1 Barrington J. Bayley, The Rod of Light
哀しいロボット
SFには、「ロボット物」という、おなじみのサブ・ジャンルがある。このサブ・ジャンルに属する作品を読んでいると、わたしはいつも妙な気分になる。
われわれ読者は、ロボットが本当はどういうものだかよくわからないが、とりあえず次のような仮定をして読む。すなわち、ロボットとは「人間によく似ていて、人間のようにふるまうが、人間ではない存在」だと考えるのである。しかし、そうは思っていても、実際のところ読者はロボットをほとんど人間であるかのように読んでしまう。(なにしろ、虚構という同じ土俵の上では、登場人物あるいは登場物として、人間もロボットも大差はないのだから。)わたしが妙な気分になるのはそこだ。つまり、ロボット物のおもしろさは、人間ではないはずのロボットがまるで人間のように愚かな(あるいは立派な)ふるまいをするところにあるが、実はそれは単に人間の物語をロボットの物語に置き換えただけにすぎないのではないだろうか? たとえば、世にも珍妙なロボットたちが登場する、ヘンリー・カットナーの連作短編集、Robot Have No tails(1952)にしたところで、そのユーモアには一度だけ笑えるものの、それ以上のものではない。
その意味では、ロボット物の御大アシモフの作品は、留保条件付きではあるが興味深い。あの名高い「ロボット工学三原則」をこしらえたアシモフの意図は、ロボットをある制約にはめて、ロボットはあくまでもロボットであり、人間とのあいだに確かな一線を引くことにあった。(もちろん、そうは言っても、彼の後期のロボット物では、ロボットが人間にとってかわるのをテーマにした自己矛盾的な作品が見られ、そこでは境界線がぽやけてくる。)しかしアシモフは、ロボット工学三原則の枠内で、いわばそれを公理としてそこからどんな結末が論理的に導かれるかという問題を小説の方法論にしたため、作品そのものがきわめて機械的な印象を残すことになった。つまり、アシモフにとっては皮肉なことに、『わたしはロボット』という連作短編集じたいがまるでロボット的なのである。(そういえば、写真で見るあのアシモフの顔も、なにやらロボットを連想させないだろうか?)
ロボットのロボット性を志向したアシモフとはちょうと正反対に、ロボットの人間性を志向したのが、言うまでもなくディックである。彼の「アンドロイド」物は、人間が人間であるとはどういうことかを映し出す鏡として存在する。主人公が人間かアンドロイドかという謎をめぐってサスペンスたっぷりに展開する名作短編「にせ者」にしたところで、たとえ最後にアンドロイドであるという事実がわかって、体内に埋めこまれた時限爆弾で爆発しようとも、窮地に陥り知恵のかぎりを尽くして英雄的に行動した主人公のふるまいは、読者にとって人間的に見える。そして後期のディックの作品群は、ほとんど息苦しいまでに人間的なのである。
こうして、ロボット物というサブ・ジャンルは、アシモフとディックを両極とするスペクトラムのなかにほぽ収まることになる。ベイリーのこの『ロボットの魂』と『光のロボット』の二作も例外ではない。しかしベイリーは、ロボット性と人間性という両極のあいだで、きわどいバランスを取ろうとした。それは、主人公(あるいは主物公とでも呼ぶべきか?)のロボットであるジャスペロダスの性格づけにある。すなわち、ジャスペロダスは、ロボットでもあり人間でもある。これはたしかに矛盾した設定で、それならロボットであるとはどういうことかという疑問が当然出てくるだろう。ベイリーがきわどい綱渡りをしているのはそこで、これを彼は論理のアクロバットと小説としての巧妙な仕掛けでやってのげる。(事実、読者はベイリーに騙されたという感想を抱いたとしてもおかしくはない。しかし、騙されたっていいではないか。作者の強引なロジックに説得させられてしまうのもまた、小説を読むひとつの快感なのだから。)
ベイリーがここで持ち出すのは、「意識」という哲学上の問題である。人間を人間たらしめている意識を、自分は持っていないのではないか。自分も含めたロボットは、結局のところ無に等しい存在ではないか――こうした実存的懐疑を抱くジャスペロダスというキャラクターの創造は、たしかに目新しく魅力的だ。意識というものは、内側から観察する場合と外側から観察する場合とでは、性格が大きく異なる。内側から観察する場合、たとえばわれわれが自己を内省するとき、われわれが意識を持っていることは自明に映る。それに対して、外側から観察する場合、たとえばわれわれが他者を観察するとき、その対象が意識を持っているかどうかは、その相手の意識のなかにもぐりこむ手段がないかぎり、明らかにならない。これは、小説の言葉に翻訳してやると、視点という問題に関わってくる。
つまり、『ロボットの魂』および『光のロボット』ではジャスペロダスが視点人物もしくは視点ロボットとして設定され、読者は彼の心理あるいは意識のようなものに直接アクセスできる仕組みになっている。そしてそのかぎりでは、すでに述べたように、われわれにとってジャスペロダスは(たとえそれが刷り込みの結果にすぎないという可能性はあるにせよ)意識を持った人間に等しい。いやむしろ、自分がロボットにすぎないのではないかと悩むジャスペロダスは、ふだん自分が人間であることを疑ってみたことのない幸せなわれわれから見れば、人間以上に人間的であると言ってよい。逆に、ジャスペロダスの目によって眺められた他のロボットたちは、それが本書のガーガンのようにジャスペロダスと同様の悩みを抱えるロボットであったとしても、その意識の存在はあやふやなものでしかない。(その意味で、ガーガンがついに意識を獲得する場面は、必ずしも説得力があるとは言えない。)こうした視点の設走からも、この小説世界でジャスペロダスが意識を持つ唯一のロボットであるのは白然ななりゆきなのだ。
しかし、と読者の一人としてわたしは思う。ベイリーが意識というテーマを徹底的に迫求するなら、もう少しジャスペロダスをこの問題で悩ませつづけてもよかったのではないか。『ロボットの魂』の結末で、人間でもあるというジャスペロダスの秘密をああいう形で明かしてしまったのは、いかにももったいなかったのではないか。(『ロボットの魂』を書いた時点で、ベイリーが続編を書く計画をすでに立てていたかどうかは知らないのだが。)
意識を持っていることを知ったジャスペロダスを、この『光のロボット』で待ちうけるのは、人間とロボットのふたつの立場で板ばさみになるという、新たな難問である。もちろん、そのどちらを選んでも、もう片方を裏切るという苦しい選択になることは目に見えている。かつてアシモフは、ロボット物を分類するときに、「哀れを誘うものとしてのロボット」と「人類の脅威としてのロボット」という呼び方を使ったことがあるが、ここでジャスペロダスはそのどちらにも該当する。アイデンティティー探求という重い主題を背負った前作に比べれば、『光のロボット』はなかなか泣けるロボット小説なのだ。
それに加えて、ベイリーはこの小説で光と闇という二項対立を宗教がらみで導入している。これじたいはよくある趣向なのだが、おそらくはゼラズニイの『光の王』を下敷きにしたのではないかという推測をここに記しておきたい。
考えてみれば、ジャンルSFの古典的な代表格と言えるロボット物も、よく種が尽きないものだ。この先には、たとえば、SFやファンタジーの主要テーマをことごとく再考察した、一種のメタSFであるジーン・ウルフの《新しい太陽の苦》で、ロボットがどう扱われているか再読してみるといった課題が、われわれに残されているだろう。