28 Edgar Pangborn, The Trial of Callista Blake (1994)
野暮で重たく誠実で・・・
都会派小説という言い方がある。ちょっとお洒落な雑誌に載っている、垢抜けした小説で、一昔前のニューヨーカー誌がそういう用語を定着させたのかもしれない。たとえばアーウィン・ショーの名短篇「夏服を着た女たち」なんかがその代表的な例で、大都会を舞台にして、舌を巻くほど巧くて、程良くアイロニーが効いていて……というのがその特徴だ。そして、人間誰しもこういうセンスの良いものにはコロリとまいってしまうものである。
それに対して、センスが悪いものというのはどの分野にもあるので、もし都会派小説の逆を考えるなら、それは田舎派小説とでも名付けられるだろうか。これはべつに、田舎を舞台にしていなくても可能なので、要するに派手なところも洒落たところもなく、凡庸かもしれないことを地道に追求したりするようなタイプの小説がそれに当てはまる。そして当然ながら、そういう小説を書きつづける田舎派作家には、あまり読者がつかない。従って、忘れられてしまうことも多いわけだ。ところが、最近になって、どうも歳の加減か、田舎派作家のことがなぜか気になる。都会派小説に憧れるのは、その人自身の田舎性の表われではないかとまで思うことすらある。「失われた小説を求めて」と題した本連載には、そういう忘れられて当然の田舎派作家こそ取り上げるにふさわしいのではなかろうか。
ミステリのジャンルでは、すぐこれと思いつく作家はいないが、SFなら何人か出てくる。まず、『都市』のクリフォード・D・シマックが、田舎を舞台にしたものが多い点でも典型的。正直なところ、わたしはこの人の小説ののろさについていけない。そして今回紹介するエドガー・パングボーンも、かなり立派な田舎派である。パングボーンの単行本として邦訳が出ていたのは、おそらく『観察者の鏡』一冊だけだったと思う。国際幻想文学大賞受賞作であるこの作品は、マサチューセッツにある小さな町を舞台にして、人間の姿をした火星人二人が、ある天才少年をめぐって争うというアウトラインの小説で、これがどうして「国際」幻想文学大賞なのかと思うほど、どこまでも地味である。よく考えてみれば、シマックの『都市』もこの賞の受賞作なのだから、これは何か一定の傾向なのか。
わたしが持っている『観察者の鏡』のペーパーバック版には、著者近影が付いていて、それで見るパングボーンの顔はいかにも田舎くさい。ハッタリを思わせるところはまったくなく、ひたすら誠実な人柄で、孤独にコツコツと小説を書いているといった印象だ。その顔がなぜか忘れられなくて、彼の代表作と言われる近未来SF『デイヴィー』(Davy, 1964)を読み、そしてSFというジャンルを離れた法廷小説『カリスタ・ブレイク裁判』(The Trial of Callista Blake, 1961)を読んでみた。先月号には、後者のことを「法廷ミステリ」と書いたが、ここでそれは訂正しておかねばならない。これは法廷小説であって、法廷ミステリではなかったのだ。つまり、クリスティーの「検察側の証人」に代表されるような、あっと驚く新事実が明らかになったりする展開はこの小説にはない。これをエンターテインメントのつもりで読みはじめると、その期待は確実に裏切られる。
物語の中心になる裁判は、次のようなものである。ウインチェスターという架空の町で、カリスタ・ブレイクという一九歳の女性が、妻帯者のジムという男性と一夏の体験を持ち、妊娠する。彼女は一時は自殺を決意し、毒入りのブランデーを用意するが、結局自殺するだけの勇気がなかった。ある日、彼女はジムの妻アンを呼びだし、事の次第を説明するが、その後で吐き気を催して寝室に閉じこもる。アンは気付け薬にとブランデーを注ぎ、思い直して、それを自分で飲んでしまう。そしてカリスタの部屋から出て、車で去っていく。カリスタは事の重大さに気づいて後を追うが、アンが自宅の近くにある池で溺れ死んでいるのを発見する。これがカリスタの側から見た事件のあらましである。しかし検察側は、状況証拠から判断して、カリスタがアンに毒入りのブランデーを飲ませてから溺死させたのだと主張する。はたして無罪かそれとも電気椅子送りか。物語はこうして開廷とともに幕を開ける。
ここでパングボーンは、この裁判を魔女裁判やジャンヌ・ダルク裁判に重ね合わせている。それと同時に、彼はじっくりと、カリスタを中心にして、裁判長、弁護士、そしてカリスタの唯一の友人であるイーディスという女性の心理を書き込む。そこで強調されるのは、強靭で独特の思考法を持ったカリスタという一人の人間に対する、町の人間たちの不寛容性であり、裁判制度の非人間性である。人間性というテーマこそは、このパングボーンというあまりにも誠実な作家が『観察者の鏡』や『デイヴィー』でも追求していた問題なのだ。この小説では、エンターテインメントにはつきものの御都合主義的な解決は存在しない。『ハムレット』が下敷きに使われているところからも、これが悲劇に終わることは明らかだ。ここでは、アメリカの理想である正義が実現したりはしない。検事の反対尋問を受けて、激情したカリスタは、ついに言ってはいけないある真実を口にしてしまう。
小説を読み終わる時点で、読者はようやくこれが最終的にはキリストの受難劇だったことに気がつく。カリスタはこうして社会によって葬られる。独自の個性がひとつ失われたことは、しばらくするとごく少数を除いて大多数の人間から忘れられていく。わたしには、もしかすると、パングボーンが自らをカリスタに投影しているような気がしてならない。テーマもその扱い方も、いかにも重い作品だが、その野暮さが妙に印象に残る。これが田舎派の持ち味で、小説というものの本当に大切な部分はそこにあるのかもしれない。