TWICE TOLD TALES

Book Review Archive

若島正


3 Daphne Du Maurier, Rebecca, etc., 1938.


秘密の家


 ダフネ・デュ・モーリアは、評価のむつかしい作家である。

 彼女が論じられることが少ないとすれば、それにはいくつかの理由が挙げられるだろう。まず、流行小説家ジョージ・デュ・モーリアの娘として、いわゆる親の七光りではないかという疑問がある。さらに、代表作の『レベッカ』(一九三八)が当時大ベストセラーになったことはたしかだが、その設定はあまりにもシャーロット・ブロンテの名作『ジェイン・エア』に似ており(この影響関係はデュ・モーリア自身も認めている)、典型的なゴシック・ロマンスとして読めてしまうこと。しかも、彼女の名前が今日でも記憶されていることがあるとしたら、それはヒッチコックが撮った傑作『レベッカ』と『鳥』の二本に多くを負っていると思われること。物語の展開が緩慢で、読み通すのが苦痛な作品が数多いこと。要するに、通俗的なロマンス作家の域を出ないと、一般には考えられているのではないか。

 そうした否定的な評価はさておき、この「タイム・マシン文学史」で彼女を取り上げるのには、それなりの正当な理由が存在する。タイム・トラヴェルという主題を直接に扱った作品を、彼女は少なくとも二つ書いているからである。一つは、新しい薬品の実験台となって十四世紀の世界に旅立った男の物語である長編『ストランド通りの家』(一九六九)で、もう一つは、事故死する瞬間に未来にタイム・スリップしてしまう女性の体験を描いた最晩年の中編「一瞬のうちに」(『ランデヴー』所収、一九八〇)である。ただ、本稿の目的は、その二編を分析することにあるのではない。むしろ、タイム・トラヴェルという概念がデュ・モーリアにおいていかに彼女の深層に根ざし、それが独特の形で表現されているかを、代表作『レベッカ』を通して見ることにある。言い換えれば、『レベッカ』を通常のゴシック・ロマンスの文脈に置くのではなく、タイム・マシン文学史の文脈に照らしてみるのである。そのときに、『レベッカ』とは何の物語か、あるいは<レベッカ>とは何者かが、初めて浮かび上がってくるだろう。

●レベッカからマンダレーへ

 最初に、『レベッカ』のあらすじを復習のために要約してみよう。若いヒロインが、南仏の避暑地でマキシム・ド・ウィンターという中年男性と恋に落ち、結婚して彼の所有するマンダレーという屋敷に赴く。そこには亡くなった先妻のレベッカの面影がたえずつきまとい、ヒロインはなにかにつけレベッカと比較されるという苦難を体験する。マキシムがレベッカを殺したのではないかという嫌疑が晴れることで危機は去り、最後にはマンダレーが炎上して、ヒロインは夫の愛を獲得する……。

 わたしたちが『レベッカ』のあらすじとして記憶しているのは、おそらくこんなものだろう。少なくとも、ヒッチコックの『レベッカ』はこの線に沿って作られていることはまちがいない。しかし、原作の『レベッカ』は、そうした要約とは微妙にくいちがう要素を含んでいる。不在の先妻に対する嫉妬というモチーフは、たしかにデュ・モーリアの創作意図の一つではあったのだが、まだそれだけでは割り切れないものがあるのだ。

 先の要約で、まず問題になるのは、ヒロイン(小説では語り手)とマキシムとの出会いである。はたして語り手は、ただ単になんの理由もなく、マキシムに激しい恋をしたのだろうか? 実は、それが違うのだ。語り手は、マキシムに会うはるか前に、マンダレーの屋敷と出会っている。

ふと私は、子供の頃、西に旅行したときにある村の店で買った絵はがきを思い出した。それはあるお屋敷の絵で、色彩もけばけばしい粗末なものだったが、それでも館の美し い対称形や、テラスの前の広い石の階段や、はるかに海につづく緑の芝生は見紛いようもな かった。私は一週間分のおこづかいである二ペンスを払い、しわだらけの店のおばさんに、ここはいったいどこなのと訊ねた。するとおばさんは、そんなことも知らないのかとびっくりした顔つきで、「マンダレーだよ」と言った。 (第4章)

つまり、語り手はマキシムではなく、マンダレーに、そしてマンダレーにまつわる神話に、恋をしていたのだ。意地悪な言い方をすれば、マキシムと結婚することは、マンダレーを手に入れるための手段にすぎなかった。その証拠に、心ひそかに憧れていたマンダレーに着いてから、語り手はこう述懐する。

私が今坐っているこの深い椅子も、天井までとどくほどたくさんの書物も、壁に掛かっている絵も、庭も、森も、昔に本で読んだマンダレーのすべてが、いま私のものなのだ。私はマキシムと結婚したのだから。(第7章)

 こう読んでくるとき、映画ではジョーン・フォンテーンが演じているヒロインが、名前を持たないという奇妙な設定も納得されよう(実際、マキシムが彼女の名を呼ばないのは、かなり不自然で作為的な作り方である)。それは、レベッカという名前でもっぱら呼ばれる先妻と対比して、名前を持たない語り手が劣勢に立たされているという心理的な意味合いだけではない。語り手が「ド・ウィンター夫人」としか呼ばれないこと、あるいは彼女が「ド・ウィンター夫人」と家名を冠して呼ばれるようになること、それこそが大切なのだ。(『レベッカ』の続編をデュ・モーリアに代わって書いた現代作家のスーザン・ヒルは、その作品を『ド・ウィンター夫人』と名付けた。)

 ド・ウィンター夫人と呼びうるかぎりにおいて、語り手とレベッカに違いはない。すなわち、語り手とレベッカは鏡像関係にある。マキシムの愛をめぐるこの二人の争いは、生身の女どうしの戦いとして描かれるのではなく、語り手の心理内の葛藤として内化されているのにも注意しておこう。こうした二人の関係をよく表すのが、マンダレーで催される仮装舞踏会のエピソードである。語り手は召使のダンヴァース夫人の勧めに従って、マキシムの曾祖父の妹であるカロライン・ド・ウィンターの肖像画そっくりの衣装をつけて出ていくが、マキシムの激怒を買ってしまう。それは、レベッカもかつて仮装舞踏会で同じ衣装を着て登場したことがあったからだ。つまり、語り手がレベッカを反復するだけではなく、そのレベッカも同じようにカロラインを反復していたわけだ。こうして、語り手のアイデンティティは、レベッカへ、さらにはマンダレーの屋敷に過去代々暮らしていた数知れない女たちへと分散し融解して、歴史をさかのぼる。

 『レベッカ』がタイム・マシン文学史の文脈でとらえられるのは、この瞬間である。アイデンティティの分解あるいは融合、歴史への遡行は、いずれもタイム・マシン小説の紋章ではなかったか。そして、『レベッカ』におけるタイム・マシンの役割をはたす装置は、マンダレーという家に他ならない。<レベッカ>という名前も、この小説の真のヒロインである<マンダレー>に与えられた別称にすぎない。たとえ持ち主が次々に変わろうとも、家だけは変わることなくそこに立って、歴史を保存し記憶したまま眠っているのだ。

●マンダレーからメナビリーへ

 デュ・モーリアが『レベッカ』の発想のもとになる館を初めて見たのは、一九二六年、彼女が十八歳のときである。その年、かつて舞台女優をしていた母ミュリエルは、イングランドの最西部であるコーンウォール州のボディニックという丘に家を買った。次女のダフネは、そこから見晴らせるフォイという地方の歴史に夢中になり、そこの由緒正しい貴族であるラシュリー家が、森の奥にあるメナビリーという屋敷に住んでいることをガイドブックで知った。チューダー朝に建てられた当時のメナビリーは清教徒革命ですっかり姿を消しているが、王政復古の時代に再建されたものはまだその一部分が残っているという。現在の当主はほとんどそこに姿を見せず、館は荒れ放題になっているらしい。そこでダフネは、姉のアンジェラと一緒に、その屋敷を探しに森の中に入ってみることにした。月光の中でメナビリーを探しながら、鬱蒼として延々とつづく車道を歩いたときのことを、彼女は自伝的エッセイ「秘密の家」(一九四六)でこう書いている。

その車道は私たち二人には初めてで、領地にはまだ誰も足を踏み入れていないかのような魔法めいたところがあった。私は北極のアムンゼンだった。メキシコのコルテスだった。いやあるいは、そんなものではなく、ただの時間侵入者だったのかもしれない。森はいま眠っているが、昔そこを誰が通ったのだろうか、と私は思いをめぐらした。馬の蹄が音をたてては消えていく。馬車の車輪が回転しては去っていく。ダブレットとタイツ。ブーツにジャーキン。つけぼくろにおしろい。ストックにエナメル革。クリノリンにボンネット。

時代の変遷を表す衣装をつけた男女が、まるで走馬燈を見るようにデュ・モーリアの目の前を通り過ぎていくという、幻想的なタイム・トラヴェルの一節だが、こうして歴史を秘めたまま眠りについている家に、「時間侵入者」として立ち入ることが、『レベッカ』の基本的なモチーフとなったことは言うまでもない。初めて車道に入ったダフネは、そのときにはアンジェラが恐がったので引き返したものの、別の日に今度は一人でマンダレー探索にのりだし、『レベッカ』にも描かれた鮮血のように深紅のシャクナゲが繁茂する道を越えて、ついに憧れの館を目にする。そのマンダレーは、スフィンクスのように謎めいた家だった。しかし、コーンウォールでの滞在も終わるときが来て、ロンドンに帰る日に、彼女は日記にこう書きつけている。「メナビリー……。私の望みは、フォイにいることだけ。他のなにも、他の誰もいらない。今は、これこそ私の命なのだ。」

 一九三七年、軍人の夫に付き添ってエジプトのアレキサンドリアに駐在していたときに、その熱気の中でメナビリーへの渇望が湧きだし、彼女は『レベッカ』の執筆にとりかかる。メナビリーはマンダレーと名前を変えるが、その二つに共通するMの頭文字は彼女のイニシャルでもあり、そこに彼女は自分とメナビリーとを結ぶ象徴的な絆を感じとっていたはずだ。メナビリーと一体化したいという夢想は、そのうち幸運にも叶えられることになる。『レベッカ』が大成功をおさめた後、一九四三年に、メナビリーの持ち主であるジョン・ラシュリーが、その館を賃貸に出していた。デュ・モーリアはその話に飛びつき、家族と共にメナビリーに引っ越して、荒れたままになっていた館を見違えるほどにした。そして彼女は、賃貸期限が切れて一九六九年にキルマースに引っ越すまで、約二十五年間をそこですごした。その間、彼女はメナビリーの歴史を調査して、それを十七世紀に舞台を設定した『最高司令官』(一九四九)という歴史ロマンスの形で小説にした。ここである奇妙なエピソードを記しておこう。デュ・モーリアの次女フラヴィアの回想録によれば、『最高司令官』執筆中に、デュ・モーリアは幻覚体験をした。ある夏の夜、窓から外をながめているときに、馬に乗った軍勢がそばにやってきて館を取り囲む音を聞いたというのだ。そして後で調べてみれば、清教徒革命の当時、王党員たちを追って、クロムウェル派の一団がメナビリーを包囲したことがあったらしい。つまり、デュ・モーリアの著作中に現れるタイム・トラヴェル体験は、けっしてレトリック上の操作ではなく、彼女にとってきわめて肉体的で官能的とも言える実体験だったのだ。

 こうしてデュ・モーリアの実人生を追ってきたわたしたちは、もう一度『レベッカ』に立ち戻る。そう、あの有名な、映画ではジョーン・フォンテーンのヴォイス・オーヴァーによるナレーションが入る、冒頭の場面へと。

昨夜、私はまたマンダレーに行く夢を見た。私は車道につづく鉄門のそばに立っているようだった。しかしそこがふさがっているので、しばらくのあいだ私は中に入れなかった。門には錠がおりて、鍵がかかっていたのだ。私は夢の中で門番を呼んだが、返事はなかった。錆びついた門のすきまから中をのぞいてみると、門番の小屋には誰もいなかった。                          (第1章)

すべての出来事が終わり、マンダレーが炎上してからも、語り手はマンダレーの呪縛から逃れられない。夢の中で、その門には鍵が掛かっているのが実に象徴的だ。たしかに、語り手はこの後で亡霊のようになり、門をくぐり抜けて車道に入っていくのだが、その先に発見するマンダレーは死んだようになっている。結局のところ、『レベッカ』では語り手は最後までマンダレーから拒絶されているのである。語り手が望むマンダレーとの一体化はついに実現しない。マキシムの殺人嫌疑が晴れても、まだ語り手の幻想の中ではあいかわらずレベッカが鏡のむこうからこちらを見ている。小説では、マンダレーに向かう車から血のように真っ赤に染まった空が見える場面で唐突に終わっていて、語り手がマキシムの愛を獲得したかどうかは曖昧模糊としている。つまり、マンダレーは謎を秘めたまま葬られているのだ。

 それでは、マンダレーの謎とは、最終的に何だったのか? それは、レベッカ⇒マンダレー⇒メナビリ−⇒デュ・モーリアという連鎖を追ってきたわたしたちの議論からすれば、作者デュ・モーリア自身の謎に他ならないはずである。そして、それをもう一度レベッカの謎に還元してやったとき、レベッカの愛人であったファヴェルに向かってダンヴァース夫人が言う言葉「奥様は、あなたも、ド・ウィンター様も愛してはいらっしゃいませんでした。誰を愛したこともなく、男はみな軽蔑なさっていました。奥様はそんなことを超越していらっしゃったのです」(第24章)が、レベッカの奥深い真実を明かすものとして衝撃的に聞こえてくる。

 デュ・モーリアの実人生は、華やかなロマンスに満ちていた。若い頃には映画監督のキャロル・リードとも恋をしたし、ハンサムな軍人と結ばれるというロマンティックな経験もした。しかし、家と一体化し、歴史と一体化したいという願望は、そうしたロマンス作家としての虚像からかけ離れるものだった。それは、タイム・マシン文学史の文脈から見れば、もう一人の「私」を探す旅でもあっただろう。デュ・モーリアがユング心理学に関心を持っていたのは、けっして偶然ではない。わたしはそこに、デュ・モーリアの圧倒的な孤独を感じずにはいられない。

(初出『is』〈タイム・マシン文学史〉第4回)
upload 97/10/26

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