TWICE TOLD TALES

Book Review Archive

若島正


11 Alfred Bester, The Rat Race, 1955: Eric McCormack, Inspecting the Vaults .1987 etc.


気になる小説いくつか


 この夏、記録的な猛暑の日本を離れて、一週間ほどオーストラリアに行ってきた。海外に行っても、やることは本屋めぐりと決まっていて、まず電話帳のイエロー・ページで本屋の住所のリストをこしらえる。その数ある中でどの本屋に行くかは、新刊書のリストからどれを選ぶかに似ていて、やはり勘である。この勘が狂うことは、あまりない。

 シドニーでも、限られた時間ではあったが、そうやっていくつかの本屋を見てまわった。一つの興味は、それほど情報が入ってこないオーストラリアの作家で、誰がおもしろそうかということ。ピーター・ケアリーやクライヴ・ジェイムズあたりは日本でも入手できるし、以前から贔屓にしていたジャネット・ターナー・ホスピタルという女性作家もいるが、まったく予備知識のない作家との出会いが楽しい。いろいろと手に取って、本から発散されてくるエネルギーのようなものを測定してみた後、一冊だけ選んだのは、ジェラルド・マーネインという作家の最新短篇集 Emerald Blue (1995)である。この本については、またいつか書く機会があるだろう。

 新刊の棚に発見して、とうとう出たかという嬉しさで飛びついて買ったのが、フイリップ・カーの Gridiron (1995)。これには、ちょっとした裏話がある。昨年、ブリティッシュ・カウンシルの招きで、レジナルド・ヒルやマイクル・ディブディンと共にカーが来日したときのこと。わたしは京都で開かれたクライム・フィクション・セミナーのコーディネーター役をおおせつかったこともあり、彼ら三人と話す機会を得た。そのとき、カーに現在取り組んでいる新作はどんな筋かと訊ねたら、これは企業秘密なんだがと前置きしてから教えてくれた。「今度の小説は、設定が近未来で、スーパー・コンピュータで制御され人間以上の知性を持った高層ビルがいわば主人公だ。そこで殺人が起こる。実はそのビルが犯人なんだ。だから今、建築関係の書物を読んでリサーチしているところでね……」それはあなたの A Philosophical Investigation (1992) の延長線上にありますね、あの小説も近未来小説で、コンピュータ・プログラムの中にもぐりこむ場面がいわゆるヴァーチャル・リアリティ風に書かれていましたと言うと、今度の新作にもそういう要素があるとの話だった。三人の中で、いかにも英国風で大人のユーモアを持ったミステリを書くヒルや、ミステリの約束事に批判の目を向けながらある意味で文学的な犯罪小説を目指すディブディンに比べれば、若いカーはいちばんミステリというジャンルにこだわりがなく、父親ほど歳が離れたベテラン作家ヒルの「書きだすときは、いわば真っ白なキャンヴァスに向かうような気持ちで書くことだよ」という忠告にうなづいていたのが印象的だ。そういうわけで、あのときに構想を話してくれたのが Gridiron だったのである。

 それで思い出すのが、いつか立ち読みしたSF雑誌で見た、ノーマン・スピンラッドの書評のこと。評論集 Science Fiction in the Real World (1990) などで、鋭くはないものの真っ当なSF論を読んだとき以来、実作者兼批評家としてのスピンラッドには多少注目しているのだが、その彼がカーとイアン・バンクスを取り上げ、前者は A Philosophical Investigation における一人称と三人称が交錯する語りの技法について論じていたのだ。わたしはその書評をコピーしてカーに送り、感想を求めようかと思ったほどである。カーはSF雑誌を読むのだろうか? GridironもSF雑誌で書評されるのだろうか? そう言えば、主流小説を書くときにはイアン・バンクス名義で、SFを書くときにはイアン・M・バンクスと妙な区別をするバンクスも、前から気になっている作家の一人だ。英国ではすっかり一流どころの仲間入りをして、ハードカヴァーでも結構売れているのは、いったいどの辺りが評価されているのか、一度自分の目で確かめなくてはと思っている。Consider Phlebas (1987) から始まるいわゆる「カルチャー」シリーズを、近いうちに読んでみなくては。

 わたしの友人に、夏をオーストラリアで過ごす英国人のシェイクスピア学者がいて、英国文壇事情やオーストラリア小説についていろいろと情報を提供してくれることが多い。その男があるとき、ディックの『反時計まわりの世界』を読んだらしく、今をときめくマーティン・エイミスの話題作『時の矢』はディックからアイデアを借用したものではないかと質問してきた。そこでわたしは、時間が反転するというアイデアはディック以前にもあるのだし、人間が子宮に帰るということで言うなら、バラードの初期短篇にデッィクよりももっと『時の矢』に近い作品があるから、仮にエイミスの発想の下敷きになったものがあるとするなら、それはバラードの方がより可能性があるかもしれないと答えておいた。『時の矢』の時間反転が話題になったのは、主流小説の読者層があまりSFを読んでいないことに原因があるのではないか、ということでわたしたちの意見は一致したのだが、ひっくり返せば、SF読者は主流小説だってそこそこ読む。SF読者は、どんな小説に対しても、それほど抵抗がないのである。

 話を元に戻して(と言っても、筋のあるエッセイを書いているつもりはまったくないのだが)、わたしがシドニ−で泊まったのは、キングス・クロスという地域の歓楽街のすぐそばにあるホテルだった。あまり古本屋めぐりをする時間がなくて、一軒だけ行ったのがそのホテルの近所にある店。なにしろ怪しげな歓楽街のそばだけに、想像してはいたが、やはり入ってみるとポルノ雑誌が所狭しと並べられている。それに興味がまったくないわけではないものの、こういう店に意外な掘り出し物が落ちていることも多いので、ペーパーバックの棚に視線を集中することにした。店の親父は、変な日本人が来たとさぞかし不思議がっていたことだろう。半時間ほどの検索の後、収穫は二冊。そのうちの一冊は、ずっと昔に読んだことがあり、すぐに古本屋に売ってしまったが、しばらくしてからもう一度読みたくなって、ずっと探し求めていたエロール・フリンの自伝 My Wicked, Wicked Ways (1959)。もちろん、これをエロール・フリン本人が書いたものだと考えるほどわたしも馬鹿ではなくて、なにしろ文章がうますぎるが、そうとはわかっていてもおもしろかったような記憶がある。この種の伝記は、うっかりするとそれこそ小説よりもおもしろいことが往々にしてあるものだ。しかし、もしかすると、手放してしまった本は、記憶が必要以上に美化してしまうのかもしれない。

 そしてもう一冊は、最近気になっていた、アルフレッド・ベスターの普通小説 The Rat Race (1955)である。これを見つけたときは、本当に嬉しかった。なぜ気になっていたかというと、巽孝之と越川芳明の両氏が編集したラリイ・マキャフリイ『アヴァン・ポップ』に載っているインタヴューの中で、ギブスンがこんなことを喋っていたからだ。「一九五〇年代のニューヨークに暮らす活発な若者の、陽気で楽しい気分を知りたければ、ベスターのSFを読むのがいちばんいい。これは重要なことかもしれないけど、ベスターの主流小説[The Rat Race]を読むと、その作品が『虎よ、虎よ!』や『破壊された男』と同じツールで書かれていながら、なぜか失敗しているように感じられるんだ。どうやらベスターのパレットは、読者に現実のものを読んでいると信じこませるには適していないみたいでね」そうか、ギブスンはあの入手しにくいThe Rat Raceを読んだことがあるのか、というのがどうもわたしの頭にひっかかって残ったみたいで、本当にギブスンの言うとおりThe Rat Raceは失敗作なのかとか、ベスターの失敗作ならぜひ読んでみたいとか(壮大な失敗作と大傑作の区別がつかないところがベスターの特徴である)、まあさまざまな思いがつのって、このTV界を舞台にした小説を探し求めていたわけだ。だいたい人間というものは、そういった単なるこだわりだけで一冊の本を探すものである。それにしても、最新情報がぎっしりと詰め込まれた『アヴァン・ポップ』の中で、いちばん気になるのはこのベスターへの言及の箇所だというのだから、よほどわたしはアヴァン・ポップなるものとは無縁な読者に違いない。

 気になると言えば、去年巽氏と京都で対談した際に、エリック・マコーマックの『パラダイス・モーテル』の話になって、「マジック・リアリズム風のところもあり……」と巽氏が表現した言葉がずっと気にかかっていた。つまりわたしは『パラダイス・モーテル』をそれまでそういう言葉で考えたことがなかったので、虚をつかれたというか、なるほどさすがにうまいことを言うなあと感心したのだが、はたしてそういうものだろうかという疑問符が片方でひっかかりとしてずっと残っていたのだ。ところが、シドニーの本屋でマコーマックの短篇集 Inspecting the Vaults (1987) を買い、日本への帰りの飛行機の中でそれをあらかた読んで、その疑問は半分氷解した。後の半分は、まだしつこくひっかかりとして残っている。半分氷解したというのは、次のような事情である。この短篇集には“Sad Stories in Patagonia”という短篇が収められていて、それは『パラダイス・モーテル』の原型となった作品であり、しかもそれはある大学出版局が出した Magic Realism and Canadian Literatureと題するアンソロジーに初めて載ったものだったのである。たしかにこれは「マジック・リアリズム」だったわけだ。しかしそれでもまだこだわりが残るのは、要するにマコーマック個人の問題に帰着する。やはりわたしには、マコーマックをうまく言い表す言葉がない。彼はグロテスクなイメージをぽんと一つ投げ出す。あるいは、ときとして過剰なまでに、そうしたイメージを次々に繰り出す。そうした醜悪なイメージ群をどう小説的に処理しまとめてやればいいのか、作者自身にもわかっていないように見えるのが、マコーマックの魅力でもあり難点でもあろう。それは、本号に訳出されている短篇“Festival”にもうかがえる両面性である。おそらく、マコーマックの頭の中には、無数の蛆虫がいる。その蛆虫がにゅるにゅると這い出してくるのが彼の小説だ。もっと小説としてうまく書いてほしいという気もするし、そうなれば逆にゲテモノとしての魅力を削ぐことになりそうな気もするのが、こうしたいわば蛆虫小説家の厄介なところなのである。

  オーストラリアで買って、なるべく早く読みたいと思っているものに、英国の作家イアン・シンクレアの第三作 Radon Daughters (1994) があることを最後に記して、このオーストラリア便りともなんとも形容しがたい一文を終わりたい。編集部の意向では、「文学サイドから見た80年代以降の境界小説の概括」というのが与えられたテーマだったが、わたしには標準的読書ガイドとなるような概括を書くつもりは最初からなかったし、気になる小説を追いかけていれば、ジャンルという境界や時代の枠などは自然に消滅するものなのだ。

(初出 『SFマガジン』95年11月号)
upload 98/10/20


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