2 Jack Womack, Heathern, 1990
ウォマック降臨
本書は、ジャック・ウォマックという見知らぬ作家の、日本における初紹介である。彼がこれまでに出した作品は、Ambient (1987)、Terraplane (1988)、 Heathern (1990)の長篇三冊(以下、それぞれA/T/Hと略記する)と、‘Out of Sight, Out of Mind’と題する短篇(キャスリン・スリン・クレイマー編のオリジナル・アンソロジーWalls of Fear に所収)一本だけ。読者は、なんの予備知識もなしにこのHを読んだあと、確実にジャック・ウォマックという名前を記億するだろう。
AからHに至る三冊は、ウォマックが予定している近未来史シリーズ六部作(!)の前半である。彼はHにつけた後書きの中で、Hを読み終えた読者に、次はA−Tの順で読む(あるいは再読する)ことを勧めている。そうしたウォマックの意図にかかわらず、日本でまずHが最初に出版されるのは、ひとえに翻訳のしやすさおよび読みやすさという点ではこれが(いや、これでもと言うべきか)一番だからだ。その次には間をおかずにTが出るはずだが、おそらく最高の難物でありまた最高の傑作であるAの出版はまだ決定していない。それは、ウォマックの挑戦にどれだけの数の読者が応えうるかにすべてがかかっている。出発点であるAには、疑いなくウォマックのすぺてが盛りこまれている。そのAおよび第四作から第六作がすぺて出版され、ウォマックが幻視する未来像の全貌が日本の読者にも明らかになる日を、今はただ夢みることにしよう。
ウォマックの経歴については、ほとんど明らかにされていない。わかっているのは、ケンタッキイ州のレキシントン生まれだということ、そして現在ニューヨークに住んでいるということ、この二点だけである。彼のアメリカSF界における位置についても、まだ確かなことは言えない。A/Tは、いずれもWeidenfeld & Nicolson社から、なんのラベルも付けず単に゙小説゛としてハードカヴァーで出版されたが、Tに対してブルース・スターリングが共感的な書評を書いたところから、おそらくはウォマックの売られ方が決まったようだ。HはTor BookからSFとして出ることになり、さらに同社はA/Tをペーパーバックで再刊する。その裏表紙に引用されるのはスターリングやウィリアム・ギブスンの賛辞であり、゙サイバーバンクを超える!゛が惹句となった。ここに至って、SF作家あるいはサイバーバンク以降の作家としてのウォマック像が定着したかのように見える。
しかし、実際にA/T/Hを読んでみると、こうしたイメージは曖昧なものでしかないことがわかるだろう。このシリーズを仮に近未来ディストピア小説だと要約してみれば、たとえばジョージ・オーウェルの『一九八四年』やアントニイ・パージェスの『時計じかけのオレンジ』がただちに想起されるように、それは必ずしもSFの完全なサブジャンルだとは言い切れない。また、Aではスーパー・コンビュータが、そしてHでは超能力者が登場するが、そうした趣向は前景化されてSF的テーマになっているようにも見えない。シリーズの中でもっともSFに接近したTは、タイムマシンやパラレル・ワールドといったおなじみの道具立てを用いてはいるが、その扱い方は時代錯誤的に素朴であり、意図的に映画『バック・トウ・ザ・フューチャー』を下敷きにしたのではないかと思わせる点からも、これでウォマックをSF作家だと断定するのはかなりの無理がある。さらには、ウォマックがSFというジャンルをどう考えているか、わたしたちにはまったく情報が与えられていない。サイパーパンクとの関わりについても、事情は同様である。たしかに彼の作品とサイパーパンクとの共通項は少なからず存在する。しかし、明確な相違点もまた存在するのである。Aを語るときにしばしば引き合いに出されるのはギブスンのの『ニューロマンサー』たが、ウォマックは『ニューロマンサー』を知らずにAを書いたらしい。ここでもまた、作者自身のサイパーパンクに対するコメントはない。ウォマックはこうして、孤高の姿勢を保ちながら、黙って作品だけを読者に提出する。その静かなふるまいの中に、新人らしからぬ自信のほどを読み取ることはやさしい。
そういうわけで、わたしたち読者に与えられているのは、作品そのものだけしかない。ここでは、まずHを読むための手がかりとして、A/T/Hを通読した立場からの簡単な注釈をほどこしておく(括弧で示した数字は、本書の頁数である)。
・状況設定
A/T/Hをクロノロジーの順に並べ換えれば、H-A-Tとなる(ただし、Tではタイム・トラヴェルで時空間がいったん一九三九年のバラレル・ワールドヘと遡行するため、正確には〔T〕-H−A-Tというように表される)。三作に共通する時間経過を表す指標として用いられているのは、長年にわたって続いているロング・アイランドを中心とした内戦、そしてアメリカとロシアとの戦争であり、その断片的情報から計算すれば、H−AおよびA−Tの時間差はそれぞれ約十三年と十二年である。Hは一九九八年に設定されている(297)から、結局A=二○一一年、T=二○二三年とおよその年代が推定できる。ロング・アイランド内戦に始まり、経済危機、そして通貨改定による社会構造の再編成へと至るこの時期のことを、バーナードば潮吹き上げる時代(ebullient times)゛(12)と呼んでいるが、Aではこの呼称が定着しでthe Ebullition゛、あるいはさらに簡略化しでthe Ebb゛という言葉になっている。三作の中心となる組織が、世界を動かす超大企業のドライコ社である。その本社は、Tではウォール・ストリートにある(22)が、Aではロックフェラー・センターヘと移転している。
ドライコに対抗しうるロシアの組織がクラースナヤ(16)で、Tではこのクラースナヤの一員であるスクラトフという人物にドライコが接触するところから物語が始まる。ドライコが日本人研究者の援助を借りて開発中の、会話可能なスーパー・コンピューダアルゴリズミック・ロジスティカル・インタラクティプなんじゃらかんじゃら(Algorithmic Logistical Interactive whatchamacallit hoozis)゛(171)は、Aにおいて秘密裡に完成し、Tではドライコで日常的に使用されている。名前はアリス(Alice)で、パーナードが言ったこの正式名称の頭文字に、それが不完全ながら現れていることに読者は気づくだろう。アリスが設置される場所は、本書でもほのめかされるように、゙墓場゛(288)である。
・登場人物
ウォマックの六部作を結ぶ縦糸とでも呼べるのは、ドライコを創立したサッチャー・ドライデン(これは改名後の名前であり、本名は明らかではない)の一族である。サッチャー・ドライデン本人は、Aでは息子のサッチャー・ドライデン・ジュニア(Hではまだ十五歳)にドライコの経営を任せて引退しだおやじ゛(the Old Man)として登場。妻のスージイ・Dは、Aの一年前(二○一○年?)にすでに死亡しているが、その死の真相はドライデン家の秘密になっている。A/Hにおけるウォマックの力点は、国際企業間の対立抗争を描くことよりも、むしろそれを家庭内で再現したドライデン一族の対立抗争を描くことにあると言ってよい。ドライコの従業員としてA/T/Hすべてに登場するのは、ドライデンのボディガードとして雇われ育てられたジェイク。Hではまだガキにすぎない彼が成長していく姿を見るのは、A/T/Hを読むひとつの楽しみである。彼はAでは(おそらくオーツカから手に入れた)日本刀を持って出てくる。Tでは主要人物の一人として活躍し、プロの殺し屋としての腕を最大限に発揮して、ロシアの女性科学者オクチャブリアーナとのほとんどヤクザ映画的なラプシーンも演じる。
本書の中心となるジョアナとレスター・ヒル・マキャフリイは、すでにAで言及されていた人物である。そこでは、社会から切り捨てられた人間たちが作った集団〈アンビエント〉たちが、ジョアナの幻視を綴った書物を一種の聖典代わりに使っている姿が描かれている。救世主として現れたレスターの教えを広める、いわば使徒の役割を果たしたのがジョアナなのだ。荒野と化したロング・アイランドのどこかに、まだジョアナは隠れ往んでいるというのが、アンビエントたちの信念でもある。
ここで、ジョアナを手がかりにして、ウォマックの人物造形法を少し見ておきたい。超大企業が国を牛耳り、戦争・殺人・暴力が日常化した陰惨なウォマックの世界において、彼が共感をこめて描く人物たちはすべてヒューマニスティックな扱いを受けている。その際に鍵となるのは、個人個人が胸の奥にしまっている、痛ましい過去の記憶である。Hにおいては、ジョアナとレスターだけではなく、エイヴィのような脇役たちにもそうした生々しい記憶が与えられている。その過去を呼び戻す瞬間のウォマックの描写は、きわめてリアルである。すなわち、彼らはこの世界に生きる痛みを背負った、現実感のある存在になりえているのだ(これは、Aの語り手シェマス・オマリー、Tの語り手ルーサー・ビガースタッフについても、完全にあてはまる)。近未来のディストピアを描く小説がおおむね諷刺小説になり、人物像が戯画化され抽象化される傾向があるのに対して、ウォマックがその陥穽を避け、人工的な文体と架空の状況設定を用いながらも、なおかつリアルな現在の世界とそこに生きる人間を創造しえているように思えるのは、おそらくそのためである。こうした小説観は、旧来からの伝統的なものだと言ってしまうことも可能だ。しかし、ウォマックの力強さがまずそこにあることは、否定しがたい事実ではないだろうか。
さらにジョアナを手がかりにして議論を続けるならば、ウォマックは一作ごとに語り手の選び方を自らに課したチャレンジとしている。なぜTで黒人が語り手として選ばれなければならなかったか。なぜHでユダヤ人女性が語り手として選ばれなければならなかったか。もちろん、後者の間いに対する答えは、本書を読み終えた読者なら容易に導き出せるだろう。語り手の選択は、つねに小説の主題と密接につながっているのである。Aの書評では、女性が充分に描けていないとする手厳しいものもあった。ウォマックはHでその批判に答えようとしたのかもしれない。それはともかく、本書で彼はそのチャレンジに成功したと評価したい。
・言語
多彩な言語を駆使するウォマックだが、三作の中ではHがもっとも読みやすい。それでも、この翻訳を読んだだけで、ウォマックがスタイルに凝る作家であることは納得できるのではないか。
Hで異様な言葉として目立つのは、“ポスト文字(postliterate)”(205)の世代であるジェイクおよびドライデン・ジュニアが使う言語である。たとえばドライデン・ジュニアの゙パンして(“Bread me.”)゛(233)というのがその典型的な例。名詞をそのまま動詞として転用してしまうわけだ。ウォマックの記念すべき第一作Aの、しかも冒頭の第一章でこのドライデン・ジュニアが登場して、いきなり「本屋しろ」(=本屋に行ってくれ)(“Bookstore me”)と言う箇所がある。そこがわたしのウォマック体験の原点であり、暴力描写よりもなによりも、まずこの言葉に驚いてしまったものだ。これはビジネスマン特有の“ビズ思考(bizthink)”(19)であり、スージイ・Dもときおりこの口調になっでリストして(List me)゛(19)と言ったりする。他に、゙必須化(essenntialled)゛(17)、゙AO(AOすなわちA-OK=了解)゛(25)あたりがウォマックを読むための必須単語と言えそうだ。Tでは、この言語を使う語り手およびジェイクがタイム・トラヴェルで一九三九年の世界に迷い込むと、言葉はさっぱり通じなくなってしまう。これは三作の中でもっともユーモアに満ちた場面である。
人工言語としてウォマックが発明した最高のものは、やはりAでアンビエントたちがしゃべるバロック風の言語であろう。ここでウォマックは、人工言語を詩的に響かせるという離れ技をやってのけている。Aが翻訳困難な理由はそこにある。しかし、それがスタイリストとしてのウォマックの美点でもあるのだ。彼が使う言葉は、『時計じかけのオレンジ』におけるナドサット語のように一様な機械性を感じさせることがなく、ときには非人間的なまでにドライになり、またときには驚嘆するほど詩的になる。ウォマックを初めて読む読者はしばらくとまどうことになるが、いったんウォマック語のリズムに慣れれば、それは心地よく聞こえてくる。独特のスタイルを持っていること。それはまさしく作家であることの証に他ならない。この点で、ウォマックはギブスンと肩を並べる。
人工言語だけではなく、様々な国や地域の言葉もミックスされていることを書き落とすわけにはいかない。Hの日本語、Tのロシア語の使用は、ウォマックの言語への愛が半端なものではないことを感じさせる。しかし、本書で使われる言葉の中で、最大のキーワードになっている題名の『ヒーザーン』についても一言しておこう。この題名の多義性については読者の解釈に委ねることにして、ここで強調しておきたいのはその地域性である。この言葉を最初に使うドライデンは、ノース・キャロライナ州の出身であり、゙異教徒゛を意味する゙ヒーズン(heathen)゛を゙ヒーザーン(heathern)゛と南部風に発音する。そしてレスターも、ドライデンと同じ発音をするのである。レスターは、作者ウォマックと同じで、ケンタッキイ州のレキシントン生まれ。ウォマックの経歴はほとんど明らかにされていないとわたしは書いたが、レスターが語る少年時代の故郷の記憶には、おそらくウォマック自身の記憶が書きこまれているのだろう。付け加えておくと、南部の現実がもっとも大きく扱われているのはTで、その『テラブレーン』という題名はデルタ・ブルース歌手ロパート・ジョンソンの〈テラプレーン・ブルース〉から取られているし、内容的にも黒人奴隷間題が主題のひとつになっている。
・宗教性
救世主の出現をめぐる物語として宗教色に濃く彩られたHで印象に残る言葉は、゙善神(よがみ)(Godness)゛(41)である。この言葉そのものは、゙神(God)゛ど善(Goodness)゛の合成語であると考えられる。Aでアンビエントたちが信奉するレスターの教義を引用すれば、゙創造主は創造行為の途中でふたつに分離した。ひとつは男性で、邪悪なるもの。もうひとつは女性で、善なるもの゛。ここでわたしたちは、ジョアナが果たすべき役割を理解する。ただし、このウォマックの近未来では、最終的にジョアナナは世界を救うことができない。そのような楽天的な解決は、初めから禁じられている。そのひとつの証拠には、レスターとジョアナの絆とは対照的に、サッチャーとスージィの夫婦関係が併置されていることが挙げられよう。救世主の出現というメイン・プロットに、ドライコ社員の変死というミステリ風のサブ・プロットがからむ構成は、実はこの二組の男女の配置とパラレルになっている。そこでは、ジョアナに対応するスージイについて、女性=善なるものという規定が通用しないことに注意すぺきだろう。
それでは、レスターの教義に対応する、サッチャーの信仰は何か? それは言うまでもなく、エルヴィス崇拝である。彼はエルヴィスがまだどこかで生きているという妄想を信じている。聖書の信憑性が疑われる新事実が暴露されたAの世界では、彼はミサ聖祭のパロディとも言えるエルヴィスを讃える式典を執り行うまでになり、それを゙E教会゛(Church of E)と呼ぶ。これももちろん、英国国教会(Church of England)のパロディだ。神なき世界の祭祀サッチャーにまことにふさわしい信仰である。サッチャーが期待するとおり、エルヴィスは再びこの世界に現れるのか?――
――そしてウォマックは、シリーズの第四作として『エルヴィッシー』Elvisseyの刊行を予告している。年代としては、Tより十五年後の物語になるそうだ。この原稿を書いている時点で、まだ『エルヴィッシー』は姿を現していない。わたしたち読者は、『エルヴィッシー』の降臨を待ち望んでいる。