6 Lionel Davidson, The Rose of Tibet, 1962
巧みな導入
この本に『チベットの薔薇』という題名をつけることを決定したのは、ずいぶん後になってからの話で、それも我々の常務取締役セオドア・リンクス氏の厳命によるものであった。ここで「我々」と書いたのは、編集側を表す用語ではなく、たまたま私がその会社に勤めているからである。私はそこの編集者なのだ。ここやあちこちの出版社に編集者として勤務して、もう八年になる。私の名前はライオネル・デイヴィッドソンという。
こういう絶妙の書き出しでプロローグが始まるのは、もちろん『チベットの薔薇』(The Rose of the Tibet) という題名の小説であり、そして言うまでもなく、作者はライオネル・デイヴィッドソンである。これはデビュー作の『モルダウの黒い流れ』に次いで、デイヴィッドソンが一九六二年に発表した第二作だ。この書き出しの一段落につい釣り込まれて、わたしはこの小説を読み出すことになった。
この出だしのどこが巧いか、わざわざ説明することもないような気がするが、念のために言っておくと、「私の名前はライオネル・デイヴィッドソン」と名乗るところ。これがドキッとする。ドキッとしてから、ニヤリとさせられる。「何を言ってるんだ、作者の名前はライオネル・デイヴィッドソンに決まってるじゃないか」という人は、小説を読んだことがない人だ。『チベットの薔薇』の外にいる作者のライオネル・デイヴィッドソンと、『チベットの薔薇』の中にいる語り手の「ライオネル・デイヴィッドソン」とは、要するに別人である。
この小説の出版元は、老舗のゴランツ社。ということは、一九六二年の時点で、デイヴィッドソンはゴランツ社に勤めていたのか……と早とちりする読者は、おそらくいない(そういう読者は、「ライダー・ハガード風の秘境冒険小説」という惹句が付けられたこの本を、最初から手に取りもしないだろう)。デイヴィッドソンは寡作家であり、どういう経歴の持ち主か情報が不足していて、もしかすると本当に編集者をしていた経験があるのかもしれない。そしてまた、万に一つ、いや億に一つの可能性で、デイヴィッドソンがゴランツ社に勤めていたのが事実であるかもしれない。しかし、事実はどうでもいいことだ。小説を読むときに肝心なのは嘘の方である。デイヴィッドソンは、「私の名前はライオネル・デイヴィッドソン」と本当のことを書きながら、実は同時にぬけぬけと嘘をついている。ここから先は嘘八百の話だぞ、そのつもりで読んでくれよ、と読者にサインを送っている。そのサインを読みとって、こういうユーモアたっぷりの書き出しで始まる小説がおもしろくないわけはない、と反応するのが正しい小説読者というものではないか。そこでわたしは、これだよこれとばかりに、『チベットの薔薇』を読み出したというわけだ。
実際、こちらの予想どおり、プロローグはきわめて快調である。編集者「デイヴィッドソン」が抱えている原稿の中に、ラテン語初級読本がある。著者はオリファント氏といい、かつて女子校でラテン語を教えていたが、今は退職しているという。オリファント氏はラテン語教育の新しい方法を考案し、それを世に問いたいらしい。当然ながら、出版社側としては時代遅れのラテン語初級読本など出す気がなく、書き直しを要求するという遠まわしなやり方でやんわりと断りつづけてきたが、オリファント氏はそのたびに書き直し原稿を送ってきて、それが長いあいだズルズルと引きずられているうちに、担当者のお鉢が「デイヴィッドソン」のところに廻ってきたというのが事の次第である。そこで「デイヴィッドソン」は、ついに出版社側の最終的な意向を申し渡すために、独り暮らしをしているオリファント氏のアパートに赴く。そして老教師から、かつての同僚だとかいうヒューストンのチベット体験記の口述原稿を見せられる。うちでは旅行記物は扱っていないのでと言いながら、「デイヴィッドソン」はその原稿を持って帰るのだが……。
ここまでがプロローグで、そこからいよいよ話の本体である秘境冒険譚が開始されることになる。実に巧みな導入だ。しかし、主人公のヒューストンは退屈を持て余した男という設定で、その人物造形に合わせてか、物語は比較的ゆっくりと進む。わたしはその歩みののろさについじれてしまい、全体の三分の一ほど行ったところで、デイヴィッドソンの最新作である Kolymsky Heights (1994) を同時進行で読み出したが、これが正解だった。いや、失敗だったと言うべきか。と言うのも、そちらの方がテンポが早くて、あれよあれよというまに最後まで読み切ってしまい、おかげで『チベットの薔薇』の方は途中停車したままになってしまったからである。
不思議なことに、三十年以上も隔てたこの二作、構成がよく似ている。どちらも、読者を誘い込む巧みなプロローグの後、主人公が奥地に行って帰還する物語に変わるという枠組は同じで、最新作では舞台がシベリアになる。違うのは、『チベットの薔薇』では主人公がうだつのあがらない男であったのに対して、こちらは主人公がやや超人的な英雄である点だ。ここでデイヴィッドソンは相当に派手で単純明快な大逃走活劇を繰り広げてくれるのだが、SF的な展開を期待させるプロローグがわたしにはいちばんおもしろかった。考えてみれば、導入部が巧い作家というものは、得をしているのか損をしているのかわからない。デイヴィッドソンの評価がまだ定まっていないように見えるのも、案外そのあたりに原因の一つがあるのかもしれない。