ここでは、ジェンダーを中心的関心とするThe Tempest受容・批評・改作の流れをマッピングし、Gloria Naylor, Mama Dayにおける、非白人女性作家のシェイクスピア正典への介入の戦略とその可能性・限界を考察する。
1950年代・1960年代、植民地解放運動の視点から、卓越したThe Tempest改作が数多く登場、The Tempestをポストコロニアルな文脈から奪用する、政治的介入が行われた。シェイクスピア批評・研究においては、The Tempestとアメリカ「新世界」植民地化の関わりが否認され、プロスペローを恩寵豊かな植民者・父・魔術師、キャリバンを「文明化」不可能な「野蛮人」とする、西洋中心主義的解釈が主流であった時代だ。シェイクスピア批評において、The Tempestの政治的含意が問われるようになるのは、1980年代中盤となる。支配者に強制された支配者の言語を奪用し、支配者の言語で「悪口を習う」という抵抗の戦略が、支配を脱臼させることができるのか、それとも支配者の言語を使用せざるをえないことが、結果的には支配の体制に包摂されてしまうことになるのかが問われた。1970年代以降、ポストコロニアルな視点からの改作は減少し、批評においても1980年代中盤に提出されたポストコロニアル・パラダイムに代わる有効な読みの戦略は、提出されていない感が強い。
1980年代中盤、新歴史主義と文化唯物論の批評家たちが、The Tempestのヨーロッパ中心主義的な権力言説分析に着手したまさにその時、アフリカおよびカリブ地域のポストコロニアル的・反植民地支配的視点からの改作が、実質的には枯渇してしまった事情にふれて、Rob Nixonは以下のように述べている。
The difficulty of wresting from it any role for female defiance orleadership in a periods when protest is coming increasingly from that quarter. Given that Caliban is without a female counterpart in his oppression and rebellion, and given the largely autobiographical cast of African and Caribbean appropriations of the play, it follows that all the writers who quarried from The Tempest an expression of their lot should have been men.
プロスペローによる西洋植民地支配への抵抗主体として立ち上げられたのは、キャリバンという男性主体であった。そこでは、男性間の闘争が前景化され、「人種」・地政学などの差異の軸が強調される一方、ジェンダーというもう一つの差異の軸は閑却される傾向が大きかった。そこには、ミランダやシコラックス、クラリベルの女性たちはいない。近年のThe Tempest改作・批評の一種の衰退の原因を、Nixonは、改作・批評がネオ・コロニアル的状況を閑却したことと合わせて、このジェンダー問題の閑却に帰している。
北米大陸女性作家の系譜を検証したSister's Choiceで、フェミニスト批評家Elaine Showalterは、The Tempestがアメリカ人女性作家が、女性芸術家あるいはフェミニストが、知識人について暗喩的に語るために長く用いられてきたことを指摘している。アメリカ女性作家たちは、同一化の対象として、キャリバンではなく、植民者プロスペロの忠実な娘、ミランダを選択した。家父長制権力、言語、女性のセクシュアリティ、そして創造力と、女性との関係を探るために、ミランダが奪用され、改作された例として、Showalterは、Margaret Fuller, Woman in the Nineteenth Century (1845), Harriet beecher Stow, Orr's Island (1862), Louisa May Alcott, The Chase (written in 1867(, Katherine Anne Porter, "The Grave"(1935), Sylvia Plath, "Ocean-1212-W" (1938), Gloria Naylor, Mama Day (1988)などを挙げている。
Showalterは、1902年に、ミランダを「マサチューセッツ娘」と呼んだニュー・イングランドの批評家、Edward Everett Haleのエピソードを紹介している。キャリバンが、アフリカ、カリブ地域の、抵抗する男性主体として奪用されたとすれば、ミランダは、文化的宗主国イングランドの忠実な娘・アメリカの隠喩として、イングランドの文化的優位に抵抗する主体ではなく、むしろシェイクスピア・ブランドの権威に自ら従属する女性主体の隠喩として、採用されたことになろうか。
ミランダは、父親の権力奪取のコマ以上の意味を持つとは思いがたい人物であり、女性主体の自律性を求めて、女性読者が自己同一化するのは難しい人物だと言えるだろう。もし、キャリバンに、植民地支配者の言語と論理を奪用し、植民者の言語で植民者を呪う、抵抗の拠点が見いだしえるのだとしたら、プロスペローの純粋培養種である娘ミランダ、彼に知識と教育のすべてを負っているミランダは、プロスペローから学んだ言語で、何を語るのだろう? 父を呪うことは、ありそうにもない。
しかし、父の腹話術人形以上の意義を見いだしがたいミランダに、アメリカ・カナダ女性作家は、書く主体としての自己像を求めた。そこに、イングランドの文化的権威への屈従と、西洋中心主義、男性中心主義の、アメリカ・カナダ女性作家による再生産を見ることも可能だろう。白人中産階級フェミニストは、しばしば、家父長制と植民地支配の双方に拘束され、プロスペローの支配に従属してきた。このことをLaura E. Donaldsonは、「ミランダ・コンプレックス」と呼んでいる。しかしながら、女性が書く主体となることに、重い抑圧がかかっていた状況の中で、プロスペローに体現された、男性・父・文化的権威にたいする服従を通して、書く主体としての位置を確保し、ミランダとして語ったアメリカ・カナダ女性作家の戦略に、ある一定の評価は与えられるべきであろう。このミランダの語るものが、父の論理のオウム返しに過ぎない可能性は大だとしても。
1970年代までのシェイクスピア批評・研究において、女性研究者は、プロスペローの忠実な娘・ミランダとして語るときにのみ、発話の機会を与えられてきた、といえば言い過ぎだろうか。これがやや変化を見せ始めたのは、1980年前後だろうか。シェイクスピア批評・研究でフェミニズムを打ち出した最初の論文集Woman's Partの出版が1980年である。現在の視点から見れば、ジェンダー本質主義的傾向や白人中産階級女性の特権化などの問題点を指摘することのできる論集だ。ここにあるのは、シェイクスピアの文化的権威に対する異議申し立てではない。シェイクスピア作品の中に、1970年代北米大陸女性研究者が同一性を感じることのできる要素を見いだしていこうとする、「詩人崇拝」の一種だ。ここに所収された論文、"The Miranda Trap: Sexism and Racism in Shakespeare's Tempest"で、Lorie Jerrel Leiningerは、家父長制により抑圧されるミランダと、人種主義に抑圧されるキャリバンが、共に立ち上がって、父であり植民者であるプロスペローに反旗を翻す可能性を考察している。Leiningerは、
. . . even though Miranda occupies a place next to Prospero in the play's hierarchy and appears to enjoy all of the benefits which Caliban, at the base of that hierarchy, is denied, she herself might prove a victim of the playユs hierarchical values. (p. 286)
と、ミランダもまた、ヒエラルキーの犠牲者である可能性を指摘している。Leiningerの言う、"the play's hierarchical values"が、非限定的で、曖昧であるところに、彼女のThe Tempest奪用の戦略の、可能性もあり、限界もある。時代的限定という面もあろう。どの側面においてミランダが加害者・共犯者であり、また別のどの側面において被抑圧者・弱者であるのかを、限定していない。このことにより、ひとつには、キャリバンとミランダの共闘という、ユートピア的ヴィジョンを展開する介入の機会を開く。Leiningerは、ミランダの原作にはない独白で、論文を締めくくる。
"Will I succeed in creating my 'brave new world' which has people in it who no longer exploit one another? I cannot be certain. I will at least make my start by springing 'the Miranda-trap, ' being forced into unwitting collusion with domination by appearing to be a beneficiary. I need to join forces with Caliban ―― to join forces with all those whoare exploited or oppressed ――to stand beside Caliban and say,
As we from crimes would pardon'd be,
Let's work to set each other free." (p.292)
ミランダが、キャリバン、「搾取され、抑圧されたすべての人々」と手を組んで立ち上がり、抑圧者に対して闘いを挑むというヴィジョン。「原作」に内在的に存在する要素を客観的に「解釈」する、という批評・研究の建前上の中立主義からは、とても飛び出してきようのない力技・離れ業。批評・研究という形式を、「すべての搾取と抑圧」排除という自己目的のために奪用する、介入のひとつの見事な例だろう。たしかに感動的。たしかに元気が出てしまう。でも。
ミランダやキャリバン、「搾取され、抑圧されたすべての人々」を、抑圧された者として一つのカテゴリーに包括し、均質化するとき、隠蔽されているのは何だろうか。
キャリバンは、植民地支配や「人種」という点からは、支配・抑圧を受ける弱者である。しかし、たとえば自らは父親不明(悪魔という噂はある)の、母シコラックスの女系の息子でありながら、ミランダ・レイプ未遂の過去について、もし成功していたら島にlittle Calibansがあふれかえっていただろう、と語る(なぜlittle Mirandasではないのか)という時に露わになるように、キャリバンは、男性支配と性的所有制度の場面では、支配する側であり、より凶暴な搾取者となる危険性すらある。一方ミランダは、ジェンダーの場面では、父という暴君に盲従するしかない被抑圧者であるかもしれないが、しかし、植民地支配と「人種」秩序の場面では、その搾取的秩序の受益者であり、搾取する側であり、共犯者である。Leiningerのユートピスト的ヴィジョンでは、この、ミランダの、搾取体系における受益者・共犯者という側面が、隠蔽されている。「人種」・ジェンダー・階級・セクシュアリティなどの、様々な差異の体系の、相克する利害関係やズレ、葛藤を分節化し、顕在化することではなく、「搾取と抑圧」という包括的なカテゴリーにくるみこむことで可能になっている、このユートピア的ヴィジョンは、むしろ却って高圧的で抑圧的なのかも、しれない。
このような限定性は、1970年代―1980年代中盤までの、フェミニスト・シェイクスピア批評が、ジェンダーという差異の体系を重要視するあまり、「人種」・階級・セクシュアリティなどの、他の差異の軸を軽視する傾向があったことからくる、限定性でもある。白人中産階級ヘテロセクシュアル知識人女性が、作品中の白人上流ヘテロセクシュアル主人公クラス女性登場人物に、どっぷりと自己同一化する形で、シェイクスピア作品に見られるジェンダー秩序を研究する、というのが典型的なパターンであったのだが――つまり、ミランダとして語る、別ヴァージョンだが――、このような方法で見逃されるのが、女性の間に存在する様々な差異と利害の相克であり、また女性として抑圧を受けているのであっても、たとえば「人種」などのレベルで抑圧する側に回るという、錯綜した状況だった。Leiningerに即して言えば、彼女が「搾取され抑圧された」者としての女性を代表する人物として、ミランダを選択した時点において、シコラックスやクラリベルという、「別の女性」たちを、「女性」というカテゴリーから排除していることになる。結果として、均質的カテゴリーとして理解された「女性」一般を、ミランダのような白人上流ヘテロセクシュアル主人公クラス女性登場人物に代表させることは、「他の女性」の声を奪う、別種の暴力になっているのかもしれない。
文化唯物論の批評家Kate McLuskieが1985年に、現代フェミニズムの理想をシェイクスピア作品に読み込むことは時代錯誤であると喝破し、「女性性」を本質主義的・超歴史的に扱う危険に警鐘を鳴らした前後から、シェイクスピア批評におけるジェンダー研究も様変わりしてきた。マクルスキーらが、第一世代フェミニストたちを批判した点の一つに、上に述べた、ジェンダーを特権化し、他の差異の軸を隠蔽する傾向があったことがある。これ以降のフェミニズム批評は、構成主義的方針を強く打ち出している。それに対しC. Neelyは、マクルスキーらの研究は、すでにジェンダーが大きな問題ではないかのように扱っている点で、反フェミニスト的であり、様々な差異を超越して存在する、女性すべてに共通する「本質」を設定することなしに、フェミニスト批評は不可能であると主張した。
S. Orgelは"Prospero's Wife"(1986)で、The Tempestで女性の不在の意義に注目した。ミランダは存在感が希薄であり、シコラックス、クラリベルには言及はあるものの、舞台上に登場せず、ミランダの母・プロスペローの妻となると、登場しないばかりか、名前すら与えられていない。不在には、不在自体の意義がある。オーゲルは、不在・欠如・語られないものに、女性の存在やその重要性を、隠蔽し、削除し、抹殺する操作、否認の徴候を見る。劇中で一度言及されるだけのミランダの母は、貞淑な女性であったとされるが、これは女性一般は不貞であるという疑念の裏返しの表現である。父親不明の私生児キャリバンを生んだシコラックスが不在のまま、プロスペローの言説を通じて悪魔化して表象され、キャリバンが主張する母から継承した島の所有権は強迫的に否定される。一方ミランダは、実質上プロスペローが単性生殖的に創造した被創造物であり、母は、プロスペローの血筋の純粋性を保証する媒体・容器以上の意味を剥奪されている。このような度重なる否定と存在の抹消に、オーゲルは、性的再生産能力を含めた女性の力を、男性が吸収し簒奪しようとする動きを見る。存在を抹消された女性たちは、女性への依存を否認し、それを簒奪しようとする男性の暴力の痕跡として不在で現前する。プロスペローの個人的ケース・ヒストリーとしてよりもむしろ、初期近代英国全般にまたがる文化的ファンタジーの一形式として、女性の抹消を読むオーゲルは、そこに男性性の不安、女性にその存在を依存することの不安と嫌悪、男性主体の脆弱性を見る。
シェイクスピア研究におけるフェミニズム批評は、人種的差異や文化的相違の問題に十分な配慮を払ってきたとは言いにくい。マテリアリスト・フェミニズム論集The Matter of Difference (1991)は、女性が均質的なグループではなく、人種・階級・地政学的位置などの差異をはらんだ異種混淆的なグループであることを打ち出した点で、一時代を画するものであった。しかしこの論集でも女性登場人物たちの間の、また女性研究者相互の人種的差異はほぼ無視されている。ポストコロニアル理論の強い影響下、この問題を前面に押し出して編まれたのがWomen, "Race," and Writing (1994)である。A. Loombaが、この論集の冒頭論文を担当し、女性を人種や文化的差異を内包した異種混淆的なグループと見なす、構成主義的アプローチを徹底することにより、初期近代演劇の女性表象の多様性への多様なアプローチを展開する必要を主張しているが、これは白人ブルジョワ・フェミニズム的色彩の強かったシェイクスピア研究が、非ー白人フェミニズムとの対話を通してポストコロニアル批評と連携していく一つの方向性を示したものだと言えるだろう。
ルーンバは、1989年のGender, Race, Renaissance Drama所収の"Seizing the Book"で、The Tempestが、フェミニスト、特に非―西洋フェミニストにとって、奪用の難しい作品だとしている。それは、力強い女性登場人物が存在を抹消されているからというだけの理由ではなく、黒人男性(キャリバン)のセクシュアリティが白人女性レイプを試みる邪悪なものとして表象され、また父親不明の子を産んだシコラックスのセクシュアリティが淫蕩なものとして表象されることで、白人女性ミランダの受動的なセクシュアリティの純潔性が強調され、白人男性による非ー白人支配正当化のために活用されるという状況があるからだ。シコラックスの淫蕩さがミランダの貞操と処女性と対比されることは、非―ヨーロッパ女性がみだらな存在として表象されることにより、彼女たちが受ける性的虐待が正当化され、彼女たちを白人女性から分断し、女性というマイノリティ内部の分離支配が試みられる、植民支配のおなじみのシナリオの一例である。植民者としてのプロスペローはシコラックスを黒く邪悪な魔女として悪魔化することを通じて、白人男性としての支配を強化する。
The Tempestはシェイクスピア作品の中でも最も数多くの改作や翻案を生んだ、多産なテクストである。そのような改作・翻案は、はたしてシェイクスピア作品という正典の権威を、脱構築し奪取するものなのか、それとも、それほどまでに改作・翻案可能であるという事実が、逆にシェイクスピアの「普遍性」の徴とされてしまうのか。シェイクスピア作品に代表されるという西洋の文化的優位をもって、西洋の覇権が正当化される帝国主義的状況がある。「文学の黄金律」シェイクスピアを選択するということが、白人ヨーロッパ正典への忠誠を示すものであり、シェイクスピアが、ヨーロッパと非ーヨーロッパ文明の相対的成果を計るための卓越した基準であると、認めてしまうことになるのだろうか。
H.D.のBy Avon River (1949), Suniti NamjoshiのSnapshots of Caliban, Mariana WarnerのIndigoの、女性作家によるThe Tempest改作を論じた"Rewriting the narrative of shame"でKate Chedgzoyは、Peter Ericksonに言及しながら、正典と改作の関係を概念化する、2つのモデルを提示する。「つけくわえ」モデルと「変容」モデルである。「つけくわえ」モデルでは、正典概念と、テクストが正典に参入を認可される価値基準は不可侵のままであり、その基準に合致する新しいテクストが参入することで、正典は拡大する。それに対し「変容」モデルでは、「私たちが正典を理解しそれを編成する慣習的方法に、根本的変化がおき……諸作品間の相互関係を、もっと生産的に記述できるようになる。」後者のような「変容」モデルを推進する立場から、Chedgzoyは、女性作家による、「原作」では周辺化され抑圧されている女性の視点からのTheTempest改作研究を行っている。
反植民地主義の立場から、アフリカ・カリブ地域の改作は、キャリバンを植民地支配に抵抗する男性主体として立ち上げた。そこでは、ジェンダー問題は軽視されていた。一方白人ブルジョワフェミニズム批評は、白人女性の視点を特権視する傾向が強く、ジェンダーと他の差異・抑圧の体系との矛盾し相克する利害関係を隠蔽した。キャリバンが男性中心主義の受益者であると同時に、帝国主義の被抑圧者であるように、ミランダは家父長制の被抑圧者であると同時に、植民地主義の共犯者・受益者であるという、矛盾した位置にいる。
Gloria NaylorのMama Day (1988)は、白人男性作家中心の正典編成、白人中産階級フェミニスト批評の白人中心主義、反植民地主義的改作の男性中心主義の三つどもえから、もっとも厳しく排除され、周縁化されている存在、有色人種女性Mirandaまたの名Mama Dayの視点を中心とした、The Tempestの改作である。白人男性作家中心に正典が編成されている中、有色人種女性作家として書く困難について、ネイラーは以下のように語っている。
The writers I had been taught to love either male or white. And who was I to argue that Ellison, Austen, Dickens, the Brontes, Baldwin and Faulkner weren't masters? They were and are. But inside there was still the faintest whisper: Was there no one telling my story?
確立された白人男性中心の正典伝統を代表するのがシェイクスピアであるとすれば、現在出現しつつある新しい伝統を代表し、ネイラーの直接のモデルとなっているのは、Toni Morrisonである。前述のChedgzoyは、1980年代後半からの、アメリカ合州国高等教育改革論争で、シェイクスピアと現代女性作家(特にモリソン、アリス・ウォーカーなどの黒人女性作家)を、対立した文化価値を体現する、両極と見なした正典覇権争いが行われたことを批判的に分析している。その論争では、シェイクスピアが、包括的で人間的な文化伝統の代表者とされ、フェミニスト作家・批評家は、その伝統を破壊する、悪意にあふれた魔女たちとされた。Mama Dayはこのような文化戦争の中から生まれてきている。
ネイラーの第一作、The Women of Brewster Place (1982)の"Cora Lee" storyでは、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』が、高等教育と社会的地位上昇のアイコンとなっている。『真夏の夜の夢』黒人パフォーマンスが一瞬かいま見させた社会的地位上昇の夢は、しかし、Cora Leeの息子Sammyの「ママ、シェイクスピアは黒人だったの?」という無邪気な問いでうち砕かれる。第二作LindenHills (1985)は、ダンテの『神曲』を主な準拠点にしている。シェイクスピアの文学的権威の問題は、「なぜ黒人はシェイクスピアを生み出さなかったのか」という、さらに緊迫した意識に発展している。
Mama Dayは二つのロケイションで展開される。Mama Dayことミランダと妹Abgailが住むWillow Springsという(架空の)島と、アブゲイルの曾孫Cocoa (本名Ophilia)と後にその夫となるジョージの住むニュー・ヨークである。この産業化した北部と、牧歌的な南部の対比は、ネイラーの諸作品に登場する。前述のShowalterによれば、Willow Springsは、ジョージアと南キャロライナ沿岸のthe Sea Islandsをモデルとしている。the Sea Islandsはバルバドスや西アフリカ出身の黒人奴隷子孫たちの故郷で、そこではGullahもしくはGeecheeと呼ばれる方言が用いられており、独特の親族制度、芸術工芸、民衆文学が発展していた。アフリカ系アメリカ人文化において、the Sea Islandsは肯定的な黒人アイデンティティと純粋なアフリカ伝統が保持された場所として、特別な意味を持っていた。しかしこの言語的・文化的特殊性は、近代化の波に押されて急速に消え去り始めている。
Willow Springsはジョージアと南キャロライナの沿岸、両州のちょうど中間にあり、橋一本で大陸に接続された島として設定されている。ジョージアと南キャロライナ双方が、ウィロー・スプリングズの領有を主張しているが、ウィロー・スプリングズは、アメリカの合州制度に合致しない領域で、州の税金を収めていない。これは、合州制度が、国内植民地化的要素を持ちうることへの、ネイラーの皮肉なコメントととってよいだろう。
ウィロー・スプリングズの独立性は、独特の歴史から来ている。ノルウェイ出身の植民者Bascombe Wadeが、アフリカ出身の女奴隷Sapphiraの説得で、彼の領有していたウィロー・スプリングズを、黒人奴隷にすべて遺贈したことに、その歴史は始まる。ミランダとその一族は、このサッフィラの子孫である(サッフィラの七人の息子の子孫。息子たちの父親は不明)。Bascombeはノルウェー出身でアメリカ人ではなかった。Bascombeがミランダらの祖先に土地を遺贈した時点で、奴隷であったミランダらの祖先はアメリカ人ではなかった、と物語は告げる。誰がどのような条件でアメリカ人になることができるのか、だれがアメリカ人たる資格を剥奪されるのかに働いてきた排除制度への、辛辣な皮肉であろう。(しかし疑問。Bascombeが白人植民者で、ミランダたちの祖先がアフリカから強制連行されたアフリカ人であったとして、彼ら以前にウィロー・スプリングズにいたかもしれない、先住アメリカ人への言及が、一度として作品中にないのは、いかなる事態だろうか。)
ウィロー・スプリングズに襲来するネオ・コロニアルな支配勢力に、観光産業がある。大陸側の資本が、「コミュニティの活性化」の美名の下に、ウィロー・スプリングズを「ヴァケイション・パラダイス」として観光化しようとしている。作品冒頭のナラティヴの現在(1999年)では、ウィロー・スプリングズ住民は、観光産業がもたらすネオ・コロニアルな状況に抵抗を続けており、土地の世襲相続の原則に忠実だ。
島出身の若者の多くは、ココアも含めて、大陸側(「橋の向こう」)で高等教育を受ける。その一人Reemaの息子は、ウィロー・スプリングズの「独特のスピーチ・パターン」を探り、「文化保存」を目指す「民族学者」である。故郷で「広範なフィールド・ワーク」を行い、自らの「文化的アイデンティティ」を主張したReemaの息子は、ウィロー・スプリングズの人々の言葉には耳を傾けず、彼の出した成果は、極めて紋切り型なものだった。西洋白人の男性主体が、「ネイティヴ」の文化を客体として語る、という人類学的配置が第一段階だとすれば、「ネイティヴ」エリートが語る主体として、自らの生まれた文化を学問の客体として言説化するのが次の段階なのだろう。「ネイティヴ」エリートが「ネイティヴ」について語ることがどのような条件でできるのかという表象・代表の力学への、語られる側・客体の側からの、ユーモラスではあるが、皮肉なコメントになっている。
ミランダたちの祖先、サッフィラは、Bascombeを説得して、すべての土地を黒人奴隷に遺贈させた。アフリカ出身で、強力な魔女であり、父親不明の息子を生むサッフィラは、The Tempestのシコラックスに相当する。(ネイラーの次作は、サッフィラが主人公になるとの噂。)その子孫にあたるママ・ディことミランダもまた、薬草知識豊かな、「賢い老女」であり、その魔術的力は、通常は近隣の人々の治療や出産という、「白魔術」目的に用いられている。The Tempestでは「黒い」魔術がシコラックスに、「白い」魔術がプロスペローに分配されている。女性蔑視と「人種」差別が、二重に機能して、シコラックスは「悪い魔女」として表象されるのであるが、サッフィラやママ・ディは、プロスペローの魔術的力と、シコラックスの魔術を、双方吸収した人物として登場する。一方、強力な知識を備えたプロスペローに相当する男性魔術師は登場しない。山師・香具師Dr. Buzzardが、プロスペローのコミカルな戯画となっている。また、シコラックスの邪悪な魔術の一面は、嫉妬に駆られてココアを毒殺しようとするRubyに転置されている。ママ・ディの魔術も善意の魔術一方ではなく、嵐と雷でルビーを殺害することのできる邪悪な側面も持っている。ネイラーが、有色人種女性を、強大な魔術知識を備えた人物として創造したことは、The Tempestの白人中心主義や男性中心主義への、そこから排除されてきた有色人種女性作家からの、手厳しい批判であり、改作を通じた政治的介入であると言えるだろう。
The Tempestが、プロスペローを中心とした、男系の血筋継承を中心問題としており、異性愛を経由したホモソーシャルな関係の再構築を目指しているとすれば、Mama Dayでは、サッフィラを始祖とする女系が中心で、強調点は、高齢の姉妹ママ・ディとアビゲイル、アビゲイルの孫のココアの、女性同士の絆に置かれている。サッフィラが生んだ七人の息子の父は不明であり、アビゲイル以下の世代のディ家のメンバーはすべて女性、そして娘・孫たちの父については一切言及がない。ココアの本名はオフィーリアである。『ハムレット』で政権争いとジェンダー支配の犠牲となって水死するオフィーリアに対し(ココアが直接名前を受け継いだ曾祖母オフィーリアは、娘Peaceの事故死から狂乱、水死)、ココアは、夫ジョージの自己犠牲で延命、別の男と再婚して二児をなす。ニューヨークのビジネス・エリート、黒人中産階級男性であるジョージの犠牲を通して、サッフィラの女系継承が達成される。
産業化した北部と、牧歌的な南部の対比が、娼婦の生んだ私生児ジョージと、サッフィラ以降の伝統を受け継ぐココアの対比に重ねられている。ここでは、ジョージは、魔女の私生児キャリバンに相当し、ココアはミランダに相当するだろうか。ココアの生まれた南部のウィロー・スプリングズが、経済面は別として、文化的な側面では、この作品の中心をなす、という点でも、The Tempestでの地中海世界=中心、プロスペローの島=周辺の配置とはズレを含む。男性であり、孤児院育ちでありながら「立志編」的な出世を果たしているジョージ(コロンビア大出身)は、彼の愛読書であるKing LearのEdmundに自己同一化する傾向が強い。エドモンドはグロースターが正妻ではない女性に生ませた私生児である。娼婦の息子(son of bitch)という一般的な罵り言葉に、ジョージが過剰に反応するのは、自分を生んだ母がセックス・ワーカーであったという事情から来ている。『リア王』のエドモンドの場合、母不明の父の私生児として登場するが、ジョージは父親不明の母の私生児として登場するという違いがある。父親についてまったく言及がないココアと好対照である。また、ジョージは生まれつき心臓に障害を抱えている。Mama Dayでは、ジェンダー・「人種」・地域などの様々な差異の軸が、相互に相克する関係として提示されているとすれば、ジョージの心臓障害という問題も、健常/障害という差異から注目されるべきであろう。ママ・ディの女系家族が存続できるのは、黒人男性ビジネス・エリートであるという意味において、優位にたつものの、身体健康のレベルで挑戦を受けているジョージを、犠牲にしてのことである。
ウィロー・スプリングズが、牧歌的世界と設定されているのは、シェイクスピア批評の系譜から見ると、やや問題含みである。シェイクスピア研究の伝統的批評では、The Tempestの牧歌的要素が強調されてきたが、この強調は、The Tempestが、植民地収奪などの血腥い政治・歴史と深い関わり合いを持つことを否定するためにこそ、なされてきたという経緯がある。The Tempestは普遍的人間の真実を描いた牧歌的・ユートピア的世界であり、現実の政治・歴史の限定性を超越している、というわけである。牧歌というジャンルの政治性――宮廷・都市文化と対立するロマンスの世界ではなく、それを補完し再生産するためのジャンルとしての牧歌、男性詩人の宮廷出世の道具としての牧歌――が、L.Montroseなどにより明らかにされてきた今、プロスペローの島を単純な意味で牧歌的な世界と呼ぶことはできない。その点からすると、南部ウィロー・スプリングズが農業中心の牧歌的世界であり、北部がマネー・フローに支配された産業社会と設定されていることは、やや安易な対立である、という感が免れない。
また、プロスペローの島が白人男性家父長に支配された世界であるのに対し、ウィロー・スプリングズがママ・ディという女家父長に支配された島として設定されていることは、The Tempestの白人中心主義・男性中心主義を見事に逆照射しているのではあるが、ママ・ディに代表される女性の魔術的力が、ナチュラルなハーブによる治療などの、大地と自然に深く根ざした力として表象され、たとえば心臓の悪いジョージが常に飲み続けなくてはいけない化学薬品の効能と対比されていることは、極端にいえば、女性=大地母的自然vs男性=文明・文化の二項対立図式を、呼び戻す危険性があるのではないだろうか。もちろん、ウィロー・スプリングズは近代化や観光産業の野望に常にさらされており、自動車やトラクターなどの近代産業技術に依存している社会として描かれており、ココアやReemaの息子などのように、外の世界で教育を受ける若い世代や、外の世界で労働したりロック・コンサートを聞きにいったりして内部と外部を行き来する人々が多く登場するという意味において、外部/内部=文明/自然=男性/女性という図式が、それほどすっきりとは引けないことを、示しているのではあるけれども。白人中心主義や男性中心主義、ハイテク産業主義に対置するものとして、「自然」に根ざした女性家父長の支配する牧歌的な世界を創造したネイラーは、以上に述べたような限定つきではあるけれども、The Tempestの白人中心主義や男性中心主義を批判する位置を、戦略的に獲得していると、一応は言えると思う。
The Tempestで、プロスペローにその強大な力を与えているのは、彼の本と、魔法の杖であった。Mama Dayで、魔法の杖と本を所有しているのは、ママ・ディことミランダである。ママ・ディがココアを救済するためにジョージに託す杖と本のうち、本の方は、黒人奴隷サッフィラをBascombeに売却する、売却証明書である。杖は、ママ・ディが父親Jean-Paulから継承したもの。これら細かな点での差異は、それぞれ重要だが、ここでは、白人植民者男性プロスペローの知識ー力の源泉である、魔法の杖と本を、非―白人女性ママ・ディが所有し、TheTempestの白人植民者男性の権力を奪取して、非ー白人女性ママ・ディがそれらを所有している形に書き換える、ネイラーの、「人種」・ジェンダーに関わる改作の戦略を、高く評価しておきたい。
先述したように、シェイクスピアのThe Tempestは実に多産なテクストである。女性作家による改作には、ShowalterやChedgzoy,エリクソンが分析しているM. Fuller, H. Stow, L. M. Alcott, K. A. Porter, S. Plath, H. D., S. Namojoshi, G. Naylor, M. Warnerがある。最近の例で筆者が瞥見したうちでは、エコロジー的視点から、キャリバンを残酷な動物実験にさらされる新種生物に書き換えたRachel Ingalls, Mrs. Caliban (1983)や、ほぼシコラックスに相当する女性科学者と、ロボット・キャリバンが、更新された相互理解に基づき、新植民地開拓に手を取り合って旅立つ、Roger MacBride Allenの Issac Asimov's Caliban (1993)などがある。他にも様々な改作があるだろう。
一方には、近年、シェイクスピア批評・研究の分野で、様々な文脈でのシェイクスピア受容のイデオロギー的意義を問う研究が、一つの分野として成立しつつある気配がある。まさかかつてのように、シェイクスピアの時代と歴史と政治を超越した天才、を寿ぐものではあるまいが、西洋帝国主義の文脈でのシェイクスピア受容の政治学を問う研究が、結果としてシェイクスピアに体現された西洋の文化的中心性を、再強化してしまう危険性は、否定できない。
そのような中にあって、Mama Dayは、いかなる意義を持ちえるのであろうか。