TWICE TOLD TALES

Book Review Archive

若島正


7 Michael Dibdin, The Dying of the Light, 1993


翻訳 高儀進訳『消えゆく光』ハヤカワ・ミステリ文庫


シリアスな殺人


 ディブディンとしては第八作目に当たり、アウレリオ・ゼン警視シリーズの『ラット・キング』『血と影』『陰謀と死』を除く単発物としては第五作目になるこの『消えゆく光』(The Dying of the Light )が出版された一九九三年に、ディブディンはもうひとつの仕事をしている。それは、ピカドール社から出たアンソロジー『ピカドール版犯罪文学選』(The Picador Book of Crime Writing )の編者を務めたことである。これは、犯罪小説の傑作短編を集めたような、ありきたりのアンソロジーではない。総数にしてのべ七十三人の作家から八十三編の断片(その多くは長編の抜粋である)を収録し、それを五部に分け、それぞれの頭にディブディン自身の解説を加えた、きわめて個性的な選集であり、ほとんどディブディンの犯罪小説というジャンルに対するマニフェストとでも呼べるものになっている。収録されている作家の顔ぶれも、ハメット、チャンドラー、シムノン、レナード、P・D・ジェイムズ、ハイスミスといったミステリ愛好家にはおなじみの名前もあるにはあるが、むしろここで目立つのは、チェーホフ、ゾラ、カフカ、フォークナー、ロブ=グリエ、T・S・エリオット、ジョイス(なんと『フィネガンズ・ウェイク』からの抜粋!)、ブレヒト、クノー、サルトル、ジイド、ワイルド、ヘミングウェイといった大物文学者たちで、さらにはグラムシ、S・J・ペレルマン、ノースロップ・フライまで登場する。これはどう見たところで、『タイムズ文芸付録』の書評子が言うように、「ミステリで眠れない夜を過ごす愛好家向きの本ではない」ことはたしかだ。

 その第一部は、「シリアス・ビジネス」と題されていて、同名のタイトルでディブディンは解説をこう書き出す。

  「妻を殺そうと決意してから数週間たって、ようやくビクリー博士はそれを実行の段階に移した。殺人は大事なのだ。」この『殺意』の書き出しは、おそらく犯罪小説の中でもっとも有名なものだろうが、「犯罪小説は、世界と同じように、英国によって支配されている」とブレヒトが書いたような時代にどんな効果を持ったか、それをいま再現するのは難しい。一九三一年には、フーダニットは大英帝国と同様に絶対的で、永遠につづく現実のように思われていたが、この冒頭でフランシス・アイルズは、犯罪小説家の専売特許であったはずのものを暴露してみせたのである。

  「探偵小説では何事も起こってはならない」と書いたのはT・S・エリオットである。「犯罪はすでに行われ、残りの物語は、証拠の収集、選択、結合から成る。」この規則に抵触する小説は、V・S・プリチェットの言葉を借りれば「あくびがでるほどの俗物根性にみちた芸術至上主義的作品」としてのその気高い身分を失い、植民地住民や召使階級が読むようなただのスリラーにまで堕落する危険性をおかすことになる。アイルズはこの論理を逆転させた。殺人そのもの(その準備、実行、余波)を小説の中心に据えることで、彼はいつの時代にも読まれる古典を作り上げただけでなく、犯罪文学そのものをふたたび「大事」にしたのだ。

 また全体の序文の中では、ディブディンは「読者や批評家(それに出版社)が、いわゆる黄金時代のフーダニットの安易な技巧に魅了されている時代にあって、犯罪小説のもうひとつの伝統を守ろうとした英国作家たち」に積極的に肩入れして、このアンソロジーを編んだのだとも書いている。ここまでくれば、ディブディンの意図は明瞭すぎるほど明瞭である。この見解は、チャンドラーのフーダニット批判や、ジュリアン・シモンズが名著『血染めの殺人』で述べた探偵小説から犯罪小説へというミステリ史観ともぴったり重なっている。(事実、チャンドラーはこのアンソロジーで三編も収録されているのだし、全八十三編の先頭にくるのはシモンズの長編『自分を殺した男』の抜粋である。)さらにだめ押しで、全体の扉辞として引用されているのは、殺人そのものを芸術の対象として見ようとしたトマス・ド・クィンシーの古典的エッセイ「殺人芸術」からの抜粋なのだから、ディブディンはどこまでも犯罪小説に対して真剣で、つまり「シリアス」なのだ。

 このディブディンの真剣さから考えれば、『消えゆく光』を読みだした読者には、その「軽さ」は一見すると奇異に映る。カントリー・ハウスならぬ養老院で、ありもしない殺人の妄想をくりひろげて探偵ごっこにふける老嬢二人。これははたして、ミステリの黄金時代を象徴するカントリー・ハウス物のパロディだろうか? つねに過去の名作をネタにしてその書き直しをする英国の女流作家エマ・テナントが『最後のカントリー・ハウス殺人事件』(一九七四)であざとくやってみせたようなことを、ディブディンはここでやろうとしているのだろうか? それとも、英国小説のひとつの型である「老人小説」にこれは属するのだろうか? ミュリエル・スパークの『死を忘れるな』(一九五九)やウィリアム・トレヴァーの『同窓生』(一九六四)、さらには養老院を舞台にした実験小説であるB・S・ジョンソンの『ハウス・マザー・ノーマル』(一九七一)といった作品群から想起される、グロテスクな老人たちの姿を描くことが狙いなのだろうか? あるいは、現実をまるで探偵小説のように解釈するところからくる、一種のメタ・ミステリ的な趣向が話の中心になるのだろうか? それとも、老嬢たちの妄想は実は真実で、殺人は実際に行われていたのだという、言ってみればありきたりの逆転の仕方になるのだろうか? しかしいずれにしても、長編として短めの分量も考え合わせると、ディブディンには似合わないほど軽いタッチの作品になるのではないか?

 そうした読者の予想は、どれもある程度は当たっている。しかし、それらは全面的な真実ではない。『消えゆく光』をどう読むかという最大の分かれ道は、これを「軽い」と受け取るか「重い」と受け取るかの問題である。もちろんそれは、当然ながら読者個人の嗜好とも関係してくるだろう。ミステリをあくまでもエンターテインメントとして、深夜の楽しみとして読む読者には、おそらく『消えゆく光』は軽い作品としてそれなりに楽しめるはずだ。そして、そういう読者の数の方がおそらく圧倒的に多いだろう。それは充分に承知して、たしかにディブディンは意識的に軽く書いていることを認めたうえで、あえてわたしはこの小説の「重さ」を強調したい。そう、ここでもディブディンの意図はきわめてシリアスなのである。

 ローズマリーを主な視点人物として描かれた第一部を読むと、読者はドロシーを相手にして殺人事件の妄想にふける彼女の姿に苦笑する。そして、彼女の視点がいかに歪んでいるかを知って、ただの頭のいかれた婆さんにすぎないと一笑に付すかもしれない。しかし、ローズマリーとドロシーにとって、探偵ごっこは遊びではない。間近に迫った死を前にして、それを一瞬でも忘れるための、まったく切実な現実逃避なのだ。それを誰が責められるだろうか。それに比べれば、ミステリの黄金時代に登場する探偵たちは、すべて探偵ごっこというゲームを遊んでいるだけにすぎない。彼らの名探偵としての活躍には、ローズマリーとドロシーのような死を前にした切実感がない。つまり、アクチュアルではないのである。この作品をカントリー・ハウス物のグロテスクなパロディとする見方はある程度当たっていよう。しかし、「パロディ」という言葉は、作者の側の遊びを連想させて、この作品には似つかわしくない。それよりむしろ、「クリティーク」という言葉の方がふさわしいだろう。ディブディンはここで、現実性を欠いた紋切り型のフーダニットを批判しているのだ。

 ローズマリーが愚かな老嬢だというわたしたちの思いこみは、ドロシーが死体となって発見され、さらに第二部に入って視点人物がジャーヴィス警部へと移行するあたりから次第に変化する。ジャーヴィスの口癖は「これは探偵小説じゃなくて、実人生なんだ」という台詞だが、彼の言う「実人生」とはどんなものか。彼にとって殺人事件の調査は、さっさと手順どおりに片づけてしまいたい、退屈な日常にすぎない。その退屈さが彼の言う現実の本当の姿なのである。その代わりに、彼にとって真に輝かしいのは、かつての地元サッカー・チームの試合記録であり、事件の調査の合間にジャーヴィスがひたるその記憶は、ローズマリーがひたる殺人事件の妄想とある意味で同質だとも言える。すなわち、現実から目をそらして幻想に逃避する点で、ジャーヴィスとローズマリーは共通している。それは言い換えれば、ジャーヴィスがローズマリーを理解する人物としての資質を持っているということになるだろう。第三部のエンディングでわたしたち読者が目にするのは、そうした二人の触れ合いが実現する場面である。

 「これは探偵小説じゃなくて、実人生なんだ」という台詞は、ミステリを読むときによくお目にかかる言葉である。たとえば、これとほとんど同じ内容の言葉を、クリスティーは『ABC殺人事件』でポワロに言わせている。しかし、読者はその言葉を額面どおりには受け取らない。むしろ、それがまさしく探偵小説であることを知りながら、あたかも現実であるようなふりをすることで、読者はそれがミステリというゲームの規則であることを作者のクリスティーと共に確認するのである。そこで暗黙のうちに強調されるのは、ミステリの遊戯性であり、虚構性である。

 ところが、ジャーヴィスが第三部でこの台詞をふたたび口にするとき、その実質は変化している。殺人事件の謎が明かされる段になって、読者はローズマリーの変貌を目の当たりにするのだが、そうした認識の変化はジャーヴィス警部にも起こっている。彼は「殺人」あるいは「死」というものが、けっして退屈な作業として片づけられるものではない、文字どおり人間の血が流れたアクチュアルなものであることを初めて知る。そのときに、彼には「実人生」がまさしく言葉の実質を伴って迫ってくるだろう。このエンディングで、ローズマリーのみならず、ジャーヴィス警部も静かに変貌を遂げているのだ。

 従って、わたしたちは「これは探偵小説じゃなくて、実人生なんだ」という言葉をそのまま受け取らねばならない。それから考えると、ミステリの約束事や展開についての言説をあちこちに含んではいても、この小説を「メタ・ミステリ」と呼ぶのは誤解を招く言い方だろう。一般的にメタ・ミステリにおいては、ミステリの虚構性が強調される。しかし、ディブディンの戦略は、それとちょうど正反対だ。彼がここで強調するのは、ミステリの現実性である。

 ジャーヴィスとローズマリーに共通理解が生まれる、印象的な幕切れの場面で、ローズマリーにはささやかな「ハッピー・エンド」が与えられる。なるほど、それはジャーヴィス警部の言葉を借りれば「ちょっと不自然」な、すなわちいかにも探偵小説的なハッピー・エンドである。だが、それは本当に幸せな結末なのだろうか? ローズマリーが小説の中の一登場人物にすぎないのなら、物語はここで終わるのだから、たしかにハッピー・エンドに違いない。だが、彼女が生身の人間であるとするなら、この結末の先にはもうすぐ確実に死が待ちうけている。それこそは、彼女を含めわたしたちすべてに共通するエンディングであり、「現実」である。日がかげり、最後に彼女を包む寒さは、そうした避けられない死の訪れを暗示しているだろう。こうしてこの小説は、「軽さ」と「重さ」を、「あたたかさ」と「冷たさ」を共存させながら終わる。ローズマリーに与えられた「ハッピー・エンド」は、まさしく光が消えゆく一瞬の、最後の輝きなのだ。

(初出 ハヤカワ・ミステリ文庫『消えゆく光』解説)
upload 97/10/26


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