TWICE TOLD TALES

Book Review Archive

若島正


5 Barbara Vine, Asta's Book, 1993


行方不明のわたし


 ミステリやSFを英語で読むようになった大学生の頃、わたしは海外の雑誌を購読しはじめた。ミステリは本国版の『AHMM』と『EQMM』、それにSFは『F&SF』である。ペーパーバックの長編を読みながら、一方ではこうした月刊誌に載る短編をほとんど読んでいたわけで、われながらあの頃は本当に暇があったのだなと思う。専門の勉強(実は数学です)はそっちのけで、おそらく一日のうち十時間ほどは小説を読んだり映画を観たりしていた。一つの作品を読み終わると、ABCの三段階で自分なりの評価を書き込んだ。まだ当時は、語学力もたいしたこともなければ小説読者としてもまったくの初心者だったので、なんの話かよくわからない作品が多く、当時のそうした雑誌を今ひっぱりだして眺めてみたら、半数くらいはCがついている。それでも、たくさん読んでいるうちに誰がおもしろいのかはわかってくるので、ご贔屓の作家が何人かできるようになった。

『AHMM』では、独特のユーモアを持つジャック・リッチーやC・B・ギルフォードといった作家たちにひかれた。『EQMM』では、毎号指定席になっているエドワード・D・ホックのいくつかのシリーズ物が退屈きわまりなかったが、他を圧して断然光って見えたのは、怖い女性作家であるパトリシア・ハイスミスとルース・レンデルの二人。近年ハイスミスが続々と翻訳されて、日本でかなりの読者層を獲得したのは、なにしろあの作風だけに驚きだが、昔からのファンとしては嬉しいかぎりだ。

 レンデルの方は、なにしろ現在六十冊を越える量産ぶりとあっては、とてもついていけたものではなく、自慢ではないがウェックスフォード警部物を一冊も読んでいないわたしは早々にレンデルのファンから脱落してしまった。その彼女が、最近ではバーバラ・ヴァイン名義で作品を発表するようになったのは、いったいどういう理由か知らない。レンデルの作品であるのは周知の事実だし、しかもヴァイン本自身にそのことがわざわざ宣伝してあるくらいなのだから、これはかなり奇妙なことだと言わねばならないが、おそらくバーバラ・ヴァインという別名を纏って別の人格になることに意義があるのだろう。この連載では、ミステリ・プロパーの作家は扱わないのが基本方針だが、レンデルではなくヴァインなら取り上げたいとかねてから考えていた。そこへちょうど、ヴァイン名義の六冊目にあたる新作『アスタの日記』(Asta's Book, 1993) が出たのだから、これはまさしく渡りに船。そして、まだ1ページも読まないうちから、きっと傑作にちがいないという勘が働いて、今年度の大学での教科書に選んでしまったほどなのだ。

 物語は、一九〇五年にアスタというデンマーク人の女性が夫と二人の男の子を連れて、ロンドンに移住してくるところから始まる。彼女は妊娠中で、自動車のセールスに夢中になって家をあけることが多い夫ラスムスにはなんの愛情も感じていない。英語があまり話せないために周囲から冷たい目で見られる彼女は、憂鬱を紛らすため、デンマーク語で秘密の日記をつけだす。そして、予定日からかなり遅れた出産の結果、期待どおりに生まれた女児をスワニーと名付けた。

『アスタの日記』は、こうして題名にあるアスタが書き綴った日記が一つの物語の線を形作る。もう一つの線は、それから八十年以上たって、アスタの孫にあたるアン・イーストブルックという女性が語り手になる、アスタの日記をめぐる物語である。この語り手は、アスタがスワニーの次に産んだマリーの娘だった。

 スワニーは両親には似ていない北欧風の美人に育ち、外交官と結婚して幸福な生活を送っていた。そこへ、おまえは両親の子供ではないという文面の、匿名の手紙が届く。この手紙がスワニーを変え、自分は何者かをつきとめることが彼女の生きがいになった。母親のアスタが死んで、遺品を整理していた彼女は、アスタがひそかに書きためた膨大な日記を発見する。スワニーが英訳編集して出版したその日記はベストセラーになり、さらにスワニーの死後、その所有権が語り手のアンに譲られる。そしてアンが日記のオリジナルを調べてみると、一九〇五年のスワニーの出産あたりの部分が、何者かの手によって5ページ破り取られていた……。

 スワニーの出生をめぐる謎に関係してくるのは、ちょうどその当時に起きたローパー事件である(これは英国の裁判史上に残る、有名な実話らしい)。アルフレッド・ローパーという薬剤師が妻を殺害したという嫌疑で起訴されるが、証拠不十分で無罪になった。この事件では、何人もの男性と関係があったという妻のリジー・ローパーが惨殺されただけではなく、一歳になる娘のイーディスが事件当日から行方不明になり、ついにその消息は謎のままに終わった。アスタの日記を読んだスワニーは、そこにローパーへの言及があるところから、最晩年に自分がその行方不明のイーディスではないかという妄想を抱き、分裂症になる。

 スワニーの出生の謎と、ローパー事件の謎。アンは試行錯誤の末に、とうとう二つの謎の真相らしきものにたどりつく。その手がかりがすべてアスタの日記と裁判記録の中に与えられているところが、いかにもミステリ作家のレンデルらしい腕の冴え。レンデル/ヴァインの著作の中でもおそらくいちばん長いこの『アスタの日記』は、きっと彼女の代表作の一つになるだろう。

(初出『ミステリ・マガジン』〈殺しの時間〉より)
upload 97/10/26


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