TWICE TOLD TALES

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若島正


10 H. G. Wells, The Time Machine, 1895


最大の幻視作家


 一九九五年。今年は、H・G・ウエルズの『タイム・マシン』が出版されてからちょうど一○○年になる、記念すべき年である。

 もちろん、『タイム・マシン』の出版が即SFというジャンルの成立に結びついたわけではないが、それが大きな礎石の一つになったことは誰しも否定できないだろう。もし仮に『タイム・マシン』が存在しなかったら、われわれが今読んでいるこの『SFマガジン』も存在していなかったかもしれない一一というと、まるで歴史改変テーマの話みたいになってしまうのだが、いやその「歴史改変テーマ」すら存在していなかったかもしれないのだ。従って、一九九五年はわれわれSF読者にとってもまことに慶賀すべき年である。

 そこで、現在のわれわれSF読者が『タイム・マシン』をはじめとするウエルズの著作を読めば、そこからどういう教訓が得られるか、すなわちSFを通して見たウエルズの今日的意義というものをここでは考えてみたい。

 本題に入る前に、まず『タイム・マシン』の成立事情を眺めておこう。『決定版タイム・マシン』The Definitive Time Machine(1987)を編集したハリー・M・ジェダルドの調べによれば、『タイム・マシン』は単行本として出版されるまでに少なくとも五つのヴァージョンがあり、本の形になってからも三つのヴァージョンがある。小説家へンリー.ジェイムズとの有名な論争に見られるように、精緻な文章を書くタイプの小説家ではないことを自らも認めていたウエルズではあるが、こと『タイム・マシン』に限って言うなら、八つのヴァージョンがあるほどに何度も何度も推敲を重ねているところからも、この作品がどれほどウエルズにとって意味のあるものかがわかるだろう。我が国で出ている翻訳を見てもそれは一目瞭然で、岩波文庫版(『タイム・マシン他九篇』所収、橋本槙矩訳)では一六章から成るのに対して、創元推理文庫版(『ウェルズSF傑作集1』所収、阿部知二訳)では一二章から成る。これは、前者が英国での初版になった一八九五年のハイネマン版を底本にしているのに対して、後者が一九二四年のアトランティック版によるウエルズ著作集第一巻を使っているためである。この両者は、それぞれ第七および第八のヴァージョンに相当する。(実は、単行本として出たのは、第六のヴァージョンであるアメリカのホルト社の版の方が、イギリスのハイネマン社の版よりほんの少しだけ発行日が早い。)なお、一般に流布している『タイム・マシン』はほとんどハイネマン版を使用しているが、ジェダルドは決定版としてアトランティック版を選んでいる。

 ウエルズが『タイム・マシン』の原型となる中篇「時間飛行士」The Chronic Argonautsを<サイエンス・スクールズ・ジャーナル>誌に三回にわたって連載したのは、一八八八年のことであり、これがいわば最初のヴァージョンということになる。ウエルズ自身の『自伝の試み』Experiment in Autobiography(1934)にある記述によれば、それはナサニエル・ホーソーン流のロマンスの影響を強く受けたものであった。「その物語は不器用で、内容には無関係なわざとらしさにあふれていた。たとえば、時間旅行者はネボジプフェルと呼ばれる人物だが、未来史とネボ山のあいだには明白になんの縁もない。前途には約束の地なんてないのだから。それに、このネボジプフェル博士に対する、迷信深いウェールズの村人たちの敵意についてあれこれと書かれているが、これも明らかにホーソーンの『緋文字』から拝借したものだった。……私は二一歳を過ぎたばかりで、まだまだ作家として駆け出しだった。私はまだ文章も物語もまるでへたくそにいじりまわしていた。もし二一歳の若者が、今『時間飛行士』のような物語の原稿を持って、私のところに助言を求めに来たとしたら、私は書くことを続けたまえと励ます気にはなれないだろう」

 『タイム・マシン』の誕生に決定的な転機となったのは、一八九四年のはじめに、当時<ナショナル・オブザーヴァー>誌の編集長をしていたウィリアム・アーネスト・へンリ一と出会ったことである。この編集長に寄稿を依頼されたとき、ウエルズは「時間飛行士」の大幅な改稿にとりかかる。これが第四のヴァージョンである。(それまでにウエルズは二度の書き直しをしたことが確認されているが、その草稿はいずれも現存していない。)ここでようやく、ホーソーンの影響は払拭されることになる。「語るべき物語がありえないものであるほど、設定は日常的なものにしなくてはならないことに私は気づいた。そして今、時間旅行者がいる状況は、私が想像しうるかぎり、安定した上位中産階級の邸宅に変わったのである」

 ところが、三月から六月まで連載された簡略版『タイム・マシン』とでもいうべき無署名の文章は、未完のままに突然中止の憂き目にあう。編集長が突然交代して、編集方針が大きく変わったのだ。この頃、ちょうど最初の妻イザベルとの離婚訴訟が進行していたこともあり、ウエルズにとっては暗雲がただよっていた時期だったのだろう。それが『タイム・マシン』の陰鬱なヴィジョンにどのような影を投げかけたか、われわれにはぼんやりと想像することしかできない。しかしウエルズにとっては幸いなことに、元編集長のへンリーは翌年から新雑誌くニュー・レヴュー>の創刊を計画していて、『タイム・マシン』はそこで救われることになった。これが第五のヴァージョンである。最終的な完成に向けて改稿に没頭していたときのことを、ウエルズはこう回想する。「時間旅行者が戻ってみるとタイム・マシンが消えていて、帰還の道が断たれるという場面を書いていたときのことを、私は今でも憶えている。私は一階の丸テーブルにひとり腰かけ、傘のついたパラフィン・ランプの明かりのもとで一心不乱に執筆していた。ジェインはもう就寝していたし、彼女の母親は病気で一日中ベッドにいた。ひどく暑い八月の青い夜で、窓は大きくあいていた。……外でたえまなく誰かの声がする。女性の声が大きくなっては小さくなる。それは私たちの下宿の女将のなんとか夫人だった(名前を忘れた)。とうとう我慢できなくなって断固たる行動を起こし、隣の庭にいる同情深い隣人に話しかけ、それから窓ごしに私に向かって何か言っているのだ。私は気がついてはいたが無視した。それに彼女の方も、上がり込んで私に面と向かって叱責するだけの勇気はなかった。……声は延々と続いた。私はそれを聞き流しながらむっつりとして書き続けた。しまいに彼女の方が根負けして、最後の一言を言うと、玄関のドアを思いっきりしめた。私はようやくその章を書き終わり、窓をしめてランプを消した。こうして、当時は次第に邪魔が入るようになっていったが、それでも『タイム・マシン』はなんとか完成にこぎつけたのだった」。そしてその後は、月並みな言い方だが、歴史となったのである。

 『タイム・マシン』の歴史的意義について語るときに、「タイム・マシンという機械を持ち出したことで、時間旅行という概念に科学的根拠を与えた」という評価がよくされる。

 しかし、これははたして正当な評価だろうか。なるほど、『タイム・マシン』以前に書かれていた時間旅行小説では、タイム・マシンという装置は使われず、とにかくなんらかの方法でタイム・スリップしてしまうものばかりだったことはたしかである。だが、それだからといって、タイム・マシンに科学を見るのはどうだろうか。

 もちろん、ウエルズは科学教育を受けた人間であり、たしかに科学との関わりは深かった。それが後に科学小説としてのSFを生む背景にもなった時代の風潮でもあったことは疑いない。しかし、ウエルズが小説に用いた科学とは、彼の言葉を借りれば「擬科学」的なものも多く、『タイム・マシン』にしても四次元についてのもっともらしい講釈はあるものの、タイム・マシンという機械そのものについての描写は曖昧である。これは物語の外枠が名のない語り手(典型的なヴィクトリア朝の普通人)によって語られているという語りの構造にも関係するが、おそらくはタイム・マシンの着想のもとになったのが、世紀末に大流行し、ウエルズ自身も愛用して『車輪の冒険』The Wheels of Chance(1896)なるロード・ノヴェル風の喜劇的小説を生むことになる自転車というマシンであったという、はなはだ日常的な真実にその原因が求められよう。

 その点、ウエルズが『タイム・マシン』を「科学ロマンス」と呼んでいるのは、きわめて示唆的である。つまり、ウエルズの意図は、科学または擬科学に適当な粉飾をほどこして、ロマンスを書くことにあった。この場合、ロマンスとはありえない物語という意味であるのと同時に、通俗的な意味でのロマンスでもある。ウエルズのロマンティシズムは、『タイム・マシン』では時間旅行者と未来人のエロイ族の一人であるウィーナという女性との恋愛にも似たエピソードとして最悪の形で現れていて、それがおそらくこの小説のいちばんの弱点でもあるのだが、今はそれ以上触れないでおこう。とにかくウエルズは、科学をいわば出発台として、小説的な想像力をはばたかせようとしたのである。従って、タイム・マシンという機械そのものに対しては、ウエルズにはさほどの関心がなかった。実際、ウエルズはこれ以降、彼を一躍有名にしたこの機械を一度も小説の中で再登場させていない。タイム・マシンとは「本」とか「夢」などでいくらでも置換可能な小説的装置であり、またそれをウエルズは諸作品の中で実践している。

 だから、タイム・マシンがSFを表す一つの代名詞となり、タイム・マシンが出現する小説が何度も何度も再生産され、時間旅行物がSFのサブジャンルを形成し、それにまつわるタイム・パラドックスがさらにテーマ化されて反復されるに至ったのは、ウエルズおよびタイム・マシンそのものの問題ではなく、ひとえにSFというジャンル内の問題である。(タイム・パラドックスについては、すでに当時アルフレッド・ジャリがユーモラスな論文の形で指摘しているし、ウエルズ自身も時間旅行の結果として生じる「現在」の不確かさを『タイム・マシン』のエピローグでほのめかしてはいるが、それ以上の追求はしなかった。)こうして『タイム・マシン』は、SFというジャンルの体質上の問題をわれわれに投げ返す。たとえば、SFはハインラインの短篇「輪廻の蛇」をその極限的な到達点として、タイム・パラドックスのテーマを五○年代にほぼ消費し尽くした。こうしたテーマの消費については、レムが「タイム・トラヴェル小説とそれに関連するSFの構成上の問題」というエッセイで鋭く批判している。従って、今もしタイム・マシンが登場する小説が書かれるとするならば、それはそうしたSF史を意識することなしには書かれえないし、そこから必然的に一種のメタSFにならざるをえないだろう。(SF内の特異な例としては、ブラッドベリの短篇「タイム・マシン」が想起される。ここでは、タイム・マシンとは、憶えているはずのない記憶を完壁に再現する老人として提示される。これはきわめて反SF的な小説であり、おそらくブラッドベリの意図とは関係なく、SFのタイム・マシン物に対するクリティークとしても読めてしまう。それはまた、彼のSF内における位置の不確かさをも暗示している。)そしてまた、素朴なタイム・トラヴェル物は、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』やフィニイの『ふりだしに戻る』のように、ノスタルジアによりかかるアナクロニズムでしかないだろう。

 それでは、現代のSF読者が『タイム・マシン』をはじめとするウエルズのロマンスを読めば、どういう印象を受けるか? それはおそらく、困惑である。われわれが慣れ親しんでいる小説からはどことなくへだたった、そんな雰囲気がウエルズのロマンスには濃厚にある。その一つの原因は、おそらく「人間」よりも「人類」を描くところにあるだろう。たとえば『タイム・マシン』では、外枠の物語で描かれる暖炉の前に集まるささやかな人間たちは、時間旅行者が語る物語の中での未来の人類の姿と、際だった対照を成している。そしてまたこれは、ウエルズの表芸であった、卑小な一個人の立身出世を中心にした『キップス』や『トーノ・バンゲイ』などのノヴェルと、ロマンスとの対比にも照応する。人間ではなく人類を描けば、それはどうしても萬話的になり、小説のおもしろさという点から考えれば読みづらくなる。実際、ウエルズがその線を押し進めて人類の未来史を予言した『来るべきものの姿』The Shape of Things to Come(1933)という独特の作品では、明らかに伝統的な小説の枠を大きくはみだしていると言えるだろう。こうした路線は、ウエルズに始まりその後継者のスティープルドンでいったん終焉するという、まことに短命なものに終わらざるをえなかった。エンターテインメイントを第一義とするSFでは、それを継承できなかったのである。(ウエルズの未来史を違った観点から引き継ごうとするおそらく唯一の現代作家はレムで、彼はキャラクターという従来の小説的概念を捨てた未来史というものを新しい実験小説の可能性として開こうとしている。たとえば『完全な真空』や『虚数』を見よ。)さらには、未来史を夢見ながらも、その一方でウエルズはつねに時代性というものとシンクロナイズしていた人物であった。その二重性が、現代の読者にとってウエルズを読むときの二重の困難になるわけだ。

 そのような読みづらさにもかかわらず、どんな現代読者にも感得できるウエルズの本質がある。それは一言で言えば、「情熱」であり「自由」である。日常性という足枷を逃れて、今此処ではない世界へと飛びたつ瞬間、ウエルズの筆は熱に浮かされたようになる。それは、一八九四年の夏に『タイム・マシン』を深夜まで執筆していたときの、あのウエルズの一心不乱な姿を彷彿とさせる。自由な想像力の飛翔、そして、そこに注がれた途方もない情熱。その飛翔は、また文字どおりの飛翔でもあった。大空を飛ぶ夢は、短篇「飛ぶ男」The Flying Man(1895)「大空の飛行士」The Argonauts in the Air(1895)「私の初めての飛行」My First Aeroplane(1910)などに繰り返し現れる、ウエルズのオブセッションでもあり、これを当時の飛行熱という文化史の文脈から読み直す作業はまた別の機会に譲らねばならないが、とりわけ短篇「執刀のさなかに」Under the Knife(1896)は、手術を受けている最中に魂が肉体を離れ、ロンドン上空に舞い上がり、地球を離れ銀河系を超えて、宇宙の彼方へと飛ぴ去る主人公を描いて、その猛烈な速度感に圧倒される。たとえばブラッドベリにおける飛行のイメージとも重ね合わせてみると、いかにこれが想像力の原質をとらえているかが納得されよう。タイム・マシンとは、結局のところこうした飛翔であり、それはけっして単なる機械に還元されることがないはずだ。そしてそれこそは、時間旅行者が超未来から持ち帰った一輪の花のように、ウエルズの読者が握りしめて放さないものなのである。

 こんなことを書けばこの雑誌の読者から猛反発を食らうことを承知のうえで言い切ってしまうのだが、私はときどき、今までに生み出されたSF作品の総体が、H・G・ウエルズという一個人の全著作および全人格にかなわないのではないかと思うことがある。新しいSFを読むくらいなら、ウエルズの著作集をゆっくりと順番に読んでいきたいと思うことがある。ウエルズの完全な全集は、まだ本国でも出ていない。ようやく『タイム・マシン』をはじめとして、『モロー博士の島』『宇宙戦争』などの詳細な注解書が出版され、ウエルズ再評価の気運が高まって来つつあるのが現状である。この今世紀最大の幻視作家の全貌が明らかにされるとき、SFというジャンルは光を失うかもしれない。たとえSFというジャンルが滅びても、ウエルズの作品は永遠に読まれ続けるかもしれない。

 今私たちにとっての問題は、SFにウエルズをどう取り込むかではない。タイム・マシンというテーマをどう新しく展開するかではない。ウエルズは、SFが抱え込むにはあまりにも巨大なのだ。ウエルズを読んで、想像力の飛翔という原点に立ち帰り、さらに新しい小説の可能性を夢想すること。それがウエルズを現在および未来に甦らせる道だ。そしてそのときにこそ、SFはSFではなくなり文字通り新しい小説(ノヴェル)として変容を遂げているだろう。

(初出 『SFマガジン』95年4月号)
upload 98/10/20


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