TWICE TOLD TALES

Book Review Archive

若島正


25 Margaret Millar, The Murder of Miranda, 1979


翻訳 『ミランダ殺し』創元推理文庫


ミラー、ミラー


 「鳥は――その、鳥はそれほど幸せそうには見えませんね」

 「あら、そう?」

 「自由を持て余して、どうしていいのかわからずに、ただ飛びまわるだけなんで すから。そんな生活は、あなたみたいに道理をわきまえた御婦人には似合いませ んよ、キーティングさん」

 「そうかもしれないわね」

 「つまり――」

 「つまり何が言いたいのか、わかってますよ、マガウニー」

 「え、ほんとに?」

 「もちろんですとも」マガウニーは顔を赤らめた。「こうなるとは――その、思 いがけない話で」

 「わたしは別に」

 「でも半時間前まで、こんなこと思ってもみませんでした」

 「わたしはわかってたわ。こういうことは、男より女のほうが勘が働くものな  の」

  マガウニーはしばらく黙った。「どうもロマンチックなプロポーズじゃなく  て。 もう少しそれらしく言わないと」

 「じや、言ってみたら」彼はハンドルを強く握りしめた。「愛してます、奥様」

 ずいぶんと長い引用になってしまったが、これは一九五四年に『コスモポリタン』誌に発表された、マーガレット・ミラーの数少ない短篇のひとつ「マガウニーの奇蹟」の一節である。ここで登場するマガウニー氏は、妻と一人娘をスペイン風邪で亡くしてから、小さな町の葬儀屋として三五年間ひたすら働いてきた孤独な男。彼は奇蹟を願って、死人にこっそり蘇生術をほどこしてきたのだが、あるときその奇蹟がついに実現して、中年の未亡人キーティング夫人が死からよみがえる。興奮するマガウニーに対して、生き返ったキーティング夫人は冷やかな態度をとり、偽の埋葬をとり行うよう指示する。彼女は生き返ったところで誰も喜ぶ者がいないことを知っていたのだ。この引用箇所は、自由な人生を送れるように夫人をデトロイトまで乗せていく車の中での二人の会話で、ここでマガウニーは思いがけなくも唐突に愛を告白してしまう。このなんとももどかしい愛の言葉に対して、夫人は「小娘じゃあるまいし、愛してるだなんて聞きたくもない」とピシャリとはねつけてみせるのだが、実は愛の言葉をこれまで一度も聞いたことがなく、まるで小娘のようにそのプロポーズを承諾するのである。

 この短篇が私にとって興味ぶかいのは、それがミラーの作品には珍しい側面と、典型的な側面を同時に含んでいるからだ。典型的な側面の第一点は、弁護士が失踪人を探すというプロット。この短篇では、匿名の手紙によって夫人の墓があばかれ、死体が消失していることがわかり、弁護士のエリック・ミーチャム(彼は未訳の『一瞬に消えて』(一九五二)にも登場する)がマガウニーを追ってサンフランシスコへやってくる場面から物語が始まる。マガウニーを発見したミーチャムは、彼の口から驚くべき真相の告白を聞く。人生経験に乏しい新米の弁護士が、中年あるいは老年の人間たちの傷ついた人生のドラマを知るという対照の図式は、ミラー作品の典型的なパターンであることをここで指摘しておきたい。もうひとつミラー作品の共通性として挙げられるのは、会話の巧みさである。ミラーが人間心理の奥底を描く作家だというのはよく言われることだが、いわゆる心理描写の代わりとして、こうした会話が担っている部分もまた大きい(会話の中では地の文による心理描写がきわめて抑制されていることに注意してほしい。すべては登場人物たちの語る台詞の中に読み取れるのである)。愛の言葉を語ったことがないマガウニー、愛の言葉を聞いたことがないキーティング夫人。この二人のやりとりには上質のドラマがある。

 しかしこの作品で、ミラーは珍しく、死人がよみがえるという超自然的要素を導入している。さらに珍しいことに、マガウニーとキーティング夫人という孤独な魂を持つ二人が結ばれる点で、この短篇は「愛の奇蹟」とでも言うべき感動的な物語になってしまう。オカルトとラヴ・ストーリー、これはミラーにおいてはかなり奇妙な組合わせと言えよう。いや、言葉を換えれば、ミラーにとってはオカルト的要素を設定しなければ純粋なラヴ・ストーリーは成立しなかったのではないか。その意味で、「マガウニーの奇蹟」はきわめて特異なミラー作品なのである。通常のミラー作品では、愛はつねに一方通行に終わる。それが悲劇を生じるすべての源なのだ。

 「ごめんなさい。いろいろ経験したせいで、疑りぶかくなってしまって。教訓を学びすぎたのね」

 「いつか学んだことを忘れられるかもしれない」

 「そうかもね。でも忘れるほうが大変」

 「その力になってあげようか、へレン」

 「どうやって?」

 「きみの人生に乏しいものをあげるのさ」

 「それは何?」

 「愛とでも呼んでくれ」「愛」彼女の首筋から頬骨にかけて、鮮やかなピンク色がひろがった。

 代表作のひとつ『狙った獣』(一九五五)の一節。へレン・クラーヴォウに脅迫電話をかけた謎の女を探すべく捜査を依頼された管財人のポール・ブラックシアは、退屈な生活をまぎらわそうとそれを引き受ける。そのブラックシアがへレンに、いかにも唐突に、愛を告白する場面である。かたくななへレンの心を解きほぐすために差し出された「愛」という言葉。ここでも、その言葉の唐突さは、読者を不意打ちにする。読者の目の前でゆっくりと育まれるのではなく、突然ふってわいたように起こるもの、それがミラーの描く愛なのだ。しかし、『狙った獣』では「マガウニーの奇蹟」とは異なり、愛の奇蹟は起こらない。なぜなら、ブラックシアの孤独感より、ヘレンの孤独感がはるかに底の深いものだったからだ。学んだことを忘れられないヘレンは、ブラックシアの愛の力をもってしても救われない。彼の愛の言葉も、最終的にはヘレンの心につきまとう有象無象の声のひとつに埋没してしまう。それが『狙った獣』の究極的な悲劇性なのである。あの有名なエンディングで流される「二度と結び合わされることのない、無限に続く鮮やかなリボンのように」美しい血は、この二人の悲劇的な愛の象徴として読まれるべきだろう。

 『心憑かれて』(一九六四)で、少女に猥褻行為をはたらいたという過去の罪の幻影に悩まされるチャーリーと、その彼を愛の力で支えようとするルイーズとの関係は、『狙った獣』におけるへレンとブラックシアの関係を男女反対にしたものと考えられる。ルイーズの献身的な努力にもかかわらず、チャーリーは心の中に聞こえるさまざまな声から最終的に解放されはしない。これはまさしく『狙った獣』の変奏なのである。

 あるいは『見知らぬ者の墓』(一九六〇)を思い出してみようか。私立探偵ピニャータはヒロインのデイジーに突然愛を告白し、彼女から愛の返事を受け取る。すべてはうまくいくようにその瞬間には思えるのだが、そうした明るい未来はこの小説の結末ではけっして保証されない。ほとんどのミラー作品ではハッピー・エンドが禁じられているのであり、むしろ、二人の将来には暗い運命の影がさしている。なぜなら、ピニャータはメキシコ人の混血であり、この二人の関係は呪われた血の絆の再現だからだ。『見知らぬ者の墓』が読者に震憾を与える理由はそこにある。

 「トム、わたしにあの言葉をいってくれないの?」

 「いつものやつかい? 愛してるよ」

 「わたしも愛してるわ……」

 さて、愛の悲劇に色濃く染められたミラー作品を読みすぎた読者には、『ミランダ殺し』(一九七九)に狂言回し役として現れる新米弁護土トム・アラゴンとその妻ローリーとの電話での会話は、なんとものどかなやりとりに聞こえるのではないだろうか。前作の『明日訪ねてくるがいい』(一九七六)と同様、ローリーはこうして電話でちょうど二度登場するだけであり、二人の会話は文字どおり甘い。おそらくミラーの全作品中で、これほど「愛してる」という言葉が手軽に安売りされる例はないだろう。それは心なごむというよりは、余りにも幼い愛だという印象すら与えかねない。その印象は、『明日訪ねてくるがいい』と『ミランダ殺し』では、三年の経過があるにもかかわらずまったく変化しない。つまり、アラゴンは成長していないのだ。

 若返ろうと無駄な努力をする中年女性ミランダが、若い男グレイディーと失踪した時点で、読者はふたつの予想を立てる。第一に、失踪人がなかなか発見されないこと(これはミラー作品の典型的ななプロットなのだ)。そして第二に、ミランダが殺されていること(なにしろ、題名が『ミランダ殺し』なのだから)。ところが、この予想はみごとに裏切られる。アラゴンは簡単に二人を発見してしまうし、ミランダはちやんと生きているのだ。読者はまるでミラーにはぐらかされたような印象を受け、これはプロットの本筋には無関係な、単なる引き延ばし作戦ではないだろうかと疑問を持つ。実を言えば、それはそのとおりなのだ。ミランダが時間を遅らせようとしているように、作者のミラーは明らかにわざと何かを遅らせているのである。

 「私は時間を買って、少しでもそれを遅らせようとしているんです」

 「時間を使うことはあっても、買うことはできませんよ」

 「あなたにはおわかりにならないんだわ。グレイディーは私を愛し始めているんです。本当に愛してくれているのよ。彼には私が必要なんです。人が誰かを必要とするってことは、その人を愛しているということじゃありませんか?」

 「たしかにぼくは妻を必要としているかもしれませんが、必要という点じゃ、ぼくの車の整備工だって同じことです。だからといってぼくが彼を愛してるわけじゃありません」

 無一文になったという知らせをアラゴンから聞かされて、すべてを失ったミランダがすがれるものはただひとつ、グレイディーとの愛の可能性しかない。ミランダが初めて「愛」という言葉を口にするのはそのときである。自分自身を信じこませるために口にした幻想とはいえ、それにはミランダの捨て身の思いがこめられている。ところが、そのミランダに対して、アラゴンはいつもの洒落た調子でしか反応できない。彼はたしかに「わかっていない」し、また「わかろうともしない」のである。『明日訪ねてくるがいい』で、彼は愛がいかに残酷な復讐を遂げるかを学んだはずではなかったか。前作ではとりあえず物語の中心として動きまわり、「利用される人物」という皮肉な役割を演じていたアラゴンだったが、『ミランダ殺し』では情報を仲介しているだけで、ミラーが得意とする枝法である複数視点人物のうちの一人にすぎなくなってしまう。グレイディーにとっては波のひとつひとつは異なってみえるが、アラゴンにとってはどんな波も同じに見える。ローリーとの愛の生活がそうであるように、彼はどこまでも几庸で無色透明なのである。

 ミランダはほとんど見苦しいまでの愛の幻想に生きようとする。グレイディーに愛されているという錯覚はもとより、グレイディーを愛しているという思いすら幻想にすぎない。しかしそれは、ミランダにとって唯一の生きがいなのである。その幻想の対象であるグレイディー自身は、もともと誰も愛せないし、愛されることは束縛だと考える男である。人生という波が次々と打ち寄せてくるのにまかせて、その波に乗っていくのが彼の生き方だ。ミランダをはじめとして、エレン、さらにフレデリックと、彼にさまざまな形で思いを寄せる人間たちがはりめぐらせる束縛の網を、彼はたやすく破って逃れていく。この点で、グレイディーは『ミランダ殺し』においてもっとも現実感のある登場人物だと言える。

 「だが、あなたのおかげでわたしは生きていてよかったと思いましたよ」

  ……

 「実際、あなたが来てくださったことは、ここ数年来、わが家に起きた最高のできごとですよ。われわれはみなあなたに感謝しています。どうか出ていくなどといわないでください」

  ……

 「いつも彼のことを無視していた頃に比べれば格段の進歩ですよ。だがあなたにいてほしいとお願いするのは、必ずしも娘たちのためだけではありません。実に利己的な理由ではありますが――その、あなたに来ていただいて、わたしがどんなに幸せかあなたもきっとお気づきになっていると思いますが」

 誰からも嫌がられ、そしておそらくは読者からも愛想をつかされるミランダ。その彼女を愛するただひとりの人物が、こうした遠回しな愛情表現を使うヤング准将である。彼は徹底して深みを欠く、いかにも小説に出てきそうな紋切型の登場人物であり、そのキャラクターにふさわしく、ミランダに愛を告白するときにもこのように紋切型の表現しか使えない。ミラーはこの紋切型の愛の言葉を意地悪く逆手にとって、准将を罰してみせる。すなわち、この言葉を盗み聞きしていたジュリエットが、「あなたに来ていただいて幸せ」という部分を「あなたにいただいて幸せ」と聞きまちがえたために、愛の言葉であったはずのものが将釆ミランダを陥れる言葉へと変質させられてしまうのだ。

 ミランダは愛の幻想に溺れたせいで、ちょうど自ら墓穴を掘る形で、ミラーが用意周到にはりめぐらせた蜘蛛の巣にからめとられて、ひたすら破局へと落ちていく(ミラーの最新作『蜘蛛の巣』(一九八六〉は、法廷ミステリの形式をとりながら、グレイディー的な人生観を持った被告が他人の勝手な思惑の網にからめとられていく物語である)。uそそれまで物語展開の予想をことごとく裏切られ、ミステリなのになかなか殺人が起こらずいらいらしてきた読者は、小説の終わりが近づくにつれてようやくミラーの意図を察知することだろう。それはすなわち、題名にあるごとく、作者によって、その実行がわざと遅延されつづけてきた、「ミランダを殺す」ことである(「ミランダを殺す」のか、それとも「ミランダが殺す」のか、このふたつの解釈の可能性が『ミランダ殺し』の原題 The Murder of Miranda には含まれている。これはミステリ愛読者なら先刻御承知の、リチャード・ハル『伯母殺し』と同様の趣向だ)。ここでは登場人物のほぼ全員がそれに手を貸している。ミランダを愛する准将ですら、すでに見たように、誤解される発言を提供することでミランダの有罪判決に参与している。作者のミラーはもちろん、読者のわたしたちもこの「ミランダ殺し」にある意味で加担する。しかし、最後に手を下す者は――それは、ミラーの十八番の手法で、結末の一行で明らかにされるのだ。

(初出『ミランダ殺し』文庫解説より)
upload 97/12/6


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