2 Agatha Christie, And Then There Were None, 1939
翻訳 清水俊二訳『そして誰もいなくなった』ハヤカワ・ミステリ文庫
明るい館の秘密
もしここが古い館で、床はきしみ、暗い影があって、壁はびっしりと板張りなら、不気味な雰囲気が生まれても不思議ではなかった。しかし、この館は近代建築の粋を凝らしたものだった。暗い隅はなく−−壁には仕掛けがありそうもなく−−電灯が煌々と輝いていて−−何もかも新しく明るかった。ここには何も隠されていない。怪しげな気配もない。だがなぜか、それがいちばん恐ろしいところなのだった……。
――クリスティー『そして誰もいなくなった』
推理小説とは、本質的に再読を要求されるジャンルである。作者がこっそりと隠した手がかりを、読者はそれとは知らずに読み飛ばしてしまう。そして、ようやく謎の解明の段になって、それまでうっかりと読み過ごしてきたものの多さに気づき、前にさかのぼってページをめくる。あるいは、最初からもう一度再読して、作者の巧妙な仕掛けのひとつひとつを味わうことになる。
しかし、そうした読み方は、なにも推理小説だけに当てはまるとは限らない。いやむしろ、それはあらゆる小説について言えることであり、その意味では、推理小説はすべての小説の雛形であると言ってもかまわない。ウラジーミル・ナボコフも、『ヨーロッパ文学講義』の中でこんな名言を吐いている。「ひとは書物を読むことはできない。ただ再読することができるだけだ」
わたしがこの連載でこれからやりたいのは、推理小説史に残るような代表的作品を再読することである。それは言い換えれば、推理小説を推理小説として再読すること、あるいは、推理小説を小説としてもう一度読み直すことである。つまり、ごく当たり前のことをしてみたいわけだ。
ここで有名な作品のみを扱うことにしたのは、本誌を購読しているような推理小説の愛読者なら、当然その作品を読んでいるはずだという推測が前提になっている。よく知られている作品を、すでに知っているつもりにならずに、もう一度読み返してみることを、読者に促したいのである。
作品を論じるにあたって、わたしは難解な批評用語を弄ぶつもりはない。丸い卵も切りようで四角というのは、わたしの趣味ではない。むしろ、丸い卵は丸いということを言うつもりだ。わたしは小説の勘所にしか興味がないのである。それでは、丸い卵を丸いと言うことに、どんな意義があるか。わたしの論じることが、読者には既知のまったく常識的なことであるとしたら、それはそれでひとつのコンセンサスを得られたことになり、悦ばしいのかもしれない。あるいは逆に、それがまったくの常識外れであり、今までの常識が丸い卵を四角だと思い込んでいただけにすぎなかったことが明らかになれば、さらに悦ばしいだろう。もちろん、わたしの読み方が単なる誤読でなければの話だが。
このような連載を書こうという気になったのは、そのような再読がどういう場で行われているのか、外部の人間から見ればわからないのが最大の理由である。たとえば、推理小説では謎の解決そのものを批評の対象にしてはいけないという不文律がある。それは愛読者どうしで直接話題になることがあったとしても、活字になることはあまりない。従って、そうした議論は水面下で行われているか、あるいはまったく行われていないかのどちらかである。謎解きが、誰が読んだところで同じ受け取り方しかできないような、たとえば物理的手段を含むものであるとしたら、それは議論がなくてもかまわないだろう。それはすでに読者の知識として蓄えられているだけである。しかし、謎解きが小説の読み方に直接関係している場合はどうだろうか。丹念な再読を要求される作品の場合に、はたして読者の了解事項は共通しているのだろうか。
これからわたしがある作品について述べることは、わたしの知るかぎりでは、活字になっているのを目にしたことがない。だから、わたしの読み方が正しいのかどうか、それが愛読者の常識なのかどうか、確かめるすべがない。そういうことをこれから書いていくつもりである。謎解きそのものを論じる関係上、犯人などを明らかにしながら話を進めるので、そのつもりでお読み願いたい。
世界で最も多くの読者に読まれている推理小説で、しかもそのトリックがよく知られているものとして、クリスティーの『アクロイド殺害事件』と『そして誰もいなくなった』を挙げても、おそらくどこからも反論はないだろう。語り手が犯人であるという『アクロイド殺害事件』、そして孤島で十人の登場人物が次々と殺されて最後には誰もいなくなるという『そして誰もいなくなった』は、推理小説愛好家なら誰でも、仮に実物を読んでいなくても、そうした筋書きぐらいは知っているはずのものである。しかし、たいていの読者の知識はそこで止まっている。古典的推理小説の代表としてつねに名が挙がるこの二作は、その名声に見合うだけの詳しい議論や分析がされてきただろうか。
『アクロイド殺害事件』の方は、クリスティーの創作意図を推測することはそんなに難しくない。一見ワトソン役のような語り手が驚いたことに犯人であるからには、語り手の叙述は真実でもありまた嘘でもあるわけで、それがこの作品の肝心要の仕掛けであり、それがまた「『アクロイド殺害事件』は推理小説としてフェアか?」という議論を生んできたのはすでに御存知のことと思う。しかし、この叙述トリックそのものは、解釈の違いが生じる可能性はほとんどない。なぜかと言えば、それは語り手がその叙述トリックの部分を自分で解説しているからであり、その指示に沿って読み直しさえすれば、クリスティーの手の内はよくわかる。この誘導に従って実際に読み直しをやってみた例が、創元ライブラリに収められた『物語の迷宮』の中で、松島征氏が行っているナラトロジーの観点からの分析である。実を言うと、わたしが『アクロイド殺害事件』に対して持つ興味は、クリスティーがここだよと教えてくれている箇所以外のところにあるので、たとえば、この小説に出てくる麻雀の場面にどんな意味が読み取れるかを、語り手の心理を中心にして、四つの違った角度から分析した小論を以前に書いたことがある。ある意味では、本稿はその延長線上にあると言ってもいい。
それに対して、『そして誰もいなくなった』の方は、論じられること自体が少ないのではないだろうか。その原因はいろいろ考えられる。まず第一点は、推理小説家としてのクリスティー評価がそれほど高くはないこと。従って、クリスティーの小説技巧そのものを論じるような著作は、ロバート・バーナードの『騙しの天才』を思いつく程度で、あまり分析の対象にならないようだ。そして第二点には、これがポワロ物でもマープル物でもないこと。クリスティーの愛読者の正道は、ポアロやマープルをまるで友人のように自分の身近な存在として感じることにあるらしく、クリスティーについて書かれる文章のかなり多くは、この二人のキャラクターとの親しいつきあいをめぐるものになる。あげくのはてには、彼らの生活や人生のすべてが丹念に調べあげられ、推理される。わたしは、べつにそうした楽しみ方に水をさすつもりはない。ただ、ここではそのようなアプローチを自分に対して禁じているだけである。その意味では、探偵がまったく登場しない『そして誰もいなくなった』は、ポワロ物に属する『アクロイド殺害事件』よりも、ここで扱うには好都合なのだ。
クリスティー批評のもう一つの難点は、キャラクター批評でなくテーマ批評であっても、その切り口が数少ないところにある。それは、クリスティーの作品がどれも類型化していて、その型にはまったところが読者に安心感を与え、ひいてはクリスティーの人気に貢献しているという認識が一般的なためだろう。たとえば、マープル物を中心とした「カントリー・ハウス」物という一群の作品について論じるのは、クリスティ批評の紋切り型であり、それと同様のことがいわゆる「童謡殺人」物についても言える。『そして誰もいなくなった』は後者の代表例であり、そうした観点から眺めた作品論は、ハヤカワ・ミステリ文庫版に付けられた各務三郎氏の解説を読めばとりあえず事は足りる。そして当然ながら、わたしの関心はそこにはない。
わたしがここで考えたいのは、クリスティーは『そして誰もいなくなった』でいったい何をやりたかったのか、そしてそれをどう実現させたかという点に尽きる。それを正確に測定してみるのが、本稿の課題である。クリスティー自身は、『自伝』でこの作品についてこう語っている。
わたしが『そして誰もいなくなった』を書いたのは、十人の人間が死んで、しかも愚劣にならずに、犯人も明らかではないという、実現困難なアイデアに魅了されたからだった。書く前にはかなり綿密な計画を立てたし、その出来上りには満足している。簡明直裁で、不思議な事件だが、まったく合理的な解決が与えられる。実は、その解決をつけるためにはエピローグが必要だった。この作品は好評で迎えられたが、いちばん満足しているのはこのわたしである。なぜなら、わたしはどの批評家よりも、これがどれほど実現困難かを知っているのだから。
推理小説の女王クリスティーにして「実現困難」と言わしめたアイデア、それははたして何なのか。登場人物十人がすべて殺されて、最後に誰もいなくなってしまうということだけだろうか。わたしに言わせれば、そんなはずはない。そのトリックの種明かしはあきれるほど単純で、犯人は自分の死を偽装していたというのだから、これはどう考えても、クリスティーが自慢できるようなものだとは思えないではないか。
「不可能犯罪」とか、「童謡殺人」といった観点よりも、ここで注目したいのは「語り」の問題である。つまり、『そして誰もいなくなった』を『アクロイド殺害事件』の延長線上に置いて、その叙述トリックを検討すればどうなるか。この問題について、まず一般的な認識はどうなっているかを推測するために、各務氏の解説を引用してみる。
『そして誰もいなくなった』では、読者にとって信憑性ある描写を意識的に避けている。この手法が『アクロイド殺し』では失敗し、『そして誰もいなくなった』で成功したのは、ひとえにエンディングのあざやかさと悲劇的なマザー・グースのバラードが生みだすサスペンスによる。物語全体がみごとな謎を構成しているために読後感も手品のタネ明かしじみたばかばかしさが希薄なのである。
なぜ、犯罪(謎)を解く手がかりがないか?(解決篇における手紙の釈明は、一応ひととおりの手続きをとったにすぎない)答。クリスティー自身に、手がかりを与える気など最初からなかったからである。エラリイ・クイーンがいうところの、謎づくりにおける<論理の飛躍>とか、謎は論理的に解かれなければならないというのはテンから信じていなかったためなのだ。謎の真相などは、ひらめいた読者にわかればいいのだ、という態度が濃厚である。
各務氏が強調する、「読者にとって信憑性ある描写を意識的に避けている」という指摘は具体的にどういうことか。もちろん、解説なのでそこは明言を避けているのだが、『アクロイド』と『そして誰もいなくなった』が同列に並べられているところを見ると、真でもあり偽でもあるという『アクロイド』の叙述トリックが念頭に置かれているのだろう。しかし、それが『そして誰もいなくなった』のいわば非論理性につながる証拠になるのだろうか。
わたしなりに各務氏の意見をパラフレーズすれば、おそらくこういうことになるのだろう。つまり、「『アクロイド』では、最初から客観性がないのだから、読者が謎を解こうとしても無駄であり、作者による謎解きを読んでそうかと感心すればよい。それと同じで『そして誰もいなくなった』も、もともと論理的ではないのだから、そのエンディングのあざやかさに感嘆しさえすればいいのだ。そして、その華麗な分だけ、『そして誰もいなくなった』の方が『アクロイド』よりも成功している」と。各務氏以外の書き手も、ほぼこの非論理性と華麗さを強調する各務氏の意見を踏襲しているように見える。おそらくはそれが一般的な認識なのだろう。わたしには、こうした読み方がどうも納得できない。
なるほど、『アクロイド』をなんの知識もなく読んで、犯人をずばり当てられる読者というのは想像するのが難しい。読者にできるのは、犯人がわかったうえで、『アクロイド』をもう一度最初から再読して、クリスティーの「騙り」の妙にうなることしかない。もちろんこれは犯人による一人称の語りだから、ナラトロジーでいうところの「信頼できない語り手」の最も極端な例であり、語り手が嘘をついていては読者が信頼すべき基盤がなくなるとして、『アクロイド』アンフェア説を唱える読者がいてもおかしくはない。(2)
しかし、『そして誰もいなくなった』の場合は、まったく事情が異なっている。最も大きな相違は、語りの人称が違うという点である。つまり『アクロイド』の一人称に対して、『そして誰もいなくなった』はいわゆる全能の話者による三人称の語りなのだ。三人称の語りにおける地の文は、読者が真実として受け取らなければしかたがない(これはクリスティーが自らに課していた条件でもある)。鵜呑みにできないのは、登場人物たちの会話である。しかし、クリスティーの独創性は、そこに登場人物たちすべての心理描写を直接に書き込んだところにあった。彼らの心理描写は、会話と違って、嘘をつくことができない。普通に考えれば、犯人の心理が明るみに出されると、そこでその人物が犯人だとばれてしまうはずである。クリスティーは、犯人の心理もさらけだしながら、しかもそれでいて容易に犯人だと見破れないという、一見不可能に思える叙述トリックを狙ったのだ。
わたしは、『そして誰もいなくなった』における最大のトリックは、「瓶の中の手紙」というおなじみの趣向で明かされる、犯人によるトリックではなく、作者クリスティーの側の叙述トリックだと考えている。ここで犯人によるトリックとは、犯人が物理的にいかに犯罪を可能にしたのかという説明のことであり、作者による叙述のトリックとはまったく別物なのを注意していただきたい。その犯人によるトリックに対するわたしの評価は、すでにほのめかしたように、一言で言ってつまらないというものである。『そして誰もいなくなった』を評価するなら、叙述トリックの方にこそ注目しなければならないのではないか。
それでは、なぜこの点が従来見落とされてきたのか。それは結局、語りの問題に帰着する。『アクロイド』は一人称の語りであったから、語り手=犯人は自らが仕組んだ叙述トリックに言及することができた。そして読者はそれを読みさえすれば、そのトリックの仕組みを理解することができた。ところが、『そして誰もいなくなった』の方は三人称の語りなので、犯人は自らの犯行のトリックにしか言及することができず、一段高いところに存在する全能の語り手による叙述トリックについては知ることができないから言及できない。そして、全能の語り手も、客観的な描写をしているようなふりを続けるかぎり、高みから下りてきて叙述トリックを指し示すことはできない。すべては、犯人のトリックが明らかになり、小説が終わった後で、ふと疑問に思ってもう一度この小説を最初から読み直してみるような、読者の勘に委ねられているのである。
その読み終わってからの疑問とは何か? それはすでに述べたように、登場人物全員の心理が明かされていたにもかかわらず、なぜ犯人が犯人だと見破れなかったのかという疑問である。犯人の心理描写はどうなっていたのかという視点で再読を試みれば、たしかにクリスティーの「綿密な計画」が読み取れる。そして、「クリスティー自身に、手がかりを与える気など最初からなかった」のではなく、充分な手がかりを与えながらかつ容易に尻尾をつかませない、その叙述の手口の巧みさに感嘆することになるのだ。
ここで自由な推測をするなら、クリスティーは『アクロイド』がフェアかどうかという議論を巻き起こしたのを教訓として、『そして誰もいなくなった』ではそのような非難を浴びない形で叙述トリックを用いたのではないか。そう考えてみれば、『そして誰もいなくなった』は『アクロイド』と表裏一体となる作品ではあるが、より仕掛けが見えにくい点では、『アクロイド』のひとつの発展形と見ることもできよう。
『そして誰もいなくなった』における心理描写の重要性は、すでに何人かの人間が指摘しているところである。古くは、ロナルド・ノックスが提唱した有名な「探偵小説十戒」の中で、その第一条「犯人は、物語の初期の段階から登場している人物であらねばならぬ。しかしまた、その心の動きが読者に読み取れていた者であってはならぬ」の説明として、「このルールの後半は、分かりやすく言い表すのが困難で、クリスティー女史がこのルールに違反しながらも、なおかつ幾編かのすぐれた作品を発表しているだけになおさらなのだ」と述べられている。ただし、ノックスがこう書いたのは一九二九年で、『そして誰もいなくなった』出版の十年前のことだった。従って、彼の念頭にあったのは当然『アクロイド』であろう。つねに明晰なジュリアン・シモンズは、「謎ときの女王」というクリスティー論でこの心理描写のトリックに触れ、さらに『大空の死』(一九三五)でも同様の趣向が用いられていることを指摘している。もっとも、『大空の死』では、心理描写は登場人物たちを物語の中に導入する際の一手法として使われているのであり、それが『そして誰もいなくなった』のように前景化されているとは言いがたい。だから、シモンズがわたしと同じような読み方をしていたのかどうかについては、正直なところ不明のままである。そこでわれわれは、シモンズの後を引き継いで、その叙述トリックの巧妙さを実際に詳しく検証してみることにしよう。
まず、分析に入る前に、インディアン島に集まり殺害される十人の登場人物と、その心理描写が現れる章・節をまとめておこう。なお、『そして誰もいなくなった』は、エピローグと犯人の手記を除けば、全16章87節という細かな部分に分かれている。そして、われわれの分析に必要なのはそこだけであり、エピローグの手紙は可能なかぎり無視する。太文字は、各々がその中で視点人物などの中心的な役割を占める節を示す。また、リストの最後には、各々が殺される節を括弧で示してある。
ローレンス・ウォーグレイヴ……元判事。
1-1 2-8 5-3 10-3 11-6 13-1 (13-3)
ヴェラ・クレイソン……元家庭教師。
1-2 2-5 2-6 3-1 5-6 7-1 8-4 9-6 11-5 11-6 13-1 13-2 13-3 14-4 14-6 16-2 16-3 (16-4)
フィリップ・ロンバート……元陸軍大尉。
1-3 2-1 2-2 2-12 4-3 11-1 11-6 13-1 14-3 (16-2)
エミリー・ブレント……狂信的な老婦人。
1-4 2-1 2-13 10-4 11-5 11-6 (12-1)
ジョン・マカーサー……退役将軍。
1-5 2-2 2-1 1 5-5 (9-3)
エドワード・アームストロング……医師。
1-6 2-7 4-1 4-3 6-1 6-4 7-2 9-5 10-3 11-6 13-1 (15-4)
アンソニー・マーストン……遊び好きの青年。
1-7 2-5 2-9 (4-4)
ウィリアム・ブロア……元警部。
1-8 2-10 8-2 11-6 13-1 14-5 (15-2)
ロジャース……召使。
5-4 10-7 (11-2)
ロジャース夫人
(6-1)
こうして全体を眺めてみると、ヴェラ、ロンバード、アームストロング医師の三人に心理描写のかなり多くが集中していることがわかる。とりわけ、ヴェラは意識の中心であるといってもよい。これは、この三人が最後に残る三人であることとも関係しているのだが、ヴェラは当初からアームストロング医師を疑っているし(10-1) 、またヴェラとロンバードはインディアン島へと向かう列車の中で出会う、運命の絆によって結ばれた二人である(1-2〜3) 。こうした心理的な設定が、結末近くのサスペンスを生んでいるわけだ。(実際、クリスティーはこの作品を戯曲化したとき、ヴェラとロンバードが殺されずに助かって結ばれるというハッピー・エンディングを付けている。)
登場人物たち各人の意識の断片をつぶさに検討してみることは、それなりに興味深いことではあるが、本稿の目的ではない。ここで注目したいのは、
@ウォーグレイヴ判事からブロア警部まで、八人の人物がそれぞれインディアン島におもむく1-1〜8の導入部
A四人が死んで、ウォーグレイヴ、ヴェラ、ロンバード、エミリー、アームストロング、ブロアの六人が残った時点で、その六人全員の心理が誰のものとも限定されずに列挙される11-6
Bそこからさらにエミリーが死んで、ウォーグレイヴ、ヴェラ、ロンバード、アームストロング、ブロアの五人が残った時点での全員の心理が、やはり誰のものとも限定されずに列挙される13-1
の三箇所である。とりわけ、AとBはこの小説の中でもひときわ目立つ書き方がしてあり、そこをまったく気にせずに読み飛ばしてしまうことはできない。
この三箇所を詳しく調べてみることでわたしが言いたい論点を、先に箇条書きにまとめておくと、次のようになる。
◎この箇所には、叙述トリックが仕掛けられている。言い換えれば、ある人物(=犯人)の心理描写において、読者の誤読を誘うような書き方がしてある。
◎その誤読を正せば、犯人以外の登場人物たちの心理描写との比較から、いかにそれが書き分けられているかがわかる。
◎AおよびBでは、特定されていない心理描写が、その言葉遣いなどに注目すると、誰の心理描写かがすべて特定できる。
◎誰の心理描写か特定できた後で読み直せば、舞台裏で進行しているある計画の姿が見えてくる。
◎そこでも、犯人を推定することは可能である。つまり、小説全体は論理的に構築されている。
まず、書き出しの第1章から。ここでは、八人が主にオーエン氏なる謎の人物からの手紙を受け取り、インディアン島へと旅立つ。しかし、登場人物たち全員を孤島に呼び寄せたのは犯人のしわざだから、もしこの八人の中に犯人がいるとすれば、その犯人の旅立ちを描いた節はいったいどうなっているのだろうかという疑問がわいて当然である。インディアン島で待っている召使のロジャース夫妻は、この第1章には出てこないが、二人とも早い段階で殺されるので、犯人である可能性はきわめて薄く無視できる。われわれが知っているように、犯人はウォーグレイヴ判事だから、彼が出てくる1-1、すなわちまさしくこの小説の冒頭部分からして、クリスティーはいきなり叙述トリックを使っていることになるのだ! それは、1-1の次のくだりである。なお、叙述トリックは文章技巧に関わる微妙な問題だけに、後に述べるように翻訳で読むと落とし穴にはまる危険性があり、ここから先は原文とその試訳を並べて掲げる。テキストとして用いたのは、Fontana Books版のペーパーバックである。
From his pocket Mr. Justice Wargrave drew out a letter. The handwriting was practically illegible but words here and there stood out with unexpected clarity. Dearest Lawrence . . . such years since I heard anything of you . . . must come to Indian Island . . . the most enchanting place. . . so much to talk over . . . old days. . . . communion with Nature . . . bask in sunshine . . . 12:40 from Paddington . . . meet you at Oakbridge . . . and his correspondent signed herself with a flourish his ever Constance Culmington.
Mr. Justice Wargrave cast back in his mind to remember when exactly he had last seen Lady Constance Culmington. It must be seven――no, eight years ago. She had then been going to Italy to bask in the sun and be at one with Nature and the contadini. Later, he had heard, she had proceeded to Syria where she proposed to bask in yet stronger sun and live at one with Nature and the Bedouin.
Constance Culmington, he reflected to himself, was exactly the sort of woman who would buy an island and surround herself with mystery! Nodding his head in gentle approval of his logic, Mr. Justice Wargrave allowed his head to nod. . . . He slept. . . .
ウォーグレイヴ判事はポケットから一通の手紙を取り出した。ほとんど判読できない筆蹟だったが、ところどころに、思いがけないほどはっきりわかる文句があった。親愛なるローレンス様……長いあいだ御無沙汰して……ぜひインディアン島ヘお越しいただきたく……魅惑の島……つもる話が……懐かしい日々を……自然との交わり……日光を浴び……パディントン発十二時四十分……オークプリッジ駅でお待ちして……。そして差出人は、“あなたのコンスタンス・カルミントン”と美しい筆蹟で署名していた。
レディ・コンスタンス・カルミントンに最後に会ったのはいったいいつのことだったか、とウォーグレイヴ判事は回想した。きっと七年−−いや、八年前だ。当時彼女は、日光を浴び、自然や農民と交わるために、イタリアヘ旅行しようとしているところだった。その後、聞くところでは、さらに強い日光を浴び、自然や遊牧民と交わるために、シリアまで足をのばしたらしい。
コンスタンス・カルミントンは、いかにも島を買い取って、謎に包まれるのを喜びそうな女だ。自分の論理に満足そうにうなずいて、ウォーグレイヴ判事はそのまま頭をうなだれた……。彼は眠りはじめた……。
一見するとこの文章は、他の七人がいかにインディアン島に集まることになったかを説明した1-2〜8とまったく同じ調子のように思える。ここに何かくさいものを嗅ぎつける読者はおそらくいないだろう。読者はみな、コンスタンス・カルミントンからインディアン島への招待状がウォーグレイヴ判事にとどき、今世間の噂になっている島を買った謎の人物はなるほどコンスタンス・カルミントンだったのかと彼が納得した、と解釈して疑わない。ところが、その早合点こそがクリスティーの思うつぼなのだ。
ウォーグレイヴ判事がコンスタンス・カルミントンからの偽の手紙を自ら用意した(あるいは、共謀者のモリスという男に用意させた)のは、4-1でこの手紙を証拠として全員の前に提出する必要があったからである。[注1]
彼がこの手紙の差出人としてコンスタンス・カルミントンを選んだ理由は二つある。まず、八年前にイタリアへ旅行するところで、その後シリアまで行ったというのだから、現在の消息は不明であり、従って最近の彼女を知っている人物はおそらくいないこと。次に、その気まぐれな性格からして、「いかにも島を買い取って、謎に包まれるのを喜びそうな女だ」から、この手紙の差出人としてうってつけであること。ウォーグレイヴ判事が「自分の論理に満足そうにうなずい」たのは、実はそうした理由だったのである。
これと比べて、1-2〜8の七人の心理描写は、彼らが本当にインディアン島への招待に応じて旅立ったことを保証する書き方がしてあるのだが、その検討は読者各自で行ってみていただきたい。
さて次は、Aの11-6で六人の心理が列挙される箇所を分析してみる。この時点での生き残りは、ウォーグレイヴ判事、ヴェラ、ロンバート、エミリー、アームストロング医師、ブロア警部の六人。誰のものと明示されずに一段落の中で列挙されるこの心理描写を、それぞれA〜Fとして以下に掲げる。ただし、原文の英語では男女の区別がつかないので、試訳もそれをこころがけた。
A
"What next? What next? Who? Which?"
「次は? 次は? 誰が? どの人間が?」
B
"Would it work? I wonder. It's worth trying. If there's time. My God if there's time. . . ."
「うまくいくだろうか? どうだろうか。やってみる価値はある。時間さえあれば。まったく、時間さえあれば……」
C
"Religious mania, that's the ticket. . . . Looking at her, though, you can hardly believe it. . . . Suppose I'm wrong. . . ."
「狂信者だ、きっとそうにちがいない……。外見ではおよそ信じられないが……。もしまちがっていたら……」
D
"It's crazy---everything's crazy. I'm going crazy. Wool disappearing---red silk curtains---it doesn't make sense. I can't get the hang of it. . . ."
「狂っている−−何もかも狂っている。気が狂いそうだ。毛糸が消えて−−赤い絹のカーテンも−−わけがわからない。さっぱりわからない……」
E
"The damned fool, he believed every word I said to him. It was easy. . . . I must be careful, though, very careful."
「ばかな男だ、こっちの言葉をすっかり鵜呑みにして。ころりとひっかかった……。しかし、充分警戒しなければいけない」
F
"Six of those little china figures . . . only six---how many will there be by tonight? . . ."
「あの小さな陶器の人形が六つ……たった六つ−−今夜にはいくつになるのか?……」
このA〜Fが誰の心理かを特定するには、まずわかりやすいものから順に決めていけばいい。いちばん簡単なのは、CとDだろうか。Cは<狂信者>(Religious mania.)という言葉が鍵で、この言葉はブロア警部がエミリーを指して何度も使ったものである。[注2]Dでは、<ウールが消えて>(Wool disappearing.)という箇所に注目。エミリーが編み物に使っていた毛糸の玉がなくなったという事実は、お茶の時間にエミリーの口からヴェラに対して告げられたものだが[注3]、この発言はとりたてて注意を惹くほどのものではなかった。この毛糸がふたたび現れるのは、ウォーグレイヴ判事が殺されている(実は偽装)のが発見される13-3である。従って、この時点で毛糸のことを気にかけているのは、いかにも女性らしいこだわりで、それはエミリーしかありえない。
その次に推測しやすいのは、EとFである。Fは、人形が一つずつ減っていくのを気にしているが、その発見役は最初ロジャースに与えられていた[注4] 。しかし途中から、その役まわりはヴェラが引き受けることになる[注5]。そして童謡と殺人との平行関係に最初に気づいて、発作的に笑いだしたのも彼女である[注6]。従って、これはヴェラの心理だと決定できる。Eで鍵になるのは<充分警戒しなければいけない> (I must be careful, though, very careful.) で、これはウォーグレイヴ判事の口癖である[注7]。この事実に読者の注意を喚起するために、クリスティーは次のような念押しをしている。ウォーグレイヴ判事が死を偽装していったん舞台から消えてから、アームストロング医師がこの言葉を機械的に繰り返し、「それは彼が言っていた言葉だ」とブロア警部から指摘を受けることになるのだ[注8]。
それでは、Eがウォーグレイヴ判事だとするなら、彼が言う<ばかな男>とはいったい誰か? それはアームストロング医師である。ウォーグレイヴ判事が誰かと二人きりで話し合っている場面は10-3だけであり、その相手はアームストロング医師だからだ。しかもウォーグレイヴ判事は、初めてアームストロング医師と会ったときに、「医者はどいつもこいつもみんなばかだ」と内心で思っていたという描写がある[注9]。
ここで明らかになるのは、ウォーグレイヴ判事がアームストロング医師に嘘をつき、二人で何かの計画を舞台裏でひそかに進行させているという可能性である(それは次のBの分析とも連動する)。その観点に立てば、何か計画を腹案中で、それがうまくいくかどうかを心配しているBは、アームストロング医師ということになる。
以上、得られた結論をまとめると、A=ロンバード、B=アームストロング、C=ブロア、D=エミリー、E=ウォーグレイヴ、F=ヴェラ。
これと同じようにして、Bの13-1を分析してみよう。この時点での生き残りは、先の六人からエミリーを除いた五人。心理描写にG〜Kと記号をふっておく。
G
"It's Armstrong. . . . I saw him looking at me sideways just then . . . his eyes are mad . . . quite mad. . . . Perhaps he isn't a doctor at all. . . . That's it, of course! . . . He's a lunatic, escaped from some doctor's house---pretending to be a doctor. . . . It's true . . . shall I tell them? . . . Shall I scream out? . . . No, it won't do to put him on his guard. . . . Besides, he can seem so sane. . . . What time is it? . . . Only a quarter past three! . . . Oh, God, I shall go mad myself. . . . Yes, it's Armstrong. . . . He's watching me now. . . ."
「アームストロングだ……ちょうどあのとき、彼は横目で私を見ていた……あの目つきは狂っている……完全に狂っている……。医者ではないのかもしれない……そうとも、決っている!……どこかの医院から逃げてきた狂人で−−医者のふりをしているのだ……。きっとそうだ……みんなに話そうか?……大声を出して?……いや、警戒させるのはまずい……。それに、彼は正気のように見えるだろうし……。何時だろう?……まだ三時十五分だなんて!……ああ、私も気が狂いそうだ……。そうだ、アームストロングだ……。彼は今、私の方を見ている……」
H
"They won't get me! I can take care of myself. . . . I've been in tight places before. . . . Where the hell is that revolver? . . . Who took it? . . . Who's got it? . . . Nobody's got it---we know that. We were all searched. . . . Nobody can have it. . . . But someone knows where it is. . . ."
「おれはやられないぞ! やられるはずはない……。何度も危い橋を渡ってきているんだ……。それにしても、ピストルはどこへいったんだろう?……誰が盗ったんだろう?……誰が持っているんだろう?……誰も持っていない−−それはわかっている。全員、身体検査を受けたから……。誰も持っているはずがない……。しかし、誰かがありかを知っているはずだ……」
I
"They're going mad . . . they'll all go mad. . . . Afraid of death . . . we're all afraid of death. . . . I'm afraid of death. . . . Yes, but that doesn't stop death coming. . . . 'The hearse is at the door, sir.' Where did I read that? The girl . . . I'll watch the girl. Yes, I'll watch the girl. . . ."
「みんな気が狂いかけている……みんなそのうちきっと気が狂う……。死ぬのが怖くて……われわれはみな、死ぬのが怖い……。私だって怖い……。そうとも、だからといって死を免れることはできない……。<霊柩車が戸口に来ております。>どこで読んだんだろう。あの女……あの女を見張っていよう……。そうだ、あの女を見張るんだ……」
J
"Twenty to four . . . only twenty to four . . . perhaps the clock has stopped. . . . I don't understand---no, I don't understand. . . . This sort of thing can't happen . . . it is happening. . . . Why don't we wake up? Wake up---Judgment Day---no, not that! If I could only think. . . . My head---something's happening in my head---it's going to burst---it's going to split. . . . This sort of thing can't happpen. . . . What's the time? Oh, God! it's only a quarter to four."
「四時二十分前……まだ、四時二十分前だ……時計が止まっているのかもしれない……。わけがわからない……まったくわからない。こんなことが起こるはずはないのに……現に起こっているなんて……どうして目がさめないのか? 目ざめよ−−最後の審判の日だ−−いや、そんなばかな! 考えることさえできたら……。頭が−−頭がおかしい−−破裂しそうだ−−割れそうだ……。こんなことが起こるはずはないのに……。何時だろう? ええっ、まだ四時十五分前か!」
K
"I must keep my head. . . . I must keep my head. . . . If only I keep my head . . . It's all perfectly clear---all worked out. But nobody must suspect. It may do the trick. It must! Which one? That's the question---which one? I think---Yes, I rather think---yes---him."
「正気でいるんだ……。正気でいるんだ……。正気でいさえすれば……。すべては明白だ……すっかり読めている。しかし、誰にも疑われてはいけない。うまくいくかもしれない。うまくいってくれないと! 誰だろう? それが問題だ−−誰だろう? きっと−−そう、きっと−−そうだ−−あの男だ」
この中でいちばん明白なのはHで、<何度も危い橋を渡ってきている> (I've been in tight places before.) はロンバードの口癖である[注10]。
Jでは<最後の審判の日> (Judgement Day) が鍵になる。これは、ブロア警部が列車で乗り合わせた、船乗りらしい老人が予言した言葉である[注11]。いかにもクリスティーらしい、実に用意周到な伏線の張り方ではなかろうか。おそらくはこの言葉がブロア警部の心の奥深くにしまわれていて、それがこの瞬間になって意識に浮上してきたのである。
Gでアームストロング医師を疑っているのはヴェラである。彼女はロンバードに誰が怪しいかと訊ねられたとき、即座に「アームストロング医師」と答えたことがある[注12]。
残ったIとKのうち、Kで相変わらず何かの計画がうまくいくかどうかを心配しているのは、AのBと同じで、実はウォーグレイヴ判事の死を偽装する計画を立てているアームストロング医師である。ここで彼が誰(男性)を犯人だと疑っているのかは、必ずしも考察しているテクストの範囲内では明らかではないが、犯人の手記を読めばそれがロンバードだったことが判明する。
結論をまとめると、G=ヴェラ、H=ロンバード、I=ウォーグレイヴ、J=ブロア、K=アームストロング。
こうして誰の心理かが特定し終わった時点で、ひとつだけ最後に残ったために特定ができたウォーグレイヴ判事の心理描写Iを眺めてみると、それが微妙な書かれ方をされていることに気がつく。市販されている清水俊二氏による邦訳では、「あの女を見張っていよう」という部分が「怪しいのはあの娘だ」となっているが、これは叙述トリックにひっかかった誤訳であり、全体の読みに関わる重大な問題をはらんでいる。なぜなら、それだとウォーグレイヴ判事がヴェラを犯人だと疑っていることになるからである。実際には、彼はヴェラのタフさを充分に見抜いていて、最後には彼女が残ることをすでにこの時点で予測しているのだ。要するに、訳者はそこのところを読めていない。その翻訳を通じてしか『そして誰もいなくなった』を読んだことのない一般読者には、もちろんそれがわかるはずがない。わたしが本稿を書く気になった本当の理由は、実はそこにある。
もう一点、叙述トリックとして大切なところを押さえておこう。心理描写Iで、「われわれはみな、死ぬのが怖い……。私だって怖い……」という箇所を、読者はこの人物が殺人鬼に殺されるのを怖がっているのだとうっかり読んでしまう。だから、Iがウォーグレイヴ判事だと正しく見破ったとしても、彼が犯人だとはすぐにわからない仕掛けになっているわけだ。そういう誤読を回避して正しく読み直せば、彼は不治の病を宣告されており、その意味で死を免れることはできないが、それでもやはり死ぬのは怖いと言っているのである。
犯人は誰かを疑ってみたり、消えたピストルの行方を考えてみたり、現実に起こっていることが信じられないというG、H、J、Kのそれぞれは、こうした心理の持主が犯人ではないことを間接的に証明している。それに対して、Iはそうした証明にはならない。こうした巧妙な書き分けが、『そして誰もいなくなった』を支える叙述トリックなのだ。
登場人物たち十人が集合する、孤島の館。いかにもゴシック小説風の趣向にうってつけの設定に見えるが、クリスティーはこの館をゴシック屋敷にしなかった。ここには、推理小説によく見られるような、部屋の詳細な見取図などは付けられていない。そういう趣向はクリスティーの関心外にある。この館は、どこまでも明るく影のない、「何も隠されていない」館である。そしてそれは、単に建築上の話にとどまらず、この小説世界の完璧な隠喩になっている。十人の心理がすべて明らかにされ、そのどこにも犯人の隠れている気配がないのに、そのどこかに犯人がいるという恐ろしさ。その意味では、登場人物たちの感じる恐怖よりも、読者の感じる恐怖の方が何倍も大きいかもしれない。『そして誰もいなくなった』は、そうした明るい恐怖の世界なのである。