TWICE TOLD TALES

Book Review Archive

若島正


7 Colin Dexter, The Riddle of the Third Mile, 1983


Dexterous Dexter――才人デクスター


 ハヤカワ文庫から出ている『ミステリ・ハンドブック』を覗いてみると、「読者が選ぶ海外ミステリ・ベスト一〇〇」で、デクスターの『キドリントンから消えた娘』(一九七六)が第10位、さらに『ウッドストック行最終バス』(一九七五)が14位に入っている。これはちょっとした驚きだった。というのは、わたしもデクスターがデビューした当時にこの二作と『ニコラス・クインの静かな世界』(一九七七)をたて続けに読んで、それからしばらくデクスターとは御無沙汰していたからだ。十年以上たった今、この初期の三作のことは完全に忘れてしまっている。なにしろ二転三転する捜査と論理のアクロバットがデクスターの持ち味であり、読んでいるときですら話の筋が混乱するぐらいだから、それを記憶しているのは至難の技に近い。わたしはどんな殺人事件が起こって犯人は誰だったかという肝心のところにはさほど興味がない不純なミステリ読者なので、そこを引き算してしまうとデクスターの印象は薄かったというのが正直な告白である。

 おそらくは、才人デクスターのことだから、それくらいのことは充分承知していたのだろう。デクスターが化けたと感じられるのは、ゴールド・ダガー賞を受賞した『オックスフォード運河の殺人』(一九八九)からである。この時期から、デクスターは紆余曲折する筋運びに加えて、遊びの精神に満ちあふれる凝った趣向をあれこれと盛りこむようになった。たとえば『オックスフォード運河の殺人』では、ヴィクトリア朝に起こった殺人事件をアームチェア・ディテクティヴならぬベッド・ディテクティヴとなったモースが解決するという歴史ミステリ風の趣向を中心にして、墓碑銘の挿絵を入れたりさまざまなドキュメントをそのまま載せるという視覚上の遊びを取りこんでいる。さらに二度目のゴールド・ダガー受賞作となった最新作の『森を抜ける道』(一九九二)では、ある新聞記事が発端となり、その読者欄での延々たるやりとりが物語の展開を助けるという新手を使っている(この趣向は奇想小説家フラン・オブライエンに前例あり)。英国PBC放送によるシリーズのTV化が好評を博したせいか、すっかりデクスターも大家としての自信をつけたなあと思わせる余裕のある書きぶりで、わたしは初期のデクスターよりも最近のデクスターの方を評価したい。

 さて、この『謎まで三マイル』(一九八三)は、そういう意味ではデクスターのいわば移行期に当たる作品である。ここでは、『オックスフォード運河の殺人』以降の作品に顕著な、引用の織物でテクストを構成するという文学趣味がすでに顔をのぞかせている。各章の頭に短い要約を載せるという手も、昔の英国小説にはよく見られた趣向で、デクスターが典型的な英国小説を志向しだした証拠となるだろう。これに独特のユーモアと、オックスフォード物というサブジャンルを考え合わせてみると、デクスターをマイクル・イネスやエドマンド・クリスピンの系譜に位置づけてみたいような誘惑にかられる。

 この作品でデクスターが意図したのは、「犯人は誰か?」という通常の謎の解決ではなく、「被害者は誰か?」という謎を中心に据えることだったのは明瞭だ。普通ならこの問題設定だけでは長編を支えることは困難なはずだが、そこは才人デクスターの腕の見せどころで、「被害者は誰か?」という謎と「犯人は誰か?」という謎をほとんど互換可能なものにして、複雑な入れ替えパズルをこしらえあげている。実を言うと、その解答はあまりに入り組んだものでありすぎるだけに、逆にまた図式的にすぎるという感も否めないのだが、それがクロスワード・パズル作者としてのデクスターの良くも悪くも特徴だと言ってかまわないだろう。そして、そのクロスワード・パズルやアナグラムといった文字遊びの原理は、デクスターの小説の隅々まで浸透している。

●モースも自分自身の議論の主旨がよくわからなくなったような気がしはじめていた。しかし、とてもありそうにないことでも、あれこれしゃべっていると、平均の法則によって、そのうちのあるものは他のものよりも真実に近いということがわかってくるものだと彼は信じていた。( 頁)

 アナグラムとは、ちょうどバラバラ死体のように断片化された文字の集まりを並べかえる作業である。たとえばO. M. A. Browne-Smith という名前を並べかえてできる文字列を計算してやれば九九七九二〇〇通りある。だからモースが(誤って)発見したように、それがSimon Rowbotham のアナグラムになっているとすれば、これは約一千万分の一という確率の途方もない偶然なのだ。一貫した逆行演繹を基本とする推理小説の論理の枠内に、このような偶然性という一見矛盾する要素を巧みに持ちこんだのがデクスターの新しさだろう。モースは事件の手がかりをまさしく文字記号そのものとして扱う。そしてその文字記号群をアナグラム的に組み合わせ、その混沌の中でクロスワード・パズル愛好家としての直観に従って、それが偶然に意味のある文章を綴る瞬間を待つのである。もちろん、それは必ず真相を開示するわけではないから、モースの発見は大きく的を外れることもしょっちゅうある。(逆に、アナグラムが決定的に謎を解決するのは、『オックスフォード運河の殺人』の結末の一行である。)デクスターの物語がつねに試行錯誤の過程となるのは、こうした理由からだ。

●「彼を見つけました!」

 「だれを?」

 「サイモン・ロウボーサムです。釣り欄を読んでいたら――彼の名前が出ていたんです。先週の日曜日のキングズ・ウイアの大会で二等になったんですよ」

 「そうか」

 「彼はボトリーに住んでいると書いてあります」

 「ボトルに住んでたってかまわん」

 「なんですか?」( 頁)

 O. M. A. Browne-Smith とSimon Rowbotham が完全なアナグラムになっているという大発見が、実はeとoの一字違いだったという錯覚をルイスに指摘されたあとで、モースが自らのアナグラム的推理を自嘲する場面。ここで「ボトリー」(Botley) と「ボトル」(Bootle)という実在のイングランドの地名が、yとoの一字違いのアナグラムになっているところが笑いを誘う。(ただし、Bootleの正確な発音は「ブートル」である。これではなんのことかわからないから、訳者はあえて「ボトル」としたのだろう。デクスターの翻訳の厄介なところだ。)もちろん、こういうモースの自嘲を聞いても、それがなんのことやらルイスには悲しいかな見当がつかない。

●「――まだめずらしい偶然の一致なんて言うなら、今夜うちへ帰ってから、詩篇第四十六章のはじめから四十六番目の単語と、終りから四十六番目の単語をさがして――なにがあるか見てくれ! ことわっとくが、欽定訳だぞ」( 頁)

 驚くべき偶然という趣向は、こういう形でもこっそりと埋めこまれる。モースがここでほのめかす、旧約聖書(これは言うまでもなく、本書のタイトルにも用いられているサブテクストだ)にまつわる謎々の解答は、この小説の中では明らかにされていないから、読者が自分で発見するしかない。そこで「詩篇」第四十六章のはじめと終りを、モースの指定どおりに欽定訳で引用する。

 

God is our refuge and strength, a very present help in trouble. Therefore will not we fear, though the earth be removed, and though the mountains be carried into the midst of the sea; Though the waters thereof roar and be troubled, though the mountains with the swelling thereof. Selah.

  ---

He maketh wars to cease into the end of the earth; he breaketh the bow, and cutteth the in sunder; he burnth the chariot in the fire. Be still, and know that I am God; I will be exalted among the heathen, I will be exalted in the earth. The Lord of hosts is with us; the God of Jacob is our refuge. Selah.

イタリックで示した、はじめから四十六番目の単語shake (「揺れる」)と、終りから十六番目の単語spear (「槍」)を合成してやれば、出てくる言葉はShakespear「シェイクスピア」)である!

 この謎々の答は、小説の中では明示されていないと書いたが、本当を言うとそれは正確ではない。なぜなら、本書ではあちこちにシェイクスピアが透かし模様のように織りこまれているからだ。まず、この謎々を提示したすぐ後で、モースが「シャーロック・ホームズ」と言うべきところを「シャイロック――」と言いまちがえてしまうくだり( 頁)。これはモースの頭の中にまだシェイスクピアが余韻として残っていた証拠であり、しかもバラバラ殺人事件の話に『ヴェニスの商人』のあの人肉裁判のシャイロックが無意識的に連想で結びつけられているのである。さらには、モースの大学時代の恋人ウェンディ・スペンサーのイニシャル「W・S」のモチーフ。このイニシャルからまず連想される人物はと言えば、ウィリアム・シェイクスピアに決まっている。そしてこの「W・S」のモチーフは、最後に「ウィリアム・シュウェンク」( 頁)となって締めくくられるのだ。

●彼は『ウェセックスの丘』の一節を口ずさんだ。「時は傷ついた心をいやす――いまわたしは彼女を忘れることができる」もちろん、それは嘘だった。しかしハーディにとってはそうだったのだ。( 頁)

 欽定訳の旧約聖書で驚くべき発見をした読者は、たとえばモースのウェンディとの苦い思い出を綴ったこういう一節に出会うと、ついついトマス・ハーディの詩『ウェセックスの丘』(一八九六)を参照してみたくなる。そしてそこに次のような行を見つけたときの驚きを、なんと表現したらよいだろう。

 

 In the towns I am tracked by phantoms having weird detective ways ――

 Shadows of beings who fellowed with myself of earlier days:

(町中で私は不気味な探偵のような亡霊たちに追跡される――

 それは昔日の私の仲間だった影たちだ。)

 

 ここでdetective (「探偵」)という言葉が出てくるのは、はたして作者も予期しなかった途方もない偶然なのだろうか?

●「あなたのお名前は?」

 「みんなにはモース――モース警部と呼ばれている」

 「でも、それは苗字でしょう?」

 「そう」

 「クリスチャン・ネームは教えたくないの?」

 「うん」( 頁)

 もう一人のW・S、ウィニフレッド・スチュアートと会う場面(この章は実にうまい)。この小説でもモースの苗字はついに明かされることはないのだが、最新作の『森を抜ける道』では、思わせぶりに「E・モース」とイニシャルだけが彼自身の手によって明かされる。さてそのイニシャルは何の略かというのが謎として残るのだが、わたしはここでまたしても妙な偶然に気づく。この名前に一文字rを追加すると、remorse (「悔恨」)という言葉が浮かびあがるのだ。

(初出 ハヤカワ・ミステリ文庫『謎まで三マイル』解説)
upload 97/10/26


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