20 Robert Goddard, Into the Blue, 1990
翻訳 加地美知子訳『蒼穹の彼方へ』上下 文春文庫
結末のその先
わたしは親友に会ったとき、「最近なにかおもしろい小説読んだ?」という言葉を挨拶代わりにしている。ただ、この言葉を使うことがてきるのは、おもしろい小説に出会うのを無上の喜びと感じるような、根っからの小説好きに対してだけである。悲しいことに、そんな人間ばかりがまわりにいるわけではなくて、早い話がわたしの勤務先の大学にはほとんどそういう人間がいない(大学教師という人種には、小説の研究者は多くても、本当の小説好きは少ないのである)。だから、「最近なにかおもしろい小説読んだ?」と声をかけられるような親友は、わたしにとって実に貫重な親友なのだ。そういう連中とおしゃべりを始めると、小説の話ばかりが何時間も延々と続くことになる。どうせそんな話になるのは決まっているから、会うまえに最近読んだ本を思いだしてみて、話題の準備をしてくる男もいるほどだ。
そうした貴重な友人のひとり、英国小説研究家のS君は熱心なミステリ・ファンで、彼から教えてもらった作家や作品もたくさんある。そのS君が最近ひいきにしているというので、読んでみてなるほどと感心させられたのが英国のロバート・ゴダードという作家。ここでは、彼の第四作目にあたる最新作『紺碧に消えて』(Into the Blue,1990)を紹介しておこう。書評家たちから「ダフネ・デュ・モーリアの後継者」と呼ばれているゴダードは典型的な長篇作家で、この『紺碧に消えて』は彼の小説にしては短い部類に属するが、それでもハードカヴァーで四○○頁強。その長丁場を退屈させずに引っ張っていくのがゴダードの力量である。
この小説の主人公はハリー・バーネットという中年男で、人生の敗残者でもある。公金横領の疑いをかけられて職を追われた彼は、かつての職場の同僚で今は英国下院議貝にまで出世したアラン・ダイサートに助けられ、ギリシアのロードス島にあるダイサートの別荘に管理人として雇われている。その別荘に招かれた客としてやってきたヘザー・マレンダーという若い女性に、ハリーはほのかな好意を抱く。ところが、二人が山道をドライブしていたとき、途中で車を降りて山頂めざして歩きだしたヘザーは、ハリーの目の前で消えてしまう。殺されたのか、それとも何者かに連れ去られたのか。警察の捜査にもかかわらずヘザーは発見されない。当然ながら、嫌疑はハリーにかかる。ヘザーがどこかで生きていると確信するハリーは、その嫌疑を晴らすべく、ヘザーを自分の手で見つけだそうと決心する。ヘザーが遺した一組の写真を手がかりに、生まれ故郷のイングランドヘ、そしてふたたびギリシアヘと、ハリーの旅が始まる。それは、これまでの落伍者としての人生を清算し、本当の自分の姿を見つけるための旅でもあった……。
ゴダードの小説は、つねに過去への探索という形式をとる。ある人物があらゆる手段を尽くして抹殺しようとした過去、絶対に暴かれてはならない秘密。それが、物語の展開に従って、次第に姿を現してくる。『紺碧に消えて』では、ヘザーの足跡をたどるにつれて、ハリーは必然的にその殺された過去へと近づいていくことになる。そのハリーの複雑な軌跡を要約するのは、この限られたスペースの範囲ではとても不可能だ。味方だと思っていた人物が実は敵であったり、その逆もまた起こりうる。迷宮にも似たプロットがゴダードの持ち味なのだが、読者はとにかくハリーの行動を追いさえすれば、その迷宮の道筋を見失なって読書を中断してしまうことはない。なにしろゴダードの語り口にはドライブがあるのだ。そしてその探素の末にハリーがたどりつくのは、ヘザーではなくて、恩人であったはずの大物政治家ダイサートが隠していた過去なのである。
善人が実は悪人であったというのがこの小説の結末なら、これはありふれた話だろう。ところが、ゴダードの小説に衝撃力があるのは、その先である。どんでん返しの先にゴダードがつねに用意しているのは、もうひとつの真の秘密であり、まさしく「人間的瞬間」と呼ぶにふさわしい、読者を感動させずにはおかない過去のエピソードが最後の最後で明らかにされるのだ。ただ、ゴダードはどれほど長いものを書いても途中に無駄な部分をはさまないから、いわば宙ぶらりんになっている細部が必ず最後には利いてくるわけで、ミステリ読者なら伏線を見破ることはさほど困難ではないはずだが。
現在ロンドンに留学中のS君は、ゴダードにファンレターを書いて、会う機会を得た。そこでS君は、「最近なにかおもしろい小説読んだ?」という例の挨拶代わりをゴダードにも向けてみたらしい。するとゴダードは、「読んてみておもしろい小説がないから自分で書きだした」と前置きしてから、リチャード・アダムスの『ブランコに乗った少女』を挙げたという。要するに、小説とは物語だということをよくわかっている人なのだ。
S君の評では「ホームラン」という第三作Painting the
Darknessをわたしはこれから読むところだ。日本ではまったく知られていないゴダードだが、第1作の、Past
Caringと第2作のIn Pale Battalions(これも傑作!)が近々翻訳出版されるらしい。それを契機に、ゴダード愛読者が増えることを期侍したい。