11 Donald E. Westlake, Adios, Scheherazade, 1970
さらば、愛しき小説よ
この連載で取り上げている小説には、わたしが最近読んだばかりなのもあれば、昔に読んだことがあるものも当然ながらある。要するにネタは山ほどころがっているわけで、単純に考えればこの連載は際限なく続けることもできるはずだが、実際には話はそう簡単でもない。
まず、昔に読んだことがあるといっても、たいていの場合はもうすっかり内容を忘れていて、紹介しようと思うともう一度読み直すことが必要になる。本棚には未読の小説があふれているのに、すでに読んでいるものを再読するのは、人生の残り時間が少なくなってくるとどうももったいないような気がする。それを考えると、ついつい未読の小説に手が伸びてしまうのだ。
今回紹介するのは、わたしが二十年前に読んだことがあるもので、ご存知ドナルド・E・ウエストレイクの未訳作品『さらば、シェヘラザード』(Adios, Scheherazade, 1970)である。これを再読してみようと思ったのは、べつに今月号でウエストレイクの特集が組まれているからというわけではない。それは単に幸せな偶然であって、本当の理由は、毎月こうやって連載の締め切りに追われていると、「締め切りに追われる小説」を扱ってみようかとふと思いついたからである。そこで最初に思い出したのが、このウエストレイクの未訳作品だったわけだ。
『さらば、シェヘラザード』の主人公は、エド・トップリスという二五歳の男で、彼は他人のペンネームを(借用料月二〇〇ドルで)使ってポルノ小説を量産している、いわゆるゴーストライターである。彼には作家としての才能がなく、ポルノ小説を書く意欲もない。地方大学を出ただけで、将来文学を教える職に就きたいと思っている彼にとっては、まず大学院に入るだけの資金を稼がなくてはならないし、それに若くして結婚し子供もできてしまったために、とにかく食うことが先決問題だ。それで嫌々ながらポルノを書いているのである。ところが、出版社と約束している新作が、締め切りをとうに過ぎてもどうしても書けなくなる。パターン化したプロットのアウトラインを決めて、一章一五ページずつのつもりで書こうとしても、話はいつのまにか虚構を忘れて自分のこと、そして妻のベッツィーのことに戻ってきてしまう。人生がなにもかもうまくいっていない、その愚痴がタイプライターのキーからついこぼれて出てくるのだ。そういう仕掛けで、『さらば、シェヘラザード』の形式上のおもしろさは、ページナンバーが二重に付けられている点にあり、第1章が何度も書き直されるたびに、1-15のページナンバーが繰り返される。おそらくこれは空前絶後の珍趣向だろうか。
こうして、ポルノ小説をほとんど日記代わりのように書くエドは、その中に現実には起こりえないセクシュアル・ファンタジーまで書きこんでしまう。ベビーシッターに雇った若い娘と関係を持ったというのも、結婚してから妻以外の女性を知らない彼にはありえないことだ。しかし、この原稿を読んだ妻のベッツィーが、激怒して子供と一緒に家を出ていってしまうという事件が起きてから、エドは急速に奈落の底へと転落していく……。
とにかくコミックでかつシリアスなこの小説は、ウエストレイクの全作品中でもかなりの上位に属する傑作であり、ウエストレイクの半自伝的小説として読んでもおもしろいことをあらためて確認したのだが、実は二十年ぶりに再読してみた個人的な理由がある。この小説の筋書きはほとんど忘れているけれども、たしかこの小説の中に主人公が妻と女性上位でセックスしている場面があったはずだというのが唯一の記憶だったのだ。なぜそんな妙な場面だけ憶えているのか、我ながら不思議で、その真相を確かめてみたかったわけだ。ところがいつまでたってもそんな場面は出てこない。これはわたしの妄想だったのかと心配になっていたら、三分の二くらいのとろこでやっと出てきた。それは妻との幸せだったころの短い日々の回想の中で、森の小屋で二人きりで三日間暮らしたときのこと。昼間から「エド君おやすみの体位」でセックスしていると
突然ベッツィーが動きをとめた。見上げると、彼女は驚いた表情で戸口の方を見つめていた。なんてこった、猟師か誰かがのぞいていやがるのか、とぼくは思った。首をまわして戸口を見ると、そこには鹿が立っていた。思ったよりも背が高くて、がっしりした体つきだが、大きな茶色の目で、物言いたげにぼくたちをのぞきこんでいる。
静止。
何か冗談を言おうとするぼく。
鹿が急に飛び跳ねて去っていき、ぼくはまだ何か冗談を言おうとして、ベッツィーの方を見た。するとベッツィーは、うっとりとした目つきでぼくにほほえみかけ、こう言った。「あたしたちが結婚して、神様も幸せなのよ」
つまり、わたしはこの小説で最もすばらしい場面を記憶していたのだ。二十年ぶりの再会には、こうした楽しみもあるのである。今から二十年たてば、『さらば、シェヘラザード』の記憶はやはりこの場面だけになっているかもしれない。記憶に残る小説というのは、そうしたものではないか。