10 Julian Symons, "A Tribute"
自分自身を殺した男
ある批評家が、ジュリアン・シモンズについてこんなことを書いている。
シモンズは最初、イネスあるいはクリスピン風の小説を書いてそこそこの成功を収め、それから犯罪の根源を探求しようとする作品へと移行していった。その中でもっとも興味深いのは『二月三十一日』(一九五〇)、『犯罪の進行』(一九六〇)、『月曜日には絞首刑』(一九六四)である。彼の小説は、最良の作品では読者を震えあがらせるほどだが、もっともうまくいっていない作品ではむらがあってまとまりがない。彼は自らを評してこう言っている。
現代において私がもっとも嫌悪するのは、上品な顔に隠れた暴力であり、ユダヤ人を効率よく撲滅する方法はないかと思案する公僕であり、死刑の必要性を熱っぽく説く裁判長であり、快楽のために殺人を行う無口でおとなしい青年である……。われわれの大半が世間に見せている愛想のいい顔に隠れた暴力をあばきだしたいとすれば、犯罪小説ほどうってつけの媒体があるだろうか?
しかし、ここで述べられている意図は、彼の作品でかならずしも適切に実現されているとは言いがたい。
まことに的確な批評で、短い文章の中でシモンズの長所と短所をうまく要約して過不足がないが、これを書いた批評家とは他でもないシモンズ自身である。引用したのは、彼の代表的な名著『血まみれの殺人』Bloody Murder(一九七二)から。これを読むだけでも、バランス感覚にすぐれたシモンズの批評眼がわかるというものだ。
おもしろいことに、『血まみれの殺人』ではここで名指しされているエドマンド・クリスピンが特別に友情出演してこの箇所に注釈を付け、シモンズの業績についてこう追加している。すなわち、初期には、伝統的な探偵小説の枠組みの中で、『狙った椅子』(一九五四)のようなみごとな作品を書いていること。そして、処女作『非実体主義殺人事件』The Inmaterial Murder Case(一九四五)に見られるように、諷刺的な作品が多いこと。さらには、『自分自身を殺した男』The Man Who Killed Himself (一九六七)を代表例とする、技巧の極地を凝らした作品にも才能を発揮していること。これに付け加えて、クリスピンはシモンズの書評家および批評家としての側面にも触れ、ハイスミスやビンガムの評価に貢献したことを讃える。
クリスピンが唯一シモンズに疑問を呈するのは、彼がセックスと暴力の結果として起こる出来事を描くのに長けてはいても、セックスと暴力そのものにはさほど関心を持たなかった点で、たしかにその指摘どおり、シモンズの犯罪小説にはどこか生ぬるさがある。『血まみれの殺人』で探偵小説から犯罪小説への移行を歴史的必然として記述してみせたのに、後期になるとホームズ物のパスティーシュに手を染めたり、ヴィクトリア朝小説風の設定を用いたりして、エンターテインメントを強く意識しているあたり、理論と実践とがどことなく食い違う。
おそらくそれは、かならずしもシモンズの弱点ではないのだろう。いくら犯罪小説を旗印に掲げてはいても、彼はそれだけに固執できる人間ではなかった。彼はなによりもまず鋭い目を持った<小説読み>だったのであり、どんな種類の作品でもそのおもしろさを見抜くだけの感性を備えていた。それはドイルやポオやハメットの評伝だけでなく、彼が書いた数多い書評を読んでみればほとんど一目瞭然だろう。あらゆる作品に適切な判断を下せる、幅広い教養を持った批評家であり、しかも実作者でもあったからこそ、シモンズは単にミステリ界のみならずさらに広範な読者層からあれほどの尊敬を獲得していたのだ。そういう意味で彼に匹敵する人物としては、アメリカのアンソニー・バウチャーぐらいしか思いつかない。
ただ、彼はまた理性の人でもあり、その出発点ではオーデンやスペンダーを継ぐ若い詩人の一人でもあった。理知的な面が強く出てしまうのは、小説家としては損をする。シモンズが理性と感性の葛藤の中から本当の自分の姿を見つけるためには、『血まみれの殺人』を書いた自分自身を一度殺す必要があった。そうして到達した、最晩年の『クリミナル・コメディ』(一九八五)、『偽りの情事』Something Like a Love Affair (一九九二)、そして遺作となった『幸福な家庭ごっこ』Playing Happy Families (一九九四)などの作品群では、一見平凡で幸福そうな家庭生活の裏にひそむ危機を描いて、英国小説独特の風俗小説の味わいがある。それはべつにシモンズでなくても書けたかもしれないような、よくあると言えばよくある小説だが、シモンズは自分自身を殺して英国小説の伝統に回帰し、いわば無名の存在となることで、逆説的に新しく生まれ変わったのである。
惜しむらくは、こうした小説家としての再生があまりにも遅すぎたことだ。遅すぎたと言えば、『血まみれの殺人』は改訂を重ねたためにまだ我が国では翻訳が出版されていない。それが姿を現したときこそ、ようやくシモンズ再評価が始まるのだろう。シモンズやイネスの真価が知られるようになるのは、まだまだこれからだ。