TWICE TOLD TALES

Book Review Archive

若島正


4 Peter Straub, The Throat, 1993


共感の小説


 短篇「ブルー・ローズ」(短篇集『扉のない家』所収)に端を発した、ピーター・ストラウブのいわゆる<ブルー・ローズ三部作>も、『ココ』(一九八八)、『ミステリー』(一九八九)、そして本書『喉』(一九九三)がすべて翻訳されて、ようやく日本の読者にもその全貌が明らかになった。ストラウブの略歴や、この<ブルー・ローズ三部作>に至るまでの著作活動については、『ミステリー』に付けられた宮脇孝雄氏の解説や、栗原知代氏による『扉のない家』訳者あとがきに詳しく述べられているので、そちらの方を参照してほしい。ここでは、もっぱら議論を<ブルー・ローズ三部作>とりわけこの『喉』にしぼって話を進めていく。

 まず、三部作における構成から。ヴェトナム帰還兵たちの物語『ココ』はそのほとんどが三人称で語られるが、最終章だけはティム・アンダーヒルによる一人称の語りである。そこに登場するハリー・ビーヴァーズの少年時代を描いたのが短篇「ブルー・ローズ」になるが、その短篇は『扉のない家』での設定では作家ティム・アンダーヒルが書いたものだということになっているので、ストラウブの言葉によれば、『ココ』のハリー・ビーヴァーズと「ブルー・ローズ」のハリー・ビーヴァーズとは必ずしも同一人物ではない。第二作『ミステリー』は全篇が三人称で語られ、トム・パスモアを主人公とする。時代は一九五〇年代半ばだが、ストラウブの作品のつねで、現在にも影を投げかける過去の犯罪の真相がこの小説における探究の中心となる。ここではすでに、ブルー・ローズ連続殺人事件が話題となり、『喉』の主な舞台の一つとなるセント・アルウィン・ホテルも言及されている。こう見てくると、<ブルー・ローズ三部作>完結篇の本書『喉』は、『ココ』と『ミステリー』を統合した構成になっていることがわかるだろう。語りの形式は、ティム・アンダーヒルによる一人称の語りである。物語の中心となるのは、ミルヘヴンで四十年の時を隔てて鏡映される二度のブルー・ローズ連続殺人事件で、そのちょうど中間に、ヴェトナム戦争での極限体験がいわば鏡として配置されているという趣向だ。ティム・アンダーヒルは、この連続殺人の謎を、父親の稼業を受け継いだ素人探偵トム・パスモアの助力を借りて解決する。

 なお、『喉』の記述によれば、『ココ』と『ミステリー』はいずれもティム・アンダーヒルがストラウブと共同で書いた作品だということになっているが、これは現実と虚構との境界線を曖昧にしながらも、最終的には作品の虚構性を強調する、ストラウブ好みの遊びである。これと同様の趣向は、本作品で一つの鍵となるフィルム・ノワール『危険の淵から』(From Dangerous Depths) にも見られる。非常にもっともらしく巧妙に仕立てられているので騙された読者もいるかもしれないが、ロバート・シオドマクが撮ったということになっているこの映画は、実は架空の映画である。そこに出演する俳優たちや、この小説で言及される映画は、どれもすべて実在するものばかりなのだが、この『危険の淵から』だけは実在しない。というか、この『喉』を読み進めていくあいだ、読者の頭の中のスクリーンに投影される物語こそが『危険の淵から』という映画であり、従ってそれは『喉』の中にしか存在しない、現実と虚構との中間領域に浮かびあがる映画なのだと言うほうが正しいだろう。

 ちなみに、<ブルー・ローズ三部作>の世界はこの三作で閉じられるわけではなく、短篇集『扉のない家』(一九九〇)にティム・アンダーヒルが書いた小説という設定の「ブルー・ローズ」と「レダマの木」の二篇が収められるという形で、さらに拡がっていることも注意しておく必要がある。要するに、この三部作およびそれに付随する数篇で見られるのは、細部を書き込みふくらませることによって、小説世界をより奥行きのあるものにし、互いが互いを照応しあう共鳴に満ちたものにしようとする、ストラウブの継続的な努力である。それは、初期の代表作でありベストセラーになった『ゴースト・ストーリー』(一九七九)の成功に満足することなく、たえず自己を革新しようとする姿勢の現れだとも言えよう。

 さてそれでは、<ブルー・ローズ三部作>は、内容面ではどのような特徴もしくは変化が認められるか。まず第一にはっきりしているのは、ジャンル・フィクションとしてのいわゆるホラー小説からは微妙に離脱している点である。『ゴースト・ストーリー』を頂点とした、スーパーナチュラルの路線は、The Floating Dragon (一九八三)を最後にして一応の終止符が打たれている。もともとそうした小説群でも、超自然的要素は人間の深層心理を探究する手段として用いられていたという色合いが強く、その意味では、ストラウブとしてはジャンルとしてのホラー小説を踏み台にして、本来書きたいものを書きたいように書けるという望ましい状況が到来したのだろう。従って、この三部作(とりわけ『ミステリー』と『喉』)は、過去の殺人事件の謎をめぐる物語だという点で、ジャンル的にはホラーよりもミステリーまたはクライム・ノヴェルに近い。その手法も、いったん犯人や真相が明らかになったと思わせてから、また新たな犯人や新たな真相が浮かび出てくるというどんでん返しの連続で、たしかにミステリー的である。これは、『喉』の背景にあるのがレイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』であると作者自身が認めていることからも、自然と言えば自然かもしれない。しかし、『喉』は通常のミステリー愛読者が楽しむには、その人物関係とプロットがあまりにも錯綜としている。そして、この小説の多岐を極める謎が一点に集約されてしまう最大の瞬間――語り手のティム・アンダーヒルが、この巨大なジクソー・パズルのしかるべき位置に収まる瞬間――には、読者はおそらく推理小説のある有名な古典作品を思い出すかもしれないが、それと同時に、その古典作品における真相の開示がもたらす明快なカタルシスとは逆で、この『喉』の闇の奧にある真相がただ恐ろしい底なし沼しか見せないことを意識するはずなのだ。『喉』では、過去を葬るという鎮魂の儀式が、唯一のささやかなカタルシスとして読者に与えられる。結局のところ、こうしてストラウブが近年に到達した場所を、ホラーかミステリーかなどとジャンル的に言い当てようとするのは無意味に近い。これを純文学的傾向として敬遠する向きもエンターテインメント系の評論家に多いが、それもまたあまり意味のあることだとは思われない。要するに、われわれが読んでいるのは「小説」であって、それ以外の何物でもないのだということを再確認しさえすればそれでよいのである。単に小説として読めば、これほど細部が緊密にからまりあい、重厚かつ複雑な構成であって、しかも読者を退屈させることなく最後まで引っぱっていくだけの力がある小説は数が少ない。

 <ブルー・ローズ三部作>で特徴となる第二点は、すでにふれたが、現在に影響を及ぼす過去の探究である。これはなにもこの三部作に限らない、ストラウブが初期の頃から継続して扱っているテーマでもある。その過去の探究は、いわばその探索者の心の旅でもあり、最終的には<私探し>にもつながり、それが作家ティム・アンダーヒルにとって(あるいはその向こう側にいるストラウブにとって)書くという行為の意味にもつながっている、というのが『喉』の基本的な構図だ。ここで、鏡映関係にある四十年を隔てたブルー・ローズ連続殺人事件のちょうど折り返しの位置に置かれたヴェトナム戦争体験は、文字どおり鏡の機能を果たしており、その帰還兵たちが織りなす現在進行中の物語に直接影響を与えると同時に、間接的には、肉塊と化した死体のイメージが忌まわしい過去におけるある物体のイメージへとつながる形で、決定的な啓示を導き出す伏線になっている。そこでも、ストラウブが強調するのは、なまざまな極限状況下での狂気であり、悲惨であり、孤独である。それがすべて登場人物たちの内面の奧深くに鬱積する。小説の中で展開されるアクションは、すべてがそうした沈澱物の噴出に他ならない。『喉』できわめて顕著なのは、登場人物たちがほとんど例外なく閉ざされた心理の奥底に何かを隠しているという事実である。殺人現場に残される<ブルー・ローズ>の署名は、そうした隠れた謎を一括するシンボルとなる。空間的にも、地下室や狭い部屋、映画館やトンネルなど、暗い閉所が多用されるのはこうした深層心理の現実的投影であり、さらにはミルヘヴンという町全体も一種の閉息状況に陥っている(『ゴースト・ストーリー』で、雪に閉ざされた町ミルバーンが象徴的だったことを思い出してほしい)。言い換えれば、彼らはみな「扉のない家」の住人なのだ。その扉のない家に隠されているものを明るみに出せば、それはフロイト的な原初風景だということになろう。それは必ずしも(特にミステリーという枠内においても)それほど目新しいものではない。虚偽の真実で幾重にも包まれたものを剥いていけば、最後に行き当たる本当の真実がそうした比較的陳腐な原初風景であるという点は、わたしが『ミステリー』と『喉』に対して感じる唯一の不満である。ただ、『喉』は『ミステリー』に比べて、そこの処理がはるかに巧妙に仕組まれているのが買えるところだ。そしてその処理の仕方とは、語り手の作家ティム・アンダーヒルが小説を執筆中であるという、いわゆるメタフィクション的な趣向に大きく関係している。

 「わたしはあなた」という『ゴースト・ストーリー』(これも優れたメタホラーである)の中心テーマが反響としてはっきりと聞こえるのは、アンダーヒルが決定的な認識を得る、まさしくその一瞬である。その瞬間が読者にとって衝撃力を持つのは、他者の悲惨や孤独といった感情が一気にアンダーヒルに流れ込み、さらには小説の枠を超えて、われわれ読者の心の中にも洪水のように流れ込んでくるからだ。つまりこの小説は、ある意味で「共感の小説」である。作者が小説を書き、そして読者が小説を読む、その体験の核になるものはそうした共感だろう。『喉』におけるメタフィクション的な装置は、そうした感情を作者−登場人物−読者の間に発生させるのである。

 最後になったが、この<ブルー・ローズ三部作>(そのうち『ココ』と『喉』)が、ヴェトナム戦争小説としても独特な位置を占めることを指摘しておきたい。わたしの評価では、『ココ』と『喉』は、ジョー・ホールドマンの『永久戦争』(The Forever War, 1974) や、ティム・オブライエンの『カチアートを探して』(Going after Cacciato, 1978) に並ぶ、ヴェトナム戦争小説の傑作だと思う。その際注目すべきは、ホールドマンもオブライエンもヴェトナム帰還兵という実体験を持つのに対して、ストラウブにはまったくそのような体験がなく、帰還兵たちとのインタヴューを元にしてひたすら想像力でヴェトナム戦争を描いたという点である(SF作家のホールドマンは、ストラウブにそうした貴重な体験を語って聞かせた協力者の一人でもある)。その意味では、戦争経験のない作者によって書かれた戦争小説の傑作として、このストラウブの二作はノーマン・メイラーの『裸者と死者』の系譜につながる作品だと言えるかもしれない。ここでストラウブの関心は、ヴェトナム戦争を直接に描き出すことにあるのではない。ヴェトナム戦争とは人間の心にとって何か、ヴェトナム戦争が表象する人間の体験とは何かが、彼にとって最大の関心事なのだ。

 『喉』でひとまず<ブルー・ローズ三部作>を決着させたストラウブが、これからどういう方向に進むのか、それが興味深い。ただひとつ推測できることは、おそらくさまざまなジャンルのテクニックを取り入れつつも、「小説」と呼ぶことしかできないようなものを書くだろうということだ。わたしのような小説読みにとっては、そういう期待を満足させてくれるはずの次作が待ち遠しい。



(初出 扶桑社『スロート』解説)
upload 98/10/20


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