12 Anthony Berkeley,
Malice Aforethought (1931) ,
Before the Fact (1932),
As for the Woman (1939)
風俗小説家としてのバークリー――アイルズ名義の三作を読む
「わかってるわ。もちろん、あたしは探偵小説なんかめったに読まないけど」
「あら、そう」リナがこうした愚かな言葉を耳にするのは初めてではなかった。探偵小説をめったに読まない人間は、どうしてそのことを自慢したがるのだろうか。「わたしはいい探偵小説が大好きよ」
――フランシス・アイルズ『犯行以前』
探偵小説を論じるには、大きく分けて二つの方法がある。第一の方法は、言うまでもなく、それをあくまでも探偵小説として論じることである。そして第二の方法は、それが探偵小説というジャンルに属する作品であることを忘れて、とにかく小説だという視点から論じることである。
もちろん、こう書くと大方の読者から猛烈な反論が出ることは承知している。探偵小説を書く作者の側からすれば、なにも普通の小説を書いているつもりはなく、探偵小説という縛りをかけて書いているのだから、それを普通の小説と同類に論じられては困ると言いたいところだろう。探偵小説愛読者にしても同様で、探偵小説だから読んでいるのであり、そこを忘れられては困ると言いたいのに決まっている。ジャンルの束縛はそれほどに強いのである。
実際のところ、わたしは別に探偵小説を探偵小説として論じるのが悪いと言っているわけではない。古典の再読を謳い、探偵小説を小説として素直に読み返すことを提唱している本稿でも、前回にクリスティの『そして誰もいなくなった』を論じたときにわたしがやったことは、結局「この作品の最大のトリックは何か?」という探偵小説の範囲内での議論だった。それは、そのトリックについての共通理解が存在していないように見えることが筆を執る動機だった。
しかし、そういう例はきわめて稀である。ほとんどの探偵小説に対する共通理解は、「殺人」「犯人」「動機」「トリック」といった点ですでに定まっている。探偵小説というジャンル内での議論は、そうした要素のいわば順列組み合わせであり、その要素そのものの新しさや組み合わせの珍しさが独創性として評価される。それはそれでいいだろう。どのようなジャンルであれ、その内部での作品生産および批評生産はそうしたメカニズムで動いていることはたしかなのだから。
しかし、このような観点に問題があるとすれば、それはこのメカニズムが一種の還元主義に陥りやすいという点だろう。小説という総体を「殺人」「犯人」「動機」「トリック」という要素に分解し還元してしまうこと。それさえわかれば、小説を読んだ気になってしまうこと。そういう危険性がある。たとえば、トリックが有名なものであればあるほど、それを知識として知ってはいても実際にその作品を読んだことはないという、奇妙な読者層が多いのではないかと想定される。知っているつもりにならずに再読を促す本稿の立場からすれば、そういう現象こそ否定されるべきなのだ。
今回は、探偵小説を小説として読む試金石として、アントニイ・バークリーを取り上げる。この作家を論じることが、なぜそうした試みのテスト・ケースになりうるのか。それは、御存知のように、バークリーがおよそ一筋縄ではいかない矛盾したものを抱えた作家だからである。彼はバークリー名義で探偵小説を書く他に、A・B・コックス名義でユーモア小説やユーモア・スケッチを書き、さらにはフランシス・アイルズ名義で犯罪小説の先駆となる作品を残した。そして探偵小説の枠内に限定しても、一方では有名なディテクション・クラブの事実上の創始者としてそのマニアぶりを発揮しながらも、他方では代表作『毒入りチョコレート事件』に典型的に見られるように、作り物としての探偵小説批判を自らの作品の中に取り込むという独特の自意識的な作風を展開した。こうして、彼はその探偵小説だけに限っても、あるいは著作全体を眺めても、単一の視点では斬れそうにない厄介な存在なのである。
これまでに書かれたバークリー論で、本格的なものはまだ数が少ない。最近、著作全体を眺める方向でバークリーを単独に論じた初めての研究書(Malcolm J. Turnbull, Elusion Aforethought: The Life and Writing of Anthony Berkeley Cox, 1996)がようやく出たが、伝記的事実には多少興味深い情報を含んではいるものの、全体としては薄味で、教えられる点はそれほど多くはない。それよりも必読書と呼べるのは、エアサム・ジョンズが編んだ著作目録(Ayresome Johns, The Anthony Berkeley Cox Files: Notes Towards a Bibliography, 1993)で、これを一読するだけでも複雑なバークリーの姿がおぼろげながら見えてくる。日本人が書いたバークリー論としては、『第二の銃声』(西崎憲訳、国書刊行会)の解説として付けられた真田啓介氏のものが文句なく最高で、バークリーの幅広さを充分に認識しながら探偵小説の範囲内で作品を論じた評論の好例であり、その読みの深さは海外にも例がない。
そこで本稿は、上記三つのバークリー論を参考にしながら、バークリー/コックス/アイルズの一側面であるアイルズの犯罪小説三作『殺意』『犯行以前』(創元推理文庫では『レディに捧げる殺人物語』というタイトルで刊行されているが、この題名を使うのはまったく別の作品を論じているような気がして、個人的にどうしても抵抗感があるので、ハヤカワ・ポケミスで出ていたときの原題を直訳した題名を使う。了解されたい)それに未訳のままで眠っている『被告の女性に関しては』(As for the Woman)を一括して扱うことを目的とし、包括的なバークリー論は今後の課題として残しておく。
アイルズ名義の作品を探偵小説というジャンルの枠内で論じたときの評価は、ほぼ確定していると言ってさしつかえない。『殺意』(一九三一)は犯人の視点から描いたいわゆる「倒叙」物の代表作であり、それが今日隆盛している犯罪小説への道を開拓した歴史的作品として評価される。その書き出しである、「妻を殺そうと決意してから数週間たって、ようやくビクリー医師はそれを実行の段階に移した。殺人は大事なのだ」という一節は、推理小説史上で最も有名な書き出しのひとつとなり、探偵小説から犯罪小説への歴史的移行を追ったジュリアン・シモンズの『血まみれの殺人』(一九七二)や、そのシモンズの推理小説史観に則ってアンソロジーを編んだマイクル・ディブディンの『ピカドール版犯罪文学選』(一九九三)でも、この箇所が引用されているほどである。
一方、『犯行以前』の方はどうか。批評家のツヴェタン・トドロフが言うように、探偵小説における時間が「殺人が起こるまで」の時間と「殺人が起こってから」の時間とに二分割されるならば、通常の探偵小説では前者の時間がなるべく短いこと、すなわち、読者の興味を惹きつけるために、物語の早いうちに殺人が起こること(極端な場合になると第一ページ目から死体が転がっていること)が要請される。そのような場合には、探偵の推理に主たる興味がある。ところが、アイルズが『犯行以前』で試みたことは、殺人が起こる瞬間を小説の最後のページにもってくるという逆の方向性であった。被害者を視点人物に設定すれば、視点人物が殺される瞬間に小説が終わるのは自然な成りゆきだから、この離れ技は実現可能となる。しかしこれは明らかに、トドロフの与える定義からすれば探偵小説ではない。ここで、『犯行以前』をかろうじて探偵小説の枠内に収めえたアイルズの工夫は、その被害者にいわば探偵の役も背負わせるという着想であった。すなわち、通常の推理は、この作品の場合では、殺人が起こる以前に実行されているのである。
以上は、『殺意』と『犯行以前』の二作を探偵小説の枠内で読んだときの、標準的な受けとめ方をまとめてみただけにすぎない。もちろん、このような解釈は、あくまでも探偵小説の側から見たものであり、普通小説の側から見ると驚くべき発見ではない。視点人物を最大限に利用するのは、すでにたとえばヘンリー・ジェイムズが徹底的に試みた技法であり、心理小説の範囲では当然のことである。つまり、殺人者を視点人物に設定した『殺意』が俗に「倒叙」物と呼ばれるサブジャンルを開拓した歴史的作品として評価されるのには、通常の探偵小説が正規の形態であり、「倒叙」物がそれに対して規範を逸脱する形態であるという前提が存在するのだが、普通小説の側から見ればけっしてそうではなく、むしろ「通常」の探偵小説の方こそ小説として特異な形態を持つのではないのかという認識が生まれるだろう。アイルズを論じる人間は、この種の「探偵小説か普通小説か」という問題を必然的に抱え込まざるをえない。
われわれの目的は、そういった議論からできるだけ離れて、とにかくアイルズをただの小説として読んでみることだった。そうしたときに、どんな小説の姿がわれわれの目に映るか。そこから、どんなバークリー/アイルズ/コックス像が立ち現れるか。それを考えてみる。方向を明示するために、わたしなりの答を先に書いておこう。つまり、今アイルズを再読するときに顕著なのは、そこに描き出された風俗であり、風俗小説家としてバークリー/アイルズ/コックスを再評価する道が拓けるのではないか−−それが今回の要点である。なお、議論の必要上、筋書きをすべて明らかにするので、『殺意』と『犯行以前』をお読みでない方は前もって一読していただきたい。『被告の女性に関しては』は未訳だが、三作の中では探偵小説的な要素が最も希薄であることもあって、これも詳細に筋書きを紹介するつもりである。
さてそれでは、なんの前提もなく『殺意』と『犯行以前』を読んだとして、素朴な読者の目に映る、二作の最大の共通点はいったい何だろうか? もう少し具体的に言えば、両者に共通して現れる時代風俗は何か?
これを御記憶の方は、小説の細部に相当うるさい読者である。その答は、テニス・パーティ。
これはけっして、無視してもかまわない細部ではない。なぜなら、『殺意』ではいきなり冒頭のところでビクリー医師が妻のジュリアに命令されてテニス・パーティの準備に精を出すのだし、『犯行以前』でもまだ話がさほど進行しないうち(第四章)にテニス・パーティの場面があり、ヒロインのリナが客の女性たちと文学談義をかわす印象的な箇所になっているからである。さらに付け足すと、後述するように、『被告の女性に関しては』でもやはりテニス・パーティが出てきて、主人公の性格造形に重要な役割を果たすことになる。この奇妙な一致は、それだけでも読者の関心を惹かずにはおかない。
わたしが言いたいのは、このテニス・パーティという風俗に注目するだけでも、バークリー/アイルズ/コックスという厄介な小説家がかなり見えてくるということだ。まず、当時の社会的背景。テニスは、もともと室内スポーツであったが、戸外で行われる「ローン・テニス」が流行するにつれてそれが世間一般に言われる「テニス」の座を占め、ウィンブルドン選手権でビル・ティルデンなどをはじめとする有名選手が次々と現れたこともあって、広く大衆に浸透した。第一次世界大戦以前においても、すでに中流階級のスポーツとして、とりわけ郊外族に定着していたのである。ここで鍵になるのは、「中流階級」と「郊外族」という二点だ。
二つの大戦にはさまれた時代のイングランドでは、人工の増加に伴って住宅建築が急速な勢いで進み、ロンドンの郊外が開発され、その勢いは田舎にまで及んだ。中流階級層のいわゆる一般大衆というものが膨れ上がったのもこの時期である。ハートフォード州のワトフォードという郊外に生まれたバークリーは、父親がそこそこに高名な医者であり、母親もモンマス公伯爵の血筋を引く由緒正しい家柄であった。つまり、バークリーは中流の上か上流の下あたりの、恵まれた家庭環境に育ったのである。その彼の視線に、郊外族という種族がどのように映ったか、それは複雑なものがあったに違いない。事実、彼は創作初期の頃に、コックス名義で数多くのユーモア・スケッチを書いたが、そのかなりの部分がそうしたロンドン郊外族の生態を描いたものであることは注目に値する。彼はそれを"Down Our Road"という題名で一冊にまとめる計画を立てていたが、エアサム・ジョンズ編の著作リストを眺めれば、そのシリーズの中には、「練習第一課」「混合ダブルス」「テニス・パーティ」「テニスとミス・ポーター」「ジョンとのテニス」といった、テニスを題材にした小品が含まれていることがわかる。バークリーにとって、テニスは郊外族の生活の象徴として、早くから大きな関心事だったのだ。
こうした社会の変化は、『殺意』と『犯行以前』の舞台設定に、そしてその中で生きる登場人物の造形に、大きな影響を及ぼしている。『殺意』の舞台となっているのは、イングランド西部のデヴォン州にあるワイヴァーンズ・クロスという小さな村。ここは本来は純粋な田舎であるはずの土地で、ロンドン在住の小説家夫妻が「地方色」を求めてここに一時滞在しているくらいなのだが、そこも実はかつての田舎ではない。郊外の生活習慣の波が押し寄せてきている、半分田舎で半分は郊外とでも言うべき場所なのである。『犯行以前』の場合も同様であり、こちらの舞台はイングランド南西部のドーセット州にある、「いちばん近い駅からでも七マイル離れている」アボット・モンクフォードというやはり小村。そこでもテニス・パーティが催され、それが女性たちの社交の場として機能している。ここでも半分田舎で半分郊外という環境に変化はない。その環境にぴったりと対応するように、ヒロインのリナは古風な面を本質として持ちながら知的好奇心が旺盛な女性として描かれる。このような古くて新しい環境、そして古くて新しい登場人物たちというのが、アイルズの小説世界の最大の特徴であると言ってよい。
しかし、テニスという風俗が持つ意味合いは、実はそれだけではない。テニスが、フットボール(サッカー)やクリケットやボクシングといった、英国で盛んだった他のスポーツと異なる点は何か。それは、女性が積極的に参加できる唯一のスポーツだったという点である。この事実がアイルズの小説世界に与える影響は、ほとんど決定的だ。
アイルズ名義の作品では(そしてバークリー名義の作品でも)、男性は概して弱い存在である。その最も極端な例として、バークリー名義の探偵小説におけるシリーズ・キャラクターである、ロジャー・シリンガムという探偵ほど、存在感が希薄な探偵は探偵小説史上でも珍しい。それに比べて、女性は圧倒的に強く、男性を去勢してしまうだけの力を持っている。『殺意』では、ビクリー医師は妻のジュリアに頭が上がらず、言いつけどおりにテニス・パーティの準備をする。彼は身体的にも小男で、妻の方が五センチは身長が高い。妻を殺そうとするビクリー医師の決意は、単に浮気から出たものではなく、そうして日常的に抑圧された男性性を回復したいという欲望から生まれている。
ここで話を『犯行以前』に焦点を絞り、その独特の性格を持ったヒロインであるリナという女性をじっくりと分析してみよう。その前に、『犯行以前』の成立事情について、あまり知られていない情報を提供しておく。
バークリーは、執筆を始めたころ、英国では有名なユーモア雑誌である『パンチ』にユーモア・スケッチを数多く寄稿していた。その中で、文筆業を営んで小説を書きそれを売るにはどうすればいいかという、一種のハウ・ツー物を連続講義二〇講の形式で一冊にまとめたのが、コックス名義のJugged Journalism(一九二五)である(『文筆寄せ鍋』とでも訳しておくべきか)。もちろんこれはバークリーの自己韜晦的なおふざけであり、シャーロック・ホームズをP・G・ウッドハウスのスタイルで書けばどうなるかといったような文体模写などには、彼の才人ぶりが遺憾なく発揮されている。探偵小説愛好家にとっては、探偵小説の定型を皮肉った第三講が興味深いはずだが、むしろわたしがここで注目したいのは、結婚生活を描いた小説の書き方を指南する第九講である。
このジャンルは上流階級向けの雑誌にぴったりで、いろいろとヴァリエーションはあるが、次の三つのうちのどれかに分類できると著者は言う。
(a) 誤解
(b) 不似合いだが、お互いに愛し合っている夫婦
(c) 放ったらかしになった妻
そこでまずコックスは、誤解が生じた後に仲直りするというパターン(a)の物語を例示してその愚かしさを暴露してから、(b) はごくあっさりと通過して、いちばんよくあるパターンの(c) へと話を進めていくのだが、問題はほとんど無視されたも同然の(b) である。その部分をすべて引用しておく。
不似合いだが肉体的に惹かれあっている夫婦という(b) については、ここで紙数を割く必要はない。この手の物語というものは、心理の綾だけがおもしろいところで、小説の名手にしか扱えないからである。ここでは決まって、夫はまぬけで、善良で、愛すべきお馬鹿さんで、妻は感受性が鋭く、きわめて知的で、いつも神経をピリピリさせているとだけ言っておこう。
朝食の席で、夫はママレードを口髭ですくおうとする。妻は夫のその姿を見て、まったくどうしていいものやらわからない。彼女はそれを四千語か五千語ほどひどく気に病む。だが、どんな案を思いつこうが、彼女は二人のセックスのことを思い出して、それを実行に移せない。だから結局のところ彼女はなにもしない。これが心理小説の勘所であり、登場人物はあれこれ気に病む以外になにもしないのだ。しかし、これを試しに書いてみようとするのはお薦めできない。この手のことを書いても大目に見られるためには、表紙に大作家の名前が必要になるのである。
この一節を発見したとき、わたしにとってはちょっとしたショックだった。なにしろ、これは『犯行以前』の筋書きとぴったり一致するのだから! この「小説の名手」あるいは「大作家」にしか扱えないパターンだと称する種類の作品を、彼はぬけぬけと自分で書いてしまったことになる。この文章の初出は一九二四年一一月の《パンチ》誌であり、当時バークリーはまだ一冊も本を出版していない駆け出し時代だった。一九三二年に出た『犯行以前』の着想の種子は、すでにその頃から胚胎していたことになる。ここで念を押しておきたいのは、『犯行以前』のプロットがバークリーにとってはもともと探偵小説用のアイデアではなく、「心理小説」または「結婚生活を描いた小説」に他ならなかったという事実である。
ここの記述を『犯行以前』にそっくり当てはめてやるとどうなるか。犯罪者のジョニーは「まぬけで、善良で、愛すべきお馬鹿さん」であり、要するに彼は成長できない子供なのである。バークリー名義の作品の探偵が存在感が希薄だったちょうどその裏返しで、この犯罪者も犯罪者たるべき資格を欠如した、徹底して深みのないキャラクターだとしか言いようがない。それに対して、リナの方は「感受性が鋭く、きわめて知的で、いつも神経をピリピリさせている」。この彼女が「あれこれ気に病む以外になにもしない」というのが、簡単に言えば『犯行以前』という物語のほとんどすべてなのだ。実際、『犯行以前』に対して寄せられた批判の多くは、リナがなにもせずに無抵抗で最後は殺されてしまうのが信じられないという指摘であった。わたしはそういう解釈が誤りであると思うが、それは後述することにして、なにもしないというのが最初からアイルズの意図だったのだから仕方がないではないか。
そこで肝心なのは、リナというキャラクターである。彼女はいわゆる「新しい女」の一人であり、女権運動にも参加したことがある。こうした「新しい女」は、世紀末から芽生えたもので、当時の知的な女性、あるいは知的であろうとする女性たちの生き方に大きな影響を与えた。そうした女性たちにとって、最も身近で深刻な問題は結婚であったことは言うまでもない。この点において、リナは古いタイプの「新しい女」だった。彼女は女権運動に関わるうちに、結局自分が旧来の価値観から抜け出せない人間であり、「新しい女」でありつづけることは幸せではなく、結婚したくてたまらないことを知る。こうしたアイデンティティ探しに悩む両義的な女性像は、もちろんフェミニズムに対する作者の冷ややかな目を反映しているだろうが、それがまたバークリー/アイルズ/コックスの多面性をも投影しているようでおもしろい。
リナの知的好奇心は、主に二つの方面に向けられている。それは、文学とセックスである。彼女はテニス・パーティの席などで、知り合いの女性たちと文学を話題にする。オルダス・ハックスリーを読んでいる彼女は、そのことを口にしつつも、片方ではいかにも知ったかぶりでそういった作家を軽く切り捨てる女たちを軽蔑している。つまり、そういう会話が天候の話をしているのと変わらないことを知っているだけの自意識がある。まともな小説を読んでいる(あるいは読んでいるふりをしている)のは女性たちだけで、男性は探偵小説ばかり読んでいて、夫のジョニーもその一人であることにリナは多少の失望を感じているが、探偵小説だからといってはなから馬鹿にして読まないという態度は取らない。これもまた、聡明であろうとするリナの心がけだ。
「新しい女」にとって、結婚に次いで重要な問題はセックスであり、リナもひそかにその方面の勉強をしようとした。彼女は性科学の先駆的研究書であるクラフト=エビングの『性的精神病質』を読んでいる。ところが、この面でも彼女は新しくて古い。つまり、彼女はクラフト=エビングをさっぱり理解できず、ジョニーがときどき普段とは異なるテクニックをほのめかしても、それを「普通ではないこと」だとしてけっして許さなかったのである。しかし、ジョニーの愛情がさめたのではないかと感じるリナは、その原因がセックスにあり、しかも自分が夫の要求どおりに奉仕してやらなかったことに責任があるのではないかと思うようになる。そして、ロナルドという男性との婚外セックスを夢想して、「ジョニーにしてやれたことよりもっと沢山のことをロナルドにしてやろう」と考える。ここで、『犯行以前』出版の数年前にあたる一九三〇年には、さまざまなテクニックの実践による性的満足が幸せな結婚生活への道であると説く、ヴァン・デ・ヴェルデが書いたマリッジ・マニュアルの『完全なる結婚』がオランダ語から英訳され、教養ある読者層に広く読まれたことも注意しておきたい。『完全なる結婚』が強調しているのは、従来の男性が一方的に性的満足を得るような性交のあり方ではなく、男性と女性の双方が満足できるようなセックスを通して結婚生活が築かれるとした点だった。そこでは女性の能動的な参加も、望ましいこととして推奨される。リナのセックスに対する考え方には、そのような時代背景が反映されているのである。
しかし、こうしたリナのセックス観は、あくまでも閨房の中にとどまるものでしかない。それは彼女のきわめて個人的な世界の中においてのみ重要な問題で、それを堂々と話題にしたりする新しい世代の女性たちにはついていけないものを感じている。ここでもまた、リナは古い価値観と新しい価値観の板挟みになった、悩める世代の人間なのである。
結局のところ、リナが自分の身体で認識している性的欲望は、満たされることがないままに終わろうとする。ロナルドとの情事は、ついにベッドを共にすることがないまま立ち消えになってしまった。小説の終わり近くで、四〇歳に手がとどこうとするリナは、ジョニーの誘いを拒むことはしないが、毎朝自分の寝室で鏡に全裸の姿を映してみることが唯一のセクシュアリティの発散である。そこには、自足していながらも虚しい女性の姿がある。
こうしたリナに不意に訪れた転換点−−それは言うまでもなく、妊娠しているのを知ったことだ。本来なら喜ばしい知らせであるはずが、殺人者の子供を世に送り出すことはできないと決意したリナは、その胎児を葬る手段を探すことになる。そこで思いついた名案は、ジョニーに自分を殺害するように仕向けるということだった。このエンディングが、従来からリアリティに乏しいとしてよく非難の的になっているが、わたしに言わせればそんなことはない。ジョニーは最初から最後まで成長しない、子供同然の男である。リナはそんな彼を愛している。彼を子供並みに扱い、自分が敷いた殺害方法の路線に乗せ、互いに愛し愛されたままで殺してもらうこと−−それこそが、これまで満たされることはなく、子供ができているのに産まないという決意のために永遠にその発露の機会を奪われた、彼女のセクシュアリティ=母性本能を成就させる唯一の方法だったのではないか。彼女はけっして無抵抗に殺されるのではない。殺されるのを自ら選び取ったのである。毒入りのミルクが渡される場面はこう書かれる。
「それを渡してちょうだい」
だがジョニーはためらった。ちょうどリナが予測していたとおり、彼の目には涙があふれていた。
彼女は手を伸ばした。「渡して、ジョニー」
ジョニーの目に涙があふれていたというのは本当だろうか。これは俗に言う鰐の空涙かもしれないし、あるいは「きっと涙を流してくれるはずだ」というリナの願望ともつかない予測のせいで、ただ単にリナにはそう見えただけなのかもしれない。なにしろリナの視点から書かれているので、その判断をつけるのは困難である。しかしいずれにせよ、大切なことは、リナにはジョニーが泣いているように見えたという、その事実なのだ。そして、その事実だけで、リナは(おそらく読者も)ジョニーという殺人者を赦す。リナはジョニーから愛されているという事実または幻想を胸に抱いて、幸せに死ぬのである。もしその死に心残りがあるとしたら、それはこうして自分の生を成就したという実感を初めて持ったときに死ななければならないという、運命の皮肉だけだ。
愛するが故に、女性が男性=殺人者を赦しかばうというモチーフは、この『犯行以前』の少し前に発表されたバークリー名義の『第二の銃声』(一九三〇)にも見られることを最後に指摘しておこう。少なくとも、当時の女性が置かれていた状況というコンテクストから再読すれば、バークリー/アイルズ/コックスの小説は今の時点でも豊かなものを提供してくれることは疑いない。
以上のような考察をもとにして、次に『被告の女性に関しては』を見てみることにしよう。この作品は、探偵小説の枠内から完全に逸脱した普通小説として、従来から読まれることも論じられることも少なく、アイルズ名義のものとしては『殺意』と『犯行以前』に比較して不当に低く評価されているように見受けられる。しかし、そういった評価は実際に正しいのだろうか。
アイルズがこの第三作を『殺意』および『犯行以前』の系列に属するものとして書いたことは、その題名を見るだけでも一目瞭然である。なぜなら、『殺意』(Malice Aforethought)や『犯行以前』(Before the Fact)といったタイトルと同じく、『被告の女性に関しては』(As for the Woman)もその題名を法廷用語から取ってきているからだ。ここでも、当時新聞種となった現実の殺人事件を題材に選んでいるという点で、アイルズの犯罪に対する関心は変わっていない。そして、『被告の女性に関しては』は、明らかに『殺意』や『犯行以前』に見られるテーマやモチーフをアイルズ流にふたたび展開したものになっている。その意味から、これがなぜか読まれない(おそらくペーパーバックになったことすらない)のは不思議なことだとしか言いようがない。わたしの好みでは、傑作の『犯行以前』には劣るとしても、『試行錯誤』風のシニカルなユーモアがやや生煮えに終わっているような感のある『殺意』よりも、こちらを取りたいような気がするほどである。
『被告の女性に関しては』に弱いところがあるとするなら、それはプロットが普通小説としてよくありそうな姦通物の典型だという点だろうか。視点人物は、アラン・リトルウッドというオックスフォードの学生で、彼は肺病にかかり、シーポートという海辺の町に保養にやってくる。滞在先はフレッド・ポールという医者の自宅で、彼はそこでポールの妻イヴリンと親しくなり、姦通を犯す。それが医師の知るところとなって、口論の最中に激怒したアランは文鎮を投げつけ、ポールを殺してしまう……。このように、筋書きだけを取り出せば実に単純なのだが、その単純な物語を読ませるものにするところがアイルズの腕の冴えである。
それでは、すでに指摘した『殺意』と『犯行以前』に見られる要素が、この『被告の女性に関しては』にも窺えることを順に確認していこう。まず、「郊外族」という点。アラン・リトルウッドの生活環境は、急激な人口増加とそれに伴う町の変質を典型的に表している。
リトルウッド夫人はエルムズフォードで生まれ育った。彼女がまだ幼い頃、そこはのんびりした小さな市場町だった。ところがそれが今では騒々しく低俗な工場町となり、この二〇年間で人口は三倍に増加した。まわりには工場が取り囲み、大通りは夕方になると、映画館や見かけ倒しの安っぽい店がけばけばしい灯りをつけ、ごろつきやら嬌声をあげる娘たちの渦でわきかえるのだ。エルムズフォードは、アランのみならず大勢の人間にとって、現代英国における町での生活の根本的な低俗さを如実に表していた。
こうした環境の中で育ったアランは、母親っ子であり、女性的で、詩人を志すほどの感受性に恵まれてはいるものの、そのために強い劣等感に悩まされている。彼にはキャスリーンという恋人がいて、将来を約束した仲だが、その二人の関係にはおよそ解決しがたい矛盾がある。それは、キャスリーンがいろいろな意味合いで幼い女性であるという事実が原因となっている。つまり、「キャスリーンは小柄で、今風の大柄な女性ではない。そういった現代女性に対しては、アランはどぎまぎしてしまうのだった」。アランがつきあえるのは、「新しい女」ではなく、そういったこちらを威圧する心配のない、旧式の考え方を持ったおとなしい女性しかいない(こうした好みは、バークリー名義の作品で探偵役のロジャー・シリンガムが「今風の女性」を毛嫌いしているところにも見られる)。ところが、矛盾が生じるのはそこだ。キャスリーンのようなタイプの女性は、セックスについても晩稲で、アランが感じている強い性的欲求を満たしてくれない。せいぜい彼に許されるのは穏健なペッティングどまりである。そこで生じる欲求不満が、自分はなんと汚らわしい男だろうかという彼の自己卑下につながり、いっそう劣等感が助長される。アランは袋小路にいたのである。
この小説にも、実はテニスの場面が出てくる。それはアランの劣等感をいやがうえにも煽る効果を持っている。次の引用は、アランが混合ダブルスでポール医師と対戦する箇所である。
彼のサーブはバックラインのすぐ内側に落ちた。
「おい、君」ポール医師はにやりと笑った。「ラインを間違えてるんじゃないのか。私の前にある、このラインだぞ」
気を引き締めなくては、アランは必死になって自分にそう言い聞かせた。
彼は落ちついて間合いを取り、それから遅いが確実なサーブを打った。ポール医師はそれをバックハンドのハーフボレーで返した。
そのショットはアランがいちばん恐れていたものだった。彼はむちゃくちゃにラケットをふりまわした。ボールは低すぎるところに当たって、ポール医師の頭上を越え、コートの奥に張られた網をはるかに越していった。
「アランのどこが変なのかわかったよ」ポール医師はパートナーに言った。「ゲームを勘違いしてるんだ。ゴルフをやっていると思ってるらしい」
キティがけたたましく笑い、観戦者たちからも忍び笑いがもれた。
畜生、と笑い物にされたアランは思った。畜生、畜生、畜生。
もちろん、こうした屈辱が最終的には(たとえ過失であるとはいえ)ポール医師殺害の動機へとつながっているわけだ。このような女性的な男性というキャラクターの描き方において、アイルズの筆は冴えわたっている。アランを徹底的にいじめぬくような作者の意地の悪さは、『殺意』でこれまた女性的なビクリー医師をいじめぬいた意地の悪さと共通していて、そこには何かただごとではないものが感じられる。わたしの推測をはっきり書いてしまえば、おそらくこれはアイルズの自己観察から生まれたものではないだろうか。彼の内部にある女性的な部分を取り出して、それを愚弄した、きわめて自虐的なユーモアではないだろうか。アランはアイルズの自己戯画化なのである。
このような主人公が人妻との不倫を犯すとき、それは人妻の側に主導権を取られる形でしかありえない。しかし、事の成り行きは単純ではなく微妙である。彼は三五歳のイヴリンに心惹かれる。彼の目から見れば、イヴリンはただ単に美人で品があるだけではなく、高貴な魂の持ち主であり、彼の詩才を理解しないキャスリーンと比べれば雲泥の差のように思い込む。つまり、彼は肉体的にイヴリンに惹かれているのだが、そうした性的衝動を昇華させるだけの精神的なものをいわば口実としてイヴリンの中に見出しているのだ。すべてはアランの視点から書かれているので、それがただの幻想なのかどうかは、読者には判定できない。こうした理想化された女性との関係という面から見れば、『殺意』でビクリー医師がマドレインという女性に惚れ込んでしまうくだりを連想する読者もいるだろう。おそらくそれは正しい。マドレインが相当な食わせものだったように、イヴリンもその可能性が大いにある。ただし、イヴリンはそうした尻尾は絶対につかませない。それがこの『被告の女性に関しては』では決定的に重要なポイントだ。
アランはイヴリンと良き話し相手になり、セックスのことまで話題にできる仲になる。彼は友人宛の手紙の中で、そのことをこう書く。「でも誤解してくれると困るんだが、彼女はちっとも青鞜派なんかじゃない。……もちろん、僕が惹かれるのは、彼女がまったく隠し立てがないところだ」。アランは、イヴリンが知的な話題としてセックスのことまで語れるのは、彼女の正直さの証拠だと信じて疑わない。それが誘惑の手段である可能性も秘めていることをまったく考えていない。
とにかく、二人はポール医師が家を空けている夜に、初めて肉体関係を結ぶ。それはあたかも自然な成り行きであったかのように描かれているが、ベッドに倒れ込んで「アランはどうすればいいかわからなかった。ポール夫人は、まだ小声でやめてと言いながら、教えてやらねばならなかった」というのがその結末である。表面的はアランが主導のように見えて、その実、イヴリンが最初から意図した筋書きどおりに進んでいたのではないか、というほのめかしが、この小説のあちこちに見え隠れする。イヴリンが夫とのセックスについて「フレッドは少し変わっているの。つまり、夜のことで。わたしにいろんなことをさせて……ああ、これ以上話せないけど、それはもうおぞましいことを」と告白し、うぶなアランが「離婚すべきだよ」と言い切ってしまうあたりもその一つである(このくだりは、『犯行以前』でリナがジョニーに要求されたことを想起させる)。しかし、イヴリンは自分が夫に対して経済的に依存していることを理由に、離婚はできないと言う。
夫殺害の可能性が実際に浮上するのは、イヴリンが借りてきた書物にある裁判記録が載っていて、それを二人で読む場面である。その裁判は、人妻が若い恋人と共謀して夫を殺害したという事件を扱っていた。「被告の女性に関しては、軽蔑以外のなにものも感じないかもしれない」という裁判長の言葉を読んだイヴリンは激怒して、「わたしがあなたを愛しているように、この女の人も若い男性を愛していたのよ、アラン。どうしてそれが、軽蔑以外のなにものも感じないなんて言われなくちゃいけないの。その人にしてみれば仕方なかったじゃないの、そうでしょ」とアランに詰め寄る。このイヴリンの言葉をどう解釈するか。すなわち、これをお芝居として言っているのか、それとも本心で言っているのか。実は、そのどちらの可能性もこの小説の中では否定できない。たとえ本心で言っていたとしても、まだその先の解釈が二通りに分岐する。つまり、イヴリンは完全に無実であり、アランを夫殺害に誘導する気はなかったのだとする読み方と、イヴリンがアランを心から愛しているというのもイヴリンの幻想にすぎないとする読み方である。ポール医師はイヴリンが精神病だという驚くべき告白をして、それがアランの激情を誘う原因になるのだが、それが真実であるとするなら、後者のような読み方もあながち退けるわけにはいかない。わたしには、その解釈が最も説得力があるように思える。その場合、イヴリンは表面的には夫を殺すつもりは毛頭なく、アランを心底愛した結果としてそうなっただけなのだが、深層心理ではそのような動機がたえず彼女の行動選択を決定していたことになる。彼女はそれを意識してはいないから、自分が非難される筋合いはないと本心で思い込んでいるのである。しかし、『被告の女性に関しては』が心憎いのは、そのような解釈があくまでも一つの解釈にとどまる点である。この小説では、イヴリンは黒とも白とも判定がつきにくく、どこまでも限りなく灰色なのだ。
アランがポール医師を過失致死に至らしめてから、突然この小説のトーンは大きく変化し、コックス的なユーモアが過激なまでに発揮されたスラップスティック風の展開になる(実を言えば、殺人はまったく起こっていなかったことが後になって判明する。この小説が犯罪小説という枠の中にも収まりにくく、アイルズ名義の作品としてはあまり読まれていない理由のひとつである)。アランはイヴリンの命令に従って、なんと女装して逃げまわることになるのだ! この結末に至る部分は、あまりにもアランに対して酷すぎるとして、従来から不評を買っているところだが、それはすでに述べたようなアイルズの自虐的ユーモアが最も極端に現れたものだと解釈することができるだろう。
アイルズの作品に顕著に窺える、新しくて古い女性、あるいは新しい女性の出現に怯える男性という人物像は、当時の社会変化に対応しきれない人々の矛盾を抱えた姿を正確に映し出している。これがバークリー/アイルズ/コックスというとらえがたい作家の謎を解く、大きな鍵になることだけは自信を持って言える。彼が抱えていた矛盾は、おそらく当時の社会の病いそのものを反映しているのだ。
最後に、興味深いエピソードを付け加えておこう。アイルズとは何者かをめぐって、当時の文壇ではさまざまな憶測が乱れ飛んだ。そこで名前の挙がった作家には、オルダス・ハクスリー、サマセット・モーム、オースティン・フリーマン、エドガー・ウォーレス、H・G・ウェルズ、イーデン・フィルポッツなど多数いるが、特に取り沙汰された候補者としては、切り裂きジャックを扱った『下宿人』(ヒッチコックが撮った同名の映画の原作)で名高いベロック・ラウンズと、『ある田舎女性の日記』などで知られるE・M・デラフィールドという、二人の女性作家だったのである(そういう噂もあって、アイルズは『被告の女性に関しては』をデラフィールドに捧げている)。アイルズが女性と間違われたという事実は、彼の内に潜む女性性を考えるときに、ことのほか印象的な逸話ではないか。
バークリーがフランシス・アイルズという筆名を選んだ理由は、ターンブルの著作によれば、母親であるシビル・アイルズの祖先に、悪名高い密輸業者のフランシス・アイルズという男がいたからだという。シビル・アイルズは教養があり知的で、オックスフォードで学んだ最初の世代の女性たちに属していた。言うならば、彼女こそは世紀末における「新しい女」のはしりである。その母方の名前をバークリーが筆名として付けたのも、きわめて暗示的な出来事に思えてならない。
使用テキスト
Francis Iles, Malice Aforethought (1931) Pan Books
----------, Before the Fact (1932) Gollancz Crime
----------, As for the Woman (1939) Jarrolds
参考文献
A. B. Cox, Jugged Journalism (1925) Herbert Jenkins
Ayresome Johns, The Anthony Berkeley Cox Files: Notes Towards a Bibliography (1993) Ferret Fantasy
Malcolm J. Turnbull, Elusion Aforethought: The Life and Writing of Anthony Berkeley Cox, (1996) Popular Press