17 J. G. Ballard, A User's Guide to the Millennium (1996)
現在を見つめる視線
本書はバラード初の書評+エッセイ集であり、これまでの彼の足跡をほぼ概観できるという点で、最もとっつきやすいバラード入門書にもなっている。収められた多数の書評+エッセイのうち、いちばん古いものは一九六二年に<ニュー・ワールズ>誌に掲載された、あのマニフェストとも呼べる有名なエッセイ「内宇宙への道はどれか?」であり、それに対していちばん新しいものは一九九五年に<サンデー・タイムズ>紙に発表された、第二次大戦終戦のころの思い出を綴った自伝的文章「私の終戦」である。こう書けば、あたかも本書が各エッセイの発表年の順に並んでいるかのように誤解されそうだが、実はそうではない。全体は九章に分けられていて、扱う内容ごとに「映画」「伝記」「視覚芸術」「作家」「科学」と並び、その後(ちょうど本書のまんなかあたり)に「自伝」が入る。ようやく「SF」が来るのはその次で、分量的には全体の一割にも満たない。それからその他もろもろを扱った章が来て、最後にはさきほど挙げた最新エッセイがふたたび「自伝」として出てくる。
バラードが書いた多くの書評を読んでみて思うのは、それがありきたりの書評ではないということだ。ほとんどの場合、彼は書評対象図書の著者を食ってしまっている。たとえばそれがエルヴィス・プレスリーの伝記であれば、バラードの書評はバラードによるエルヴィス論として読めてしまうのだ。こうしてバラードが論じる人物はナンシー・レーガン、昭和天皇裕仁、ヒットラー、バロウズなどなどと続き、論じる物としては車にコカコーラやセックス・マニュアルなどが出てくる。つまり、本書を読み進めるうちに、読者は自分をとりまく現実世界がゆっくりとバラード色に染め上げられ、バラードの小説世界と見分けがつかなくなる光景を眺めることになるだろう。それは言うまでもなく、バラードがまったくオリジナルな作家である証拠だ。
本書についてもう一つ強調すべきなのは、バラードの視線がつねに現在を(そしてその延長線上の未来を)見つめているという点だ。この姿勢だけは、創作初期のころからまったく変化していない。だから、三十年以上にわたるこのエッセイ群を眺めていても、それが現在の一点に書かれたような錯覚すらおぼえるほどである。バラードは過去をふりかえることにほとんど興味を示さない(その唯一の例外は、帰るべき原風景としての、少年時代を過ごした上海での記憶だけ)。ジョン・クルートとピーター・ニコルズが編集した『SF百科事典』の書評で、「SFの奇妙な側面は、もっぱら未来を描くはずの文学が、自らの莫大な過去を蓄積してきたという点である。SF史を専門に研究する協会や学会は無数にあり、作家の生涯が微に入り細にわたって調べあげられている」と疑問を呈した後で、バラードはこう続ける。「しかしこの事典を読んで嬉しく思ったのは、長命こそがSFおよびSF作家の顕著な特徴であるところだ。作品が絶版になることはなく、その著者もおおむね高齢まで生き長らえる。私は一瞬たりともそれ以外のことを信じたりはしなかった」。これはSFの可能性を信じ、その未来を信じる、感動的な言葉だ。
最後になるが、ついでにSFマガジンの読者にとっては特に興味深いのではないかと思われる一篇を紹介しておこう。それは、『地獄の新地図』を書いたキングズリイ・エイミスが、それから約二十年たって編集したアンソロジー『SFの黄金時代』(一九八一)に対する、痛快きわまりない書評である。その序文の中でエイミスは、ニューウェーヴに対する露骨な嫌悪を表明しているのだが、それは『地獄の新地図』で四〇年代から五〇年代にかけてのSFを読み、未来のSFが社会諷刺の方向に行くのではないかと予言した、その予測がはずれたための腹立ちからきているのではないかというのがバラードの指摘だ。しかもエイミスが五〇年代SFの代表作の一つとして選んでいるH・ビーム・パイパーの短篇は、彼がバラードをこきおろしたときの「章が数字をふられた段落に分割されている」形式で語られているではないか! 「おいおいキングズリイ……!」おまえ自己矛盾してるんじゃないのか、とバラードは揶揄する。これは少し状況を変えれば、昨今SF界をにぎわせているクズ論争にぴったり当てはまるのではないか。こういう議論はいつの時代にもあり、毎度の古いお話なのである。