26 Gerald Kersh, Night and the City, 1938
野獣の街
ある小説家とのつきあいは、ちょうど人とのつきあいに似て、ある時期はごぶさたしていたかと思うと、またふとしたことで巡り会ったりする。その気まぐれな関係が、小説読みにとってはとても大切なことだ。
ジェラルド・カーシュのとの出会いは、もう二十年前くらいの昔にさかのぼる。「奇想天外」という海外小説紹介誌(この雑誌はいったん休刊になり、その後しばらくして復刊されたが、わたしが愛読していたのはその初代「奇想天外」誌である)で、ジェラルド・カーシュ特集が組まれたことがあり、たしか小鷹信光氏が翻訳・解説をされていたような記憶がある。実は、そのときに読んだはずのカーシュの短篇数作(「骨なし男」も入っていたのではなかったか)については、ほとんど何も印象が残っていない。とにかく、カーシュといういわゆる異色作家がいるんだなという情報だけを仕入れて、そのまま二十年近くが経過した。
カーシュに再会したのは、まったくの偶然だ。ロンドンの本屋でたまたま見かけたのが、Paperbacks, Pulps & Comicsという、イギリスで出ているペーパーバック・コレクター向けの専門誌。この雑誌が今でも続いているのかどうかは知らないが、とにかくその一九九三年の号(この雑誌はかなりいい加減で、タイトルも載っている場所によってまちまちだし、通巻第何号かもさっぱりわからない)に、ポール・ダンカンというコレクターがカーシュの紹介記事を書いているのを見つけたのである。そこで彼はかなりの数にのぼるカーシュの長篇や短篇集をひとつひとつこまめに紹介しているのだが、それを眺めていると、カーシュがソーホーを中心とする界隈を舞台にした小説を数多く書いていたり、戦争体験物も相当数あることなどを初めて知った。伝記的な事実としておもしろかったのは、カーシュは一九一一年にイギリスで生まれたことになっているが、一九〇九年生まれだとかロシア生まれだとかいう説もあること。それに、二歳の頃重病にかかり、母親が十日間つききりで看病した甲斐もなく心臓の鼓動が停止して医師が死亡を宣告したが、そのときカーシュがむっくり起きあがってものすごい叫び声をあげたという話もあること。さらには八歳のときに小説を書き始め、それを一部限定版で出したこと。カーシュという作家は、こういったいかにも嘘か真実かわからないような伝説に包まれた男なのだそうな。それでわたしの興味に火がついて、さっそくロンドンの古本屋でカーシュを買い漁ったような次第である。
カーシュはおびただしい数の短篇を書いた作家として知られているが、それでは二〇作中で、最もポピュラーな作品は何か。それはおそらく、一九五○年にジュールズ・ダッシン監督が撮り、リチャード・ウィドマークとジーン・ティアニーが主演したフィルム・ノワール『街の野獣』の原作『夜と街』(Night and the City,1938)だろう。この小説はよほど映画向きなのか、それとも運がいいのか、比較的最近にロバート・デ・ニーロとジェシカ・ラングが出た『ナイト・アンド・ザ・シティ』(アーウィン・ウィンクラー監督、一九九二年)として再映画化されている。これは一般的にはカーシュの最高傑作ではないという評価がされているが、カーシュの小説はどれを読んでもカーシュ独特の味がするということがあり、今回はこの作品を紹介しておく。似た作家を一人挙げるとすれば、わたしは躊躇なくO・へンリーを選ぶだろう。都会の下町に往む名もない人々を描くのを得意としていたし、カーシュも基本的にはO・へンリーと同じタイプの短篇作家だからである。そのために、カーシュの長篇は骨太なプロットでぐいぐい押していくというよりは、短篇向きの人物ポートレイトや寄せ集めになっており、『夜と街』もその例外ではない。
一応の主人公役は、ロンドンのシティと呼ばれる中心部で棲息するハリー・ファビアンという男。彼は娼婦のヒモになってなんとか生活してはいるが、普段はすぐにそれとわかる大嘘をつきながら極楽トンボの暮らしをしている。その彼が、レスリング興業のプロモーターとして大儲けしようという名案を思いついた。グレコ・ローマン式のレスリングではなく、血が流れる喧嘩としてのレスリングである(映画版のリメイクではこれがボクシングという設定に変わっている)。ファビアンはさっそくこの案をヤミ取引師のフィグラーに持ちかけるが、一○○ポンド出せば考えてもよいとあしらわれ、その大金をなんとか工面しようと悩むところから小説は動き出す。
『夜と街』は、このファビアンとレスリング興業の話を中心にして、その周囲に群がる種々雑多な人々の物語を取り込み、長篇小説として読めば散漫な印象は免れない。しかしそれはもともとカーシュの持ち味でもあり、題名にあるとおりこの小説はファビアンだけの物語ではなく、まさしく「夜」と「街」こそが主人公と呼ぶべき物語なのだ。この小説は社会の底辺にいる人間たちの人いきれでむせかえっており、それを「夜」の「街」はあたかも生き物のように呼吸している。ファビアンをはじめとする登場人物たちの生きるためのあがきは、すべて街の喧噪の中に飲み込まれて消えていく。そこでは野良猫たちも車も、いわばつねに発情していて、たとえば「ルパート通りでは、ボネットをバンパーに突っ込みながら、震える車の列が信号の変わるのを待っていた。ゆらゆらした真っ赤なネオンサインの灯の下で、クライスラーがオースティンに鼻ずらをすりつけ、モリスがフォードの尻の匂いを嗅ぎ、まるで蒸し暑い春の夜が悪夢を見ているような機械たちの交尾期をもたらしたかのようだった」といった文章に出会うのが、カーシュを読む醍醐味だと言ってもかまわないだろう。カーシュは取るに足らない短篇も多いことを認めたうえで、それでもわたしにとってはなぜか妙に心を惹かれる作家なのである。