リンボー・ダンスそのものを観ることができるのは、おそらくカリブ海のリゾート・ホテルのナイト・エンターテインメントぐらいであると思われる。このことは後述する。ここではそれよりもまず、リンボーで用いられる棒(スティック)が、奴隷に対する体罰に用いられた鞭の連想につながっていくのをみよう:

 stick hit sound

 and the ship like it ready

 stick hit sound

 and the dark still steady

 limbo

 limbo like me

 long dark deck and water surrounding me

 long dark deck and the silence is over me

「甲板」とはもちろん奴隷を詰め込んで悪名高い中間航路を航行した奴隷船のそれであろう。そしてリンボー・ダンスは、ポピュラーな伝承によれば、まさにこの奴隷船の船上で生まれた。1950年代末に合州国のレコード会社コロンビアが発売した、ザ・トリニダッド・セレネイダーズの演奏による『リンボー――ザ・レイテスト・パーティー・ダンス・クレイズ』というLPの解説には、次のように記されている:

 捕えられた奴隷たちは船のなかの檻でぎゅうぎゅう詰めの状態にあった。手と足は鎖につながれ、その鎖はさらに鉄製の棒につながれていた。締めつけられてこわばってしま った手足をしなやかにしようと(limber, それゆえ limbo という名称が生まれた)彼ら彼女らはあることを競い合う訓練法を考えだした。鉄製の棒の下を身体が触れることなくすり抜ける、というものである。西インドでは奴隷が解放されたあとでも、このダンスは踊り手の勇敢さを試すものとして続けられ、カーニヴァルや祝日に踊られた。

このレコードはとくに民族音楽的な学術的録音というわけではないが、解説の記述にはすでに自文化を歴史的パースペクティヴのなかでリフレクシヴにとらえるまなざしがある。解説を書いたのはトリニダッド生まれのある舞踊家であるが、リンボー・ダンスを仮に「民俗ダンス」ととらえるとして、それが当時どの程度まで現地での民俗学的企ての対象となっていたのかは不明である。ただし私たちは、外部からのまなざしを通じて自己成型を行なうことが現地の民俗学者や知識人の専有であると前提することはできない(太田好信『トランスポジションの思想』)。

 リンボーという語の多義性をめざとく利用しつつ、リンボー・ダンスを、西アフリカの文化伝統からは切断転位された西インドの、しかし強靭な文化表象として祝福するのが、今福龍太『スポーツの汀』の「クリケット群島」において参照されているガイアナの作家W・ハリスである。今福は次のようにハリスの論考「リンボーという関門」を読む:

 ハリスは limbo と limb を懸けて、それを「幻肢」phantom limb の現われであるとス リリングに指摘する。切断されたあとでも、手足がまだあるように感じ、その先端に痛 みを覚えるような感覚としての「ファントム・リム」。いまでもヴェトナムやエルサル バドルやボスニアの負傷兵がときに感じるであろう幻の四肢の痛みが、リンボーという フォークロアの真の意味だとすれば、蜘蛛のように腰をかがめ、四肢を広げてかすかな 隙間をくぐり抜けるあの西インド人の身体は、まさに中間航路によって切断され、再接 合されたハイブリッドな身体を生きる者として、新たな文化表現を志向しうる者となる。

また「蜘蛛」という形象は、ハリスそして今福によって、西インド口頭伝承におけるトリックスターである蜘蛛のアナンシに接続されている。

 ここで私は一つの介入を試みようと思う。ブラスウェイトやハリスなどの西インドの知識人によるリンボー・ダンスの祝福は、どのような社会的文化的コンテクストに即して行なわれたのか、という問題がある。この問題に関する仮説めいたことをあらかじめ示せば、リンボー・ダンスは、とくにカリブ海地域を自国の「裏庭」視するアメリカ合州国からのそれを含んだ重層化されたまなざしのなかで、(再)浮上し「客体化」されてきた文化(太田「文化の客体化」)である、となる。

 合州国においてカリブ海地域英語圏の音楽やダンスが新奇なかつ大衆的なものとして表象され消費されるのは、1940年代以降のことと考えられる。この頃から合州国の白人オーディエンスがカリプソに興味を持ちはじめた。もちろんトリニダッドのカリプソニアンたちは1930年代からニューヨークなどで録音を行なっていたが、後の時代と比較すると、どちらかといえば「エスニック」な市場むけが中心であったようだ。合州国白人女性のヴォーカル・グループであるアンドリュース・シスターズが、「ラムとコカ・コーラ」を44年にヒットさせ同曲を有名にした。これは第二次大戦中にトリニダッドに駐留していた合州国兵士と現地女性とのアフェアーを歌ったもので、合州国のコメディアンが持ち帰ったものといわれる。同曲と同じ節をもつ歌に、“ヤンキーのドルを得ようと働くビッグ・バンブー”と歌う「ビッグ・バンブー」があり、そちらは逆に合州国からの女性観光客と現地男性とのアフェアーをほのめかしたものだ(現地男性の性器がバンブーにたとえられている)。

 また1950年代後半には、マルチニーク人を父に、ジャマイカ人を母にもつ合州国市民であるハリー・ベラフォンテが、ジャマイカの民謡やトリニダッドのカリプソをレパートリーにとり入れてポピュラー・ヒットを連発した。彼はまた映画俳優として、カリブ海の島を舞台にした映画「陽のあたる島」(57年)などにも出演した。

 合州国でのトップ40ヒッツにおけるカリプソ熱そのものは、数年後に訪れたツイストの流行によって簡単に過ぎ去ってしまう。それはともかく当時の合州国の白人中産階級にとって、カリブ海に浮かぶ島々の間の文化的多様性などたいして問題にならなかったのであろう。少なくとも英語圏の島々にかんしては、きわめて一枚岩的なステレオタイプが立ち上げられ、そのステレオタイプを構成していた文化表象が、他でもないカリプソ、スティール・ドラム、そしてリンボー・ダンスなどであった。

 ステレオタイプはしばしば言語圏を越えてハイチまでもその中にとり込んだ(合州国におけるカリブ海スペイン語圏の文化表象はまた別の歴史を持つようだ)。サー・ランスロットという歌手/俳優のキャリアは興味ぶかい。トリニダッド生まれの彼は、合州国に渡ったのち、カリブ海に関連した多数のハリウッド映画に出演してその中でカリプソを歌った。D・ヒルによるカリプソ研究書『カリプソ・カラルー』によれば:

 ランスロットは、彼自身のキャリアが依って立っているところの合州国白人男性に対して、決して脅威になることがないような、温厚で笑いに満ちた性格を表した。……彼はステレオタイプ的な役割を、ユーモアと上品さをもって演じることができた。「私はゾンビーと一緒に歩いた」という題の映画では、彼が歌う“Shame and Scandal in the Family”が流れる中、シャツも着ずに汗だくになったハイチ人が、吸血ゾンビーに周りを囲まれながら、ヴードゥーの太鼓を叩くというシーンがあった。

ハリウッド映画やヒットチャート音楽など合州国の大衆消費むけのメディアにおいて、西インドの文化がこのようなかたちで表象されることが、観光という、それ自体が新植民地主義的な契機を多分に含んだコンテクストに与えたであろう影響は、想像に難くない。近代観光とは、まなざしの専有者としての《北》が、見るべき他者としての《南》を探し続ける運動なのであり、その運動のなかでは、各地域や各文化の多様性や多元性とは、情報価値の違いを設けるために案出され、消費されるものである(落合一泰「《南》を求めて――情報資本主義と観光イメージ」)。そこではセガレンがそれに対しておのれを曝していたような〈エクゾティズム〉の感覚はなく、飼い慣らされた他者イメージだけが溢れる。

 映画やヒットチャート音楽から西インドのイメージを享受した《北》からの観光客たちは、そのイメージと同じような姿を現地でも求める。欧米をゲスト側とする西インドの観光はもともと両者の間の政治的経済的不均衡の歴史から成立してきたわけだから、ホスト側はまず、ゲスト側が求めるものを供することになる。数世紀にわたるモノカルチャー経済の歴史が重くのしかかる西インドでは、お定まりの「蒼い海」「白い砂浜」「陽気で親切な現地人」「快活な音楽」などを売り物にした観光産業が、まずは手っ取りばやい外貨収入源として振興される。西インド出身の知識人がいくら辛辣な言葉を投げつけても、「ツーリズムは私たちの仕事です」(バルバドス政府観光局のスローガン)であるのだ。

 訪問者にとっての地上の楽園とは何か? 雨のない二週間に、マホガニー色の日焼け、そして夕暮時には、麦わら帽を被って花柄のシャツを着たローカル吟遊詩人が、「イエロー・バード」や「バナナ・ボート・ソング」を、くたばるまで叩き続けるのです。(デレック・ウォルコット「アンティル、叙事詩の記憶の断片としての島々」植田章子訳)

 そして本稿でもたびたびほのめかしてきたように、ブラスウェイトやハリスが祝福するリンボー・ダンスも、少なくとも1950年代以降は、もっぱら観光というコンテクストで演出される文化だったと考えられる。前述のLP『リンボー−−ザ・レイテスト・パーティー・ダンス・クレイズ』の解説には次のように書かれている:

 1950年代初め、アメリカやヨーロッパからトリニダッドを訪れた観光客たちは、われわれの土着の、ある祝祭的儀式に魅惑された。それはダンスでもあり美容体操でもある。リンボーと呼ばれるこのダンスは、以来、カリブ海地域全体に拡がり、また観光客たち(とりわけティーンエイジャー)はヨーロッパや合州国にそれを持ち帰った。

リンボー・ダンスがこれ以前に西インドのどのような文化的文脈で実践されてきたかを伝える資料を実はあまりみていないのだが、しかし少なくとも1950年代ごろにその脱文脈化・脱地域化が起こり、「エスニック」起源ではあるが流行のダンスの一つとして合州国で再文脈化されたとみることは、おそらく正当だろう。前述のLPのタイトル自体もそれを示唆している。

 リンボー・ダンスをこのようにいわば脱構築するような視点をもった人々、たとえば人類学者や、事情通ぶる観光客からすれば、リンボー・ダンスは、バナナの入った篭を頭上にのせた現地女性の写真を使った絵葉書と同じように、どうしようもなく陳腐なものとしてしか映らないだろう。そして、リンボー・ダンスは観光のなかで作られた文化であって本物の文化はまだ他にある、と考え、たとえばキングストンのゲットー体験コースに、話の種に参加する人もいるかもしれない。

 たしかに西インドの音楽についていえば、現地のホテル・サーキットで演奏される音楽と、現地で実際に流行しているポピュラー音楽には、相当の開きがある。カリプソ、ソカ、レゲエなど流行のポピュラー音楽が時事性を力の重要な源とし、つぎつぎと作られては消えていくものだとすれば、ホテル・サーキットで演奏される音楽は、十年一日のようなお決まりのレパートリーである。たとえば前述のハリー・ベラフォンテによってヒットしたいくつかの曲や、“Limbo Like Me”などがそれを構成する(オリーヴ・ルーウィン「バナナ・ボート・ソングは永遠に?」)。

 しかし私は、ここで真正な伝統と創られた伝統の区別を持ちこむことによって、ブラスウェイトやハリスは創られた伝統であるリンボー・ダンスを賛美してしまっている、真正な伝統は実は他にあるのに、と批判したいわけではない。

 少なくともブラスウェイトについていえば、すでにリンボー・ダンスが純粋に西インド土着の伝統ではなく、外部からのまなざしを介して接合された文化であることに彼は気づいていたのだろう。「キャリバン」が発表されたのは69年のことである。また彼は『到来者たち』の巻末に設けられたグロッサリーで、リンボーの項で「今ではカリブ海のナイト・クラブできわめて人気の高い演目である」と付け加えてもいる。

 太田「文化の客体化」は観光人類学の分野で影響力の大きい論考だが、そのよく引かれる箇所として次のような記述がある:「観光イメージによって語られることは、自己を他者のイメージによって形成せざるをえない屈辱的な経験である一方で、同時にそのイメージがただのイメージにすぎないという批判的認識を生みだしうる」。また、別の論考(「沖縄という位置」)で太田は、W・E・B・デュボイスのいう〈意識の二重性〉――弱者は強大な他者からのまなざしを媒介にしてしか自己意識を持ちえないということ――は、土着の文化が喪失するという〈悲しい意識〉や〈悲劇的なプロット〉に帰結するとは限らず、別の可能性を含んでいる、と書く。つまり「政治的・経済的には強者である他者が、弱者である自己に押しつける認識を、弱者が言語やパフォーマンスのレベルで(自分に有利に働くように)巧みに利用し、その結果その認識を押しつけた強者の浅はかさを笑うのだ」。太田によるこれらの立論は、本質主義批判や異種混淆論はたんに既成のディシプリンが新しい研究対象にも手を拡げるための議論ではないという彼の主張(『トランスポジションの思想』5章)とともに、とくに観光に限らずグローバル化のなかでの文化と権力について考えるさいの有効な示唆を用意するように思える。

 しかしまだ、ブラスウェイトにおけるリンボー・ダンスのイメージは押しつけられたイメージの対抗的読み替えだとすることは、このまま無媒介には行なえないようだ。ここでは以下のことを確認するにとどめたい。

 まず前述のように、ブラスウェイトが「キャリバン」を発表した69年には、リンボー・ダンスは観光文化としての再接合をすでに経ていたこと。それはつまり、自文化を土着主義的に構想することで植民地主義に抵抗しようとする立場からすれば、リンボー・ダンスはまさにその植民地主義の影が濃くさした、不純で、堕落し忌み嫌われるべきものであったに違いないことを意味する。したがってリンボー・ダンスは、現地の知識人からの民俗学的・人類学的まなざしによって再評価されることもなかった。少なくともジャマイカの場合、1962年の国家独立後に民俗文化の調査研究と保存がしばしば政府や企業からの助成金をも得て進められたのだが、リンボー・ダンスはそこから排除されてしまったのだ。「リンボーという関門」でハリスは、歴史学者が抱く植民地主義的な偏見がリンボーを「粗暴」なものとして「検閲」してしまっているとし、次のように書いている:

 20世紀後半の今、歴史学者たち−−ミリタントであり、かつ帝国主義に批判的な――はかれら自身非難してやまない帝国主義まさにそれ自体の犠牲者になってしまっている。かれらは、リンボー的時代のなかで沸き立ってくるような、独創性のある芸術を評価するための基準をもたない。そしてかれらが書く歴史には、内側の時間がない。

ブラスウェイト、そしてハリスによる西インドの中心的な知識人によるリンボー・ダンスの称揚は、こうした「検閲」までもふまえて読まれる必要がある。リンボー・ダンスを中間航路の記憶と接続してみせること。しかもそれを、リンボー・ダンスはむしろ観光の産物という認識が知識人の間では優勢であった状況において行なうこと。そうした実践は、観光をつうじて生成する文化のハイブリッド性に面白がったり驚いたりしてみせてそれがそもそも暴力や政治的経済的不均衡の産物であることを忘却する態度とは、明らかに異なったものをもっている。

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「キャリバン」におけるカーニヴァルについて

 キャリバン 「そりゃあ、ふしが違う。」(『ザ・テンペスト』第3幕第3場119行)

 シェイクスピアの『ザ・テンペスト』において、音楽を奏でることはもっぱらエアリアルとその他プロスペローに操られた精霊たちに帰されており、その音楽も「厳かで不思議な楽の音」「不思議な美しい音色」「荘厳な音楽」などと描写されている。

 キャリバンはといえば、まず少なくとも何らかの音楽が「わかる」意味はもっていたらしい。彼はエアリアルや歌や太鼓によって、ステファノーやトリンキュローともども耳に魔術をかけられ、誘導されて、汚い池のなかへ漬かってしまう。またそれよりも前の場面になるが、ステファノーとトリンキュローとの陰謀計画に気をよくしたキャリバンは「みんなで浮かれようや。さっき教えてくれた歌を歌おうぜ」と提案する。それで歌いはじめたステファノーに対してのキャリバンの台詞が、上の引用である。そしてさらに、本橋論文が焦点を当てているように、キャリバンは、エアリアルや精霊たちの奏でる秩序だった音楽以外にも種々雑多な音楽を、「複数の見知らぬ声」の「交錯」を、あるいは、おそらくカーニヴァルの喧騒をも聴きとる耳をもっていた:「怖がらなくてもいい、島は音(ノイズ)でいっぱいなんだ」(第3幕第2場133行)。それに対するステファノーの言葉「これはすばらしい王国になりそうだ。ただで音楽が聴けるんだからな」は、大音量のサウンドシステムによって離れたところからもじゅうぶんすぎるくらい音楽が楽しめてしまうカリブ海の島々に、そのまま当てはまる感想である。

 こうして音楽に対するある種の感受性をほのめかされているキャリバンだが、では自分で歌ったり演奏するほうはどうなのか。『ザ・テンペスト』のキャリバンは、酒を飲んでの上機嫌から、プロスペローとの訣別とステファノーという「新しい旦那」を得たことの喜びとを歌にしてみる:「さよなら、旦那、さよなら」、「'Ban 'Ban, Ca−Caliban, 新しい旦那だ」。もっともこれはトリンキュローには、歌ではなく吠えているようにしか聴いてもらえないのだが。

 ブラスウェイトの「キャリバン」は、原作ではこのように付随的に言及されるにすぎなかったこのキャリバンの音楽性を前景化する:

 And

 Ban

 Ban

 Cal-

 iban

 like to play

 pan at the Car-

 nival;

 pran-

 cing up to the lim-

 bo silence

 down

 down

 down

 so the god won't drown

 him

 down

 down

 down

 to the is-

 land town

ここで再び顕著に西インド的な記号が出てきた。カーニヴァル、そして西インドのカーニヴァルと名のつく祝祭では欠かすことのできない、石油缶を創造的に流用した打楽器のパン(スティール・ドラム)である。

 “バン、バン、キャリバン”というパーカッシヴな韻は、じつは詩のなかではすぐ前の部分から続けて踏まれている、イクスプローシヴな韻でもある:

 It was December second, nineteen fifty-six.

 It was the first of August eighteen thirty-eight.

 It was the twelfth October fourteen ninety-two.

 How many bangs how many revolutions?

「1956年12月2日」、「1838年8月1日」、「1492年10月12日」。フィデル・カストロらがキューバ東部に上陸し、最終的にキューバ革命にいたる二十五ヵ月戦争の幕が落とされた日。イギリス領西インドで奴隷制に代わって導入された年季奉公制が4年間で廃止され、元奴隷がプランテーションの束縛から自由になった日。そして最後はもちろんコロンブスが新世界の島に最初に到着した日である。ここにいたって“バン、バン、キャリバン”の“バン”は、太鼓を叩く音の模倣だけではなく、「発見」から今にいたるまでカリブ海で鳴り渡ってきたそれこそ無数の銃声や砲声や爆発音の反響でもあるのだ。

 カーニヴァルでスティール・ドラムを叩きたがるこの騒々しいキャリバンは、そうした暴力の歴史を忘却しない。たしかに前述のリンボー・ダンス同様、カーニヴァルもスティール・ドラムも、今では観光というコンテクストにどっぷり浸かっている。どちらもカリブ海文化の差異性−特殊性の標章−表象であり、しかも外部の人間にはひじょうにわかりやすく、観光資源としてはうってつけである。しかしそこにはなお文化の創造があり続ける:

 アフリカのドラミングが禁止されたために、潜在的な楽器としてのゴミ箱が発見される ことになったのでして、この楽器の音域の微妙さは、空のオイル・ドラムへと転移され て、年毎に増大するのでありますし、カリプソ自体も、もの真似の感覚から、諷刺にも 自己諷刺にも基づいて型を創り出すという感覚から、発生したのであります。[中略] カーニヴァルの衣装、カーニヴァルの精妙でどっしりした、優雅な彫刻についても同じ ことが言えるのでして[中略]これまでお話しした三種類の芸術は、大衆から始まった のですが、独創的であり、最初に模倣しようとした対象と同様に、いまのところは模倣 を許さぬものになっています。それらは無から作られたのであり、結果として出てきた 形式は、単なる模倣といった指摘をはねつけるものを持っているのです。(デレック・ ウォルコット「カリブ海−−文化かもの真似か」徳永訳)

カーニヴァルで披露されるコスチュームはまさに異形でありキャリバンに通じる怪物性を備えている。カーニヴァルは観光化してしまったといくら聞かされても、異形のコスチュームは差異化し序列化することのできないような他者性を感じさせる。

 カリブ海の音楽を賛美する語り口が、じっさいには精神対肉体、論理対感情、文明対野蛮などの二項対立を温存して一方の項にカリブ海の文化を幽閉するかのような未分節なものとして現前しやすいこと。このことには注意を要する。こうした二項対立は植民者としてのプロスペローと被植民者としてのキャリバンをもそのなかに配置するものである。ブラスウェイトによるキャリバンの音楽性の強調、そしてそれと西インド的記号との接続は、こうした未分節な賛美をとっかかりとして利用しつつなおかつ聴く者や見る者の目や耳を釘づけにするカリブ海の芸術に似ている。

 ブラスウェイトは何度か skeletone というメタファーを詩のなかで用いている。それはまさに“バン、バン、キャリバン”といったように言葉を脱構築し「ゆがめる」(N・マッキー「言葉をゆがめる」)ような彼自身の詩作のメタファーであるし、断片の寄せ集めから素晴らしいポリフォニーを奏でようとする、彼自身が属する共同体のメタファーでもある。


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