TWICE TOLD TALES

Book Review Archive

若島正


14 H. G. Wells, In the Days of the Comet (1906)、The Dream (1924)


オールディスのウェルズ論から


 わたしの大学の図書館には、俗にアトランティック版と呼ばれるH・G・ウェルズの著作集がある。これは一九二四年にフィッシャー・アンウィン社から出版された二十八巻から成るもので、一六七〇部の限定版であり、中にはウェルズ自身の手でシリアル・ナンバーが記されている。もちろん、これはウェルズが生きていたあいだに出たものであり、長篇小説だけでも六十冊近くを書いたウェルズの全貌を明らかにするものではおよそないが、とにかくわたしはそこに収められているものだけでも順に読もうとして、驚くべき事実を発見した。宝の山のような著作集なのに、ページがペーパーナイフで開けられていないままになっていたのだ! いったいいつから、これほどまでにウェルズは読まれなくなったのだろう? 

 実際、本国でもウェルズの完全な全集は出ていないのだし、ペーパーバックでは後に述べるホガース・プレスが忘れられた長篇の発掘に尽力しているが、それでもたいていの著作は埋もれたままになっていて読めない。アカデミアではウェルズ再評価の気運が近年ようやく盛り上がりつつあって、『タイム・マシン』『モロー博士の島』『宇宙戦争』などの詳注版が出版されたが、それは必ずしも一般読者層に影響を及ぼすものではない。こうした事情は日本でもさほど変わらない。短篇は八割がた翻訳紹介がすみ、めぼしいところはあらかた刈り尽くされた印象が強いが、それでは長篇はどうかというと、意外なくらいに未訳のまま眠っているものが多く、とりわけ科学ロマンス以外の普通小説は絶望的に紹介が遅れているのが現状である。フェミニズムがらみで『アン・ヴェロニカ』が国書刊行会から出たのも比較的最近のことだし、ウェルズが書いた社会喜劇小説群のうち代表作の一つに数えられる『トーノ・バンゲイ』が岩波文庫から復刊されたが、こうした小説を読んだことのあるSF読者がいったいどれくらいいるだろうか?

 このような状況は、これからウェルズに取り組んでみようとする読者にとって、不幸であるとしか言いようがない。一般読者層から見れば(特に日本においては)、ウェルズとは圧倒的に科学ロマンスのウェルズである。ところが、アカデミアの世界において英文学史から見れば、『タイム・マシン』を特別な例外として、ウェルズとは Kipps (1905) や『トーノ・バンゲイ』といった社会小説のウェルズである。長篇の数だけで見れば、この科学ロマンスと普通小説の比率は約三対四くらいだし、その境界線上に位置する作品もあるので、ほとんど両者はバランスを保っていると言ってよい。読者あるいは批評家はそのどちらかに与してしまうわけで、ウェルズを総体として眺めようとする人間はごく僅かにすぎない。

 その結果、ウェルズ批評にはわれわれが読んでなるほどと感心するものがきわめて少ない。たいていの議論は「科学ロマンスか普通小説か」あるいは「小説家か思想家か」をめぐって行われ、その対立は容易に解消しそうにない。もともとこうした二項対立は、ウェルズという一個の人間に内在していたものであり、彼はそれを矛盾とせずに生きたのだ。だから、この問題に解決が見出せないのは、ある意味では至極当然のことなのである。仮に今、科学ロマンスを選ぶ立場を採用してみよう。SFファンならそちらを選ぶに決まっているからだ。しかし、その場合にも、SFの側からウェルズを擁護する議論は、予想されるよりもはるかに少ない。ウェルズを積極的に評価し、ウェルズに導かれつつ書くようなSF作家は数えるほどしかいない。それは、ウェルズが結局サイエンス・フィクションというマーケットにまったく関心を示さなかったことに帰因しているのだろう。ウェルズはいわゆるSF作家ではなかった。逆に、SFというジャンルはウェルズからタイム・トラヴェルといったテーマを頂戴し、それを消費し尽くしたが、ウェルズの遺産というものを真剣に考えたことはなかった。これも、ウェルズをめぐる状況の中で大きな不幸の一つと言える。

 しかし、これからウェルズを読もうとする新しい読者にとって、その指針となるようなものがまったく絶無というわけでもない。日本でもよく知られている、ダルコ・スーヴィン(とりわけ『SFの変容』における精緻な『タイム・マシン』論)やパトリック・パリンダーといった批評家たちの著作もあるが、わたしはここでブライアン・W・オールディスのウェルズ論を紹介してみたい。言うまでもなく、オールディスはSF作家であり、その視点がSF愛読者には同調しやすいということもあるが、彼はその実作者としての強みを生かした、きわめて洞察力に富む批評家でもあり、わたしの意見ではおそらく世界最高のウェルズ理解者だと思われるからである。実を言えば、わたしは理知的にすぎる小説家としてのオールディスをあまり評価しないが、批評家としてのオールディスは凄いと思っている。これは、小説家兼批評家にはよくあるタイプなのだ。なお断っておくと、オールディスには『モロー博士の島』を直接題材にした Moreau's Other Island (1980) という作品があるが、わたしは未読なのでここでは触れない。

 オールディスのウェルズ論ということで、まず最初に思い出すのは、一九七三年に出版されたSF史『十億年の宴』(後に増補改訂されて『一兆年の宴』と改題)の中で、「奇跡を起こす男」として一章を割かれたウェルズに関する記述だろう。その章の結びの言葉で、「ウェルズは人間精神が生み出すすべてのすばらしい新世界に君臨するプロスペロであり、SF界のシェイクスピアである」とオールディスは最高の賛辞をウェルズに対して捧げている。そこでは、SF史の中でウェルズを位置づけるという観点から、オールディスの基本的なウェルズ評価が「普通小説よりも科学ロマンス」および「思想家よりも小説家」という立場に立ったものであることは明瞭に読み取れる。しかし、そこで普通小説または思想家の部分が完全に否定され捨てられるわけではない。自由な空想に満ち溢れた科学ロマンスは深い現実認識によって支えられているし、豊かな小説的想像力によって語られるのが結局は進化論に導かれたペシミスティックな人間観ないしは世界観であること。こうした指摘が、オールディスの明晰さの現れなのである。ウェルズの弱点が心理的な深みを持つ登場人物を創造できなかった点にあると認めたうえで、なおウェルズがヴェルヌを含めて彼の後継者たちよりぬきんでている理由は三つあるとして、オールディスは次のように要約する。「第一に、彼はスゥイフトの探求精神をなにがしか受け継いだ。そして科学とは、結局のところ、探求の問題なのである。そしてこのことから、残りの二つの美点が派生する。それは、ウェルズが自分の生きている世界をはっきりととらえることができたという点(なぜなら、そのような能力がなければ、他の世界をはっきりと幻視することは不可能だからだ)、そして読者が無批判に自分と同一視して、何が与えられても鵜呑みにしてしまうような、そういう主人公を描くのを生涯にわたって避け続けたという点である。」こうした理解の上に立って、それが小説の中でどのように実践されているかを、オールディスは『宇宙戦争』と『モロー博士の島』の二作品を実例として取り上げながら詳しく検証しているのだが、それは直接に『一兆年の宴』を参照して確かめていただきたい。

 オールディスのウェルズ論として次に来るのは、一九八五年からホガース・プレスでペーパーバックとして再刊が始まった、ウェルズの比較的知られていない長篇三作[In the Days of the Comet (1906)、『解放された世界』(1914)、The Dream (1924)]に寄せる序文である。このシリーズで序文を書いているのは、オールディスの他にクリストファー・プリーストがいて、Mr Britling Sees It Through (1916) と Christina Alberta's Father (1925)の二作を担当している。御存知のとおり、プリーストはウェルズへのオマージュとして『タイム・マシン』と『宇宙戦争』をミックスした楽しい作品『スペース・マシーン』を書いているほどの、SF作家の中ではオールディスに次ぐウェルズ理解者である。ただ、オールディスとは逆にプリーストの場合は批評家としてよりも小説家として実力を発揮するタイプらしく、彼が書いた序文二本は残念ながら鋭い鑑賞眼は窺えない。

 In the Days of the Comet は、一九一〇年にハレー彗星が接近するとの予測に着想を得た作品で、彗星の到来によってもたらされる変革を描いたウェルズ独特のユートピア小説である。序文でオールディスは、この作品を幻視小説の好見本ととらえ、ユートピアをテクスト上に現出させる際のウェルズの文学的才能について語る。彼の意見によれば、「商業が自然を浸食した場所の描写にかけては、ウェルズを凌ぐ者は誰もいない。」その場所とは、物が溢れ人が溢れた、当時の混沌たる英国の姿であると同時に、その中に棲息する人間の精神の混沌としたありようを象徴している。ここでオールディスは、『トーノ・バンゲイ』がいわゆる「英国の状況」小説であると論じたディヴィッド・ロッジの有名なエッセイを引き合いに出し、In the Days of the Comet もやはり一種の「英国の状況」小説と呼べるが、それはさらに正確に言えば「精神の状況」小説であるという結論を導く。彗星によってもたらされる変革は、精神の変革であるというのだ。ここからウェルズは、たとえば社会規範に束縛されない自由恋愛など、彼得意のテーマを展開することになる。

 こうしたウェルズの「場所」の描写力に注目するオールディスの視点は、ウェルズを読むときに豊かな実りをもたらすだろう。応用編として、短篇を例にとって説明してみよう。名品「水晶の卵」は、次のような書き出しで始まる。

 一年ほど前まで、ロンドンのセヴン・ダイヤル街の近くにみすぼらしい店があった。風 雨にさらされた黄色い文字の看板には「剥製および骨董店C・ケイブ」と書かれていた。ウィンドーに並んだ品物は種々雑多で、象牙、駒の不足したチェスのセット、ビーズ、武器、眼鏡レンズの箱、虎の頭蓋骨が二つに人間のがひとつ、虫喰いだらけの猿の剥製 (そのうち一匹はランプを手にしている)、古風な箪笥、腐った駝鳥の卵らしきもの、釣道具、非常に汚いガラスの水槽などであった。それにもうひとつ、この物語が始まったときには、ぴかぴか光る卵形の水晶が陳列されていた。(橋本槙矩訳)

この狭い店の内部は暗く、しかもそこにこうした役に立たない骨董品がごちゃごちゃと詰め込まれている姿は、簡単に言ってしまえば、「血色の悪い顔をした」店主ケイブ氏の混沌たる精神の状況を表している。そのケイブ氏を極度に興奮させる現象が起こる。水晶の卵の中に、火星の風景と火星人らしきものの姿が映ったのだ。その現象を発見したときのことはこう描写される。「きたなく狭い店は真暗であったが、一カ所だけ異常に明るい所があった。近よってみると、光っているのはウィンドー近くのカウンターの隅に置いた水晶であった。シャッターの透間から一筋の光がさしこみ、水晶の内部を照らしていた。」ここで暗い店の中にさしこむ一筋の光が、混沌とした心の中にさしこむ光ともなって、ケイブ氏に変化をもたらす契機となるわけだ。このように変革をもたらす点において、水晶の卵は彗星と同じ役割を果たしている。すなわち、短篇「水晶の卵」のプロットは In the Days of the Comet のプロットと同型であり、これがウェルズの小説構造の典型的な雛形になっていることがわかるのである。

 ウェルズ作品では「現在の状況」→「変革の契機」→「新しい世界の出現」という図式が頻繁に用いられているとすれば、それはその変革の前後で大きく二つに分かれることになる。原爆投下による世界の変化を描いた『解放された世界』では、そのつなぎ目の部分がうまくいっていないとして、オールディスの評点は辛い。さらに、そうした構造上の弱点の他に、オールディスは世界的な政治力学の把握の甘さを指摘し、戦争後には大衆は統制されやすく強力な指導者のもとに従うとするウェルズの見解に対して疑問を表明する。この点はウェルズがしばしば非難されるところで、特にジョージ・オーウェルによる手厳しい批判が有名だし、最近では批評家ジョン・ケアリーが、当時の知識人たちに内在する大衆蔑視の傾向を論じたThe Intellectuals and the Masses (1992) の中で辛辣に皮肉って話題になった。オールディス自身も、このウェルズの弱点は乗り越えなければならない壁として意識しているらしく、自作の中で政治小説としての側面を盛り込むことを何度か試みている。

 The Dreamは、今まで述べてきたウェルズ小説のパターンには当てはまらない、科学ロマンスと社会小説の中間に位置する作品である。この小説の舞台はエドワード朝の英国で、主人公のヘンリー・モーティマー・スミスは薬屋の見習いから出版業界の大物へと立身出世していく。この筋書きだけを見れば、ウェルズお得意の自伝的な社会喜劇小説だということになってしまうが、実はこの物語には奇妙な外枠がはめられている。その外枠の舞台は、それから二百年隔たった北イタリア。ユートピア的世界に住むサルナックという男が、洪水で沈没した町の遺跡調査にやってきて、夢を見る。その夢の中で、彼は二十世紀前のスミスという人物になる。スミスが生まれてから死ぬまでの生涯を体験し、スミスが生きていたロンドンという世界を知るのだ。ここでは科学ロマンスと社会小説の両方にまたがる要素がうまく融合していて、「不当に過小評価されてきた作品」だというオールディスの意見にわたしもまったく同感である。この小説のひとつの発展形として、未来の一共同体社会をさらに未来の考古学者が夢見るという枠組みで書かれた、アーシュラ・K・ル=グィンのユートピア小説Always Coming Home (1985) を想定してもさほど的外れではないだろう。

 さて、オールディスのウェルズ論として最後に紹介したいのは、一九八六年に開催されたウェルズ国際シンポジアムで、ウェルズ協会副会長として彼が行なった「ウェルズと豹女」と題する講演である。この集会の論文集を編集したパトリック・パリンダーによれば、その講演は「きわめてパーソナルな」ウェルズ観であるというが、要するにかなり意表を突く話だということだ。しかし、その一見突飛に見える切り口はきわめて示唆に富むものであり、私見ではオールディスのウェルズ論の白眉である。彼はウェルズの小説にしばしば現れる豹やチーターやピューマに注目する。とりわけ印象的なのは、傑作短篇「塀についた扉」で、主人公のライオネル・ウォレスが子供の頃にふと壁の向こうの桃源郷に迷い込んでしまう次の場面である。

 そこには二匹の豹がいた……そう、まだらの大きな豹だ。しかし少しも怖くなかった。大理石の縁どりをした花壇が両側に続く長い道があって、二匹のビロードのような艶のある豹たちがそこでボールに戯れていた。一匹が顔をあげてぼくのほうへ近づくと、その柔らかな丸い耳を、ぼくの差し出した小さな手にこすりつけ、咽喉を低くならすのだった。それは魔法の園だったのだ。(橋本槙矩訳)

告白しておくと、わたしはウェルズの全作品中で最もこの短篇が好きだし、しかもこの箇所がいちばん好きだ。魅惑の園で最初に出会うのが、なんと選りにも選って豹だとは! この突如として現れ、そしてふたたび言及されることのない豹は、なぜこれほどまでに衝撃的なのかその原因がはっきりとはわからないまま、その艶かしさとともに鮮明に記憶に残っていた。それが、オールディスの鋭利な分析を読んで、なるほどそうかと納得できたのである。オールディスによれば、進化の結果として退行する可能性をはらんだ人類と比較すると、豹は進化の及ばない動物であり、それゆえユートピア幻想と密接に結びついている。しかも、この豹が官能的なのは、自由なセクシュアリティを謳歌する獣としての姿が、自由恋愛を希求するウェルズの願望を投影しているからだとも言う。もちろんここでわれわれが思い出すのは、『モロー博士の島』に登場するさまざまな獣人たち(その中には「豹男」もいる)であろう。人間と獣というテーマに関して、オールディスは獣人の中にも人間性が認められ、逆に主人公のプレンディックが人間社会に戻ったときに周囲の人間たちの中に獣人性が認められるという逆転関係を指摘し、このように謎めいて奇怪なイメージを創造しえた点にウェルズの最大の独創性を見ている。そして、ウェルズの創作最盛期のみならず晩年に至るまでの、今では誰も読まなくなったような作品も丹念に渉猟して、そこに豹のイメージを追いかけ、生涯にわたって獰猛に生きようと夢見ながら、ついに「塀についた扉」を二度と発見することはできなかったウェルズの姿をはっきりと定着させるのである。

 オールディスのウェルズ論は、ウェルズのおびただしい著作がまだ今日においても豊かなものを発掘しうる場であることをわたしたち読者に教えてくれる。そしてその埋蔵された遺産は、読者だけでなくSF作家にとっても貴重なものになるはずである。たとえば、壮大な規模でユートピア社会のあるべき姿を模索しながら、なおかつウェルズの弱点であった人物造形をも克服した作品として、ル=グィンの『所有せざる人々』を挙げることができるだろうし、その逆に人物造形をまったく切り捨てた路線に未来の小説を夢想する実験として、スタニスワフ・レムの『完全な真空』『虚数』などを挙げることも可能だろう。たしかにウェルズの小説の多くは忘れられたままになっているが、それは未来の読者あるいは未来の作家たちの再発見を待ちつつ眠っている。そしてその中に、巨人ウェルズは生き続けているのだ。

(初出 『SFマガジン』96年11月号)
upload 98/10/20


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