TWICE TOLD TALES

Book Review Archive

若島正


14 P.D. James, Cover Her Face , 1962


翻訳 山室まりや訳『女の顔を覆え』ハヤカワ・ミステリ文庫


カントリーハウス再訪


 「ミステリの新女王」と呼ばれ、今ではすっかり英国文壇の重鎮になってしまったP・D・ジェイムズの評価については、毀誉褒貶さまざまである。良く言えば重厚、悪く言えば退屈といったあたりが読者の受ける平均的な印象で、たとえば熱烈なクリスティー・ファンは大勢いても、熱烈なジェイムズ・ファンという人にはあまりお目にかからない。どうも好き嫌いといった個人的な嗜好で片づけるわけにもいかず、ジェイムズをどう読むかで逆にその読者が試されてしまうというような、うっかりした判断を下せない手強い相手である。こういう厄介なジェイムズが、それではなぜ現在のような名声をかちえているのか。わたしにとっては、それがジェイムズをめぐる最大の謎のように思える。

 結論を先に書いてしまおう。ジェイムズはきわめて頭のいい作家である。そしてまた、きわめてまっとうな常識の持ち主である。彼女はまず、伝統的な探偵小説あるいはゴシック小説の枠組を忠実に再現する。そしてその堅固な枠組の中で、そうしたジャンル特有の設定や約束事を現代風に改変してみせる。内部装置が取り替えられることで、枠組が抱える問題点が明らかにされるわけだが、だからといって決定約に否定されることはない。紋切型の表現を使うなら体制内改革である。おそらくこれは、保守派ジェイムズの健全なバランス感党に根ざしたものだろう。矛盾した諸要素を含みながら、それを最終的には英国人の精神基盤である「常識」によって、摩擦を生むことなく共存させる。このジェイムズの戦略が、現在のミステリ読者のひとつの最大公約数として巧みに機能しているのではないだろうか。すなわち、伝統的な探偵小説を求める読者、現代の状況を小説の中に読み取りたい読者、いわゆる英国小説を味わいたい読者、そうしたさまざまな読者屠の欲求に、ジェイムズの作品がうまく応じてくれるのである。

 デビュー作となったこの『女の顔を覆え』(一九六二)は、まさしくジヱイムズの小宇宙である。『死の味』や『策謀と欲望』といった後期のあの大長篇にはくたびれた読者でもつきあえる程度の短さであると同時に、そこにはジェイムズの世界のすべてが凝縮されている。その意味で、これからジェイムズを読む人には絶好の入門書となるだろう。

 マーティンゲールにあるマクシー家の屋敷で起こる惨劇。これは、英国探偵小説ファンなら先刻御存知の、いわゆるカントリー・ハウス物という独特のサプジャンルに属する作品である。しかしここでジェイムズは、カントリー・ハウス物を書いた偉大な先駆者たちに、愛情を持ちながらも批判の目を向けることを忘れてはいない。その先駆者を二人挙げれぱ、クリスティーとセイヤーズである。

 英国探偵小説の黄金時代に量産されたカントリー・ハウス物では、登場人物たちはいわは書割の中を動く人形にすぎす、そこでは純粋なパスルとしての探偵小説のプロットが本当の主役を演じる。殺人はあくまでも効果的に演出され、流される血は血なまぐさい血ではない。それはリアリズム小説とは異なる、現実逃避としての一種のファンタジー小説である。従って、舞台となるカントリー・ハウスそのものも、現実には存在しない秩序立った小さな世界を象徴する。たとえ殺人が内部の人間の犯行だとしても、小説の最後では乱された秩序がふたたび回復し、その価値観が疑問視されることはない。

 これに比べれば、ジェイムズの興味はプロットよりも人間たちにある。とりわけ被害者のサリー・ジャップ。彼女はいったいどういう女性なのか。言葉を換えれぱ、彼女は殺されても仕方のなかった女なのか、それとも同情に値する女なのか。ジェイムズはサリーの心理を直接描写することはなく、ほとんど登場人物すぺての目に映ったさまざまな彼女の姿を提示する。未婚の母というイメージですら、そこでは固定したものではない。すなわち、サリーは登場人物たちの(そしてわたしたち読者の)心を映し出す鏡である。逆境をまさしく逆手に取ることで、世界を思いのままに操っているという力の意識にとらわれ、その結果死を招いたサリー。フェミニズム批評の立場ならば、女性が置かれた状況をそこに読み取って、サリーを文字通りの犠牲者だと解釈するだろう。ダルグリッシュ警部は、サリーの真実の姿を明らかにはするが、それに対して道徳的な判断を下すことはしない。おそらくそれは読者に任されているのだ。カントリー・ハウス物の常套手段に則って、大団円で披露される彼の推理にしたところで、意表を突くポアロの推理とは大きく隔たっている。彼は容疑者たちの証言から消去法で一人の犯人を残しただけなのたから。彼の推理の根本にあるのは、素人探偵の奇想ではなく、プロフェッショナルの常識である。

 すでに名前を挙げた、クリスティーおよびセイヤーズを引き合いに出して比較を続けてみよう。わたしはクリスティーを本質的にロマンス作家であると考えている。クリスティーでほとんどの場合においてロマンスは肯定される。恋人たちは、パートナーとなって事件を解決したり、殺人の嫌疑が晴れてハッピーヱンドを迎えたりする。恋愛をいかにもロマンチックに描いてみせることにかけては、クリスティーを凌ぐミステリ作家はいないだろう。これに対して、ジェイムズの作品ではロマンスはつねに疑わしい。おそらくジェイムズはロマンチックな盲目の愛というものを信じていない、どこまでも覚めたリアリストなのだろう。『女の顔を覆え』でも、何組かの恋人たちが登場するが、その恋愛関係はどれも現実的である。その中でわたしがいちばん興味をおぼえるのは、フェリックスとデボラのカップルだ。

 セイヤーズの特徴はその文学趣味にある。そして英国探偵小説のひとつの伝統は、この文学趣味であり、それは探偵小説をきわめて自意識の強いジャンルにしている。すなわち探偵小説では、事件が現実に起こっているのではなく、文学の織物として、今書かれつつあるものとして意識されるのである。ジェイムズはこうした文学趣味や探偵小説の持つ自意識を、この作品では表面上最小限に抑える。文学趣味のおそらく唯一の現れは『女の顔を覆え』とうタイトルで、これはジョン・ウェブスターの劇『モルフィ公爵夫人』(一六一四)からの引用であり、マクシー邸が典型的なエリザペス朝建築であることとうまく調和した題なのだが、これですら出典が直接に言及されているわけではない。そして探偵小説の自意識が一箇所だけ表面に浮上している例として、第六章の冒頭でフェリックスとデボラが演じる探偵ごっこが目につくのである。

 フェリックスは、第一章の書き出しでも語られるように外部の人間であり、マクシー家の悲劇を傍観者の目ておもしろそうに眺めている。その奇矯な性格と、出版関係に携わるインテリとしての心得とは、まさしくこの殺人事件を解決する素人探偵役としてうってつけに見える。警察の想像力には限界があるという彼の発言も、素人探偵対警察という典型的な図式にぴったり当てはまるからだ。しかしジェイムズの意図は、フェリックス素人探偵役のパロディにとどめておくことにあった。従って、第六章冒頭の探偵ごっこは、クリスティー流のおしどり探偵のパロディとして読まれるぺきたろう。その二人の推理は遊びにすぎないものであり、そこでは古典的な探偵小説のプロットが現実性のない絵空事としてからかわれてる。それではなぜフェリックスとデボラがおしどり探偵になれないのかといえば、それは二人の関係がクリスティーにおけるロマンスとは異なり永続するものではないからだ。そしてフェリックスという人物は、読者の感情移入が可能な探偵役を演じるには、ゲシュタポに拷問を受けたというあまりにも痛々しい過去を引きずっているのである。

 つまり『女の顔を覆え』は、古典的探偵小説がその枠組だけは崩さずに現実的に再解釈されている作品だとでも言えばよいだろうか。かつて秩序の象徴であったカントリー・ハウスは、死を迎えるばかりの当主サイモン・マクシーのように、ひとつの目に見えない存在となって力をふるい犠牲者を出す。その意味からすれぱ、サリーを殺したのは屋敷そのものだと言えなくもない。さらに想像をたくましくすれば、『女の顔を覆え』という題でジェイムズが鎮魂の意をこめて葬ろうとしたのは、単にサリーという女性だけではなく、このカントリー・ハウスであり、ひいては古典的探偵小説であったと言えなくもない。

 しかし、そうした読みこみは、結場『女の顔を覆え』にはふさわしくないのかもしれない。現実離れした想像力の遊びが部分的に否定され、常識を追求するダルグリッンュ警部の地道な推理が勝利とも呼べない勝利を得る小説では、わたしたち読者が最終的に帰るぺきところはカントリー・ハウスといった存在でも探偵小説といったジャンルの問題でもなく、やはり人間そのものだろう。わたしにとってこの小説の最大の魅力はと言えば、それはサリーという被害者の造形ではなく、最終章における犯人の告白にある。もちろんこの犯人像をここで詳しく分析するわけにはいかないが、ひとつだけ言っておきたいのは、この犯人の告白が異常に短いということだ。エチケット違反すれすれであることを承知のうえでその一部を引用すれば、「活気づいた彼女は一瞬私をあざ笑いました。次の瞬間、彼女は私の手のなかで死んでいました」。この二つのセンテンスは、わたしを心底震撼させた。この短い言葉の中に、いやもっと正確に書けばこの二つのセンテンスの狭間の中に、人間の底知れない深淵が大きくロをあけているような気がする。それはミステリにおける動機云々といった機械的な問題をはるかに越える、死のリアリティであり、その生々しさこそジェイムズの真骨頂なのだ。

(初出 ハヤカワ・ミステリ文庫『女の顔を覆え』解説)
upload 97/10/26


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