ホセ・エンリケ・ロド、『アリエル』は米西戦争(1898)のインパクトの下、書かれたエッセイ。プロスペローと呼ばれる老教師が教え子を前に演説するという形式で、アメリカ合衆国の功利主義をカリバンの獰猛さにたとえ、カリバン(キャリバン)たるよりはむしろアリエル(エアリエル)たれと説くもの。
ここでは『アリエル』をその戦略の面から二重性において捉える。
二重性とはラテンアメリカ主義と国内問題。ラテンアメリカ主義とはパンアメリカ主義や合衆国の新植民地主義に対するカウンター・ディスコース。ポール・グロウサックやルベン・ダリオといった当代を代表する作家達が米西戦争に素早く反応して合衆国を非難する。(ダリオは「カリバンの勝利」と題する文章を書き、アメリカ合衆国をカリバンにたとえている)。その文脈の中でロドも書かれ、読まれた。実際に作中のプロスペローは「イスパノ(ラテン)アメリカ」の若者達に呼びかけているし、その論法も典型的なラテンアメリカ主義の主張。
功利主義がイギリス精神の言語だと言うことができるのであれば、アメリカ合衆国は功利主義言語の肉化と見做すことができる。この言語の福音書は物質が奇跡的に勝利を収めたことによってあらゆるところに普及した。イスパノアメリカは、この勝利との関係で、最早上品な人々の土地とは言えなくなった。
イギリス精神=アングロサクソン/イスパノ=ラテンアメリカの二項対立の各項に功利主義/上品さという属性を帰属させ、「イスパノアメリカは、この勝利との関係で、最早上品な人々の土地とは言えなくなった」、即ち、アングロサクソンが我々を侵略したと説く。この論法がラテンアメリカ主義の典型。
ラテンアメリカ主義のディスクール生成の中でロドの特徴は、その戦略にある。普遍化の戦略と形式上の戦略。普遍化の戦略とは、特殊地方的なことからラテンアメリカ主義を語り起こさないということ。
章立て
1プロローグ(設定)
2若さの称揚
3生の全体性志向ということ
4美、良き趣味について
5全体性や良き趣味が見失われがちな功利主義、資本主義批判
6功利主義、資本主義の栄華としての合衆国批判
7エアリエル讃
8エピローグ
この構成はさほど珍しくもない漸層法ではあるが、ラテンアメリカ主義生成に寄与した他のテクストの多くが冒頭から末尾まで徹底的にアメリカのことを論じているのに比して特異な構成となっている。
また、1章から5章までのいわば「普遍的」な事柄についての演説の際にも、ルナン、コントなどの名を引き合いに出したり彼等に同化して語るプロスペロー=ロドの態度は、やはり普遍化の戦略と言える。(「我々はルナンとともにこう言おう……」/「近代人で彼〔ルナン〕ほどに、アナトール・フランスが神々しいことと断じた『優雅に教える術』を身に付けた者はいない」)。ましてやコントはイデオロギー的に敵対する実証主義者の代表。(「オーギュスト・コントは先進文明のこの危険を見事に指摘している」)。そのような象徴的な人物ですら我々に賛成してくれるだろう。それが普遍的の謂である。
戦略は形式面にも及ぶ。(疑似)対話形式。つまり、演説と聴衆の反応という形式。これが話者プロスペローの声を権威化する戦略とロベルト・ゴンサレス=エチェバリアは論じた。空気の震え(=声)を巡る比喩(「彼〔プロスペロー〕の言葉から発した空気の振動が彼等〔聴衆〕とともに行く」)を多用し、それが聴衆を覆う様を印象づける。更に、聴衆の中から声を受け継ぐ者が出現する。エピローグのエンホルラスEnjolras。即ち、声の浸透。
その時、沈黙が長く続いた後で、グループの最年少の、独り物思いに沈むその様からエンホルラスと呼ばれている者が、人の群れのゆったりと波打つ様と輝く夜の美しさを順に指し示しながらこう言った。
「民衆が通り過ぎる様を見るに、彼等は空を見上げないけれども、空は彼等を見下ろしているのがわかる。地上の溝のように暗く無関心な人の塊に、上から何物かが降ってくる。星の揺らめきは種撒く人の手の動きに似ているではないか」。
このエンホルラスの位置は、ホセ・マルティを強く喚起させる。マルティはニュー・ヨーク滞在中の1880年代、コニー・アイランドに大衆社会の到来を見、群衆・大衆を遠くから眺めて、その上に精神的価値を想定した。それが文化概念を生産したとフリオ・ラモスは言う。ここでのエンホルラスもマルティのそれと同様に大衆を遠くから眺め(「地上の溝のように暗く無関心な人の塊」)る位置にあり、大衆との対比でその上位にある何物か(「星の揺らめきは種撒く人の手の動きに似ているではないか」)を設定している。プロスペローの声を受け継ぐエンホルラスは、こうして文化の生産装置となる。
しかしこのEnjolrasはユゴー『レ・ミゼラブル』の登場人物ではあるが、一方でjornales (jornal)「一日の労働賃金」のアナグラムとして読めてしまう。極めて知的エリート主義的な、大衆と一線を画する「文化」を受け継ぐのが労働者jornaleroの属性を持った、それを換喩的に指し示す人物であるという事実。
この事実に接続されるべきはアルゼンチンの思想家アルベルディからの引用。
大分前、砂漠の如きモラルの空隙を埋める至上の必要性から、さる高名な論者がアメリカにおいては統治することは人を住まわせることだと言った。――しかし、この有名な言い草は真実を内包してはいるものの、それを狭く解釈することには用心しなければならない。群衆の量的価値に無条件で文明化のための効力を認めてしまいかねないからだ。――統治することが人を住まわせることであるのは、まず何よりも同化することによってであるし、更には教育し、選別することによってなのだ〔……〕。
つまり移民、国内の移住、都市の膨張、大衆化に対する姿勢。ラ・プラタ地域の19世紀後半はイタリアなどからの大量の移民によって特徴づけられる。かつてアルベルディは「統治することは人を住まわせることだ」と言い、ヨーロッパから(特にイギリス)の移民を促進して国を近代化させようとした。移民を労働者層と同一視し危機意識を感じた都市インテリ層は多く、ロドもその一人であり、この一節はまさに彼の恐れが表現されている。統治するとは人を住まわせることであるのは同化することによってだとアルベルディの言葉を読み替え、増え行く大衆層に対処している。これはもはや抵抗者としてではなく、為政者としての視線。現実にロドは、1903年、後にイタリア移民の労働組合からの圧力によって労働法を整備するバッジェ・イ・オルドニェスを大統領にするのに一役かっている。実際に労働者を同化しているのだ。