6 Stephen King, Needful Things
魔法のお店の裏側
「あんた、初めてじゃないね」
この言葉がプロローグのタイトルとなって、スティーヴン・キングの『ニードフル・シングス』は幕を開ける。そして、その同じ言葉がまたエピローグのタイトルともなって、原書のペーパーバック版なら約八百ページ、翻訳にして上下巻合わせて二段組みで同じくらいという、いかにもキングらしいとてつもない分量の大長編は幕を閉じる。
実際、その言葉のとおりに、ここではすべてが初めてではない。この分厚い新刊『ニードフル・シングス』で初めてキングを手にする読者など想像できないのだし、われわれ読者はたいてい『呪われた町』か『シャイニング』か『IT』あたりをすでに読んでいて、とうの昔にキングの愛読者になっている。そうすれば、舞台となるキャッスル・ロックというメイン州西部の架空の田舎町は、訳者あとがきにもあるように、『デッド・ゾーン』『クージョ』『ダーク・ハーフ』といった長編や中編「スタンド・バイ・ミー」をはじめとしてキング読者にはおなじみの町であることくらい知っているのだし、保安官アラン・パングボーンやエース・メリルといった登場人物たちにももう会ったことがある。なにしろこのキャッスル・ロックという地名は、キング愛好者のための月刊通信紙のタイトルにも使われていたほどなのだ。
初めてではないのは、それだけにとどまらない。『ニードフル・シングス』という題名を見てまず思い出すのは、短編集『ナイト・シフト』に収録されていた “I Know What You Need”(邦題「悪魔のキャンパス」)という短編で、その連想どおりに、これはどちらも、自分のいちばんほしいものを知っている謎の人物が現れて心を虜にされるというテーマで共通している。違いはといえば、短編ではその謎の人物が一種の予知能力者にとどまっていたのに対して、長編ではそれがずばり悪魔そのものであること。そして、短編では一人の女子大生の身に起こる出来事であるのに対して、今度はキャッスル・ロックの住民のほぼ全員が悪魔の手にかかること。
この悪魔というのが、大昔から使い古された手であるのは、今さらなにも言う必要もない。『呪われた町』では現代風吸血鬼小説の決定版をこしらえあげて、一つの町を破滅させてみせたキングだが、今度はそれよりももっと露骨な形で、誰の目にも悪魔とわかる人物を登場させて、キャッスル・ロックをぶっつぶしてやろうというのだ。
リーランド・ゴーント氏という謎の男がどこからともなくキャッスル・ロックに現れ、町の一角に〈ニードフル・シングス〉という奇妙な骨董屋の店を開く。その店に吸い寄せられるようにして入っていった町の住民たちは、ゴーント氏に心の奥を見抜かれて、本当に欲しいと思っていた品物をただ同然の値段で手に入れ、その代わりに、ちょっとした悪戯をある人物にすることを約束させられる……。
こうあらすじを書いていてもこちらが気恥ずかしくなるほどの、〈魔法のお店〉および〈悪魔との契約〉といった使い古しの趣向であり、悪魔が人間から奪っていくものは魂と古来より相場が決まっていて、また実際にこの小説ではそうなってしまうから驚きなのだが、キングはそうした小説を書くことを破廉恥だとは思っていない。いやむしろ、破廉恥なことを平気な顔をして堂々とやってのけることこそが、いかにもキングらしいところなのだ。誰にでも筋書きが予測できそうな、今までに百万回語られたような陳腐な設定で、しかもとんでもない大長編を、俺の筆力で最後まで読ませてやろうじゃないか……そうキングは高飛車に出ている。まことに大した自信である。しかし、読者は最初のページをめくって、この『ニードフル・シングス』という魔法のお店にいったん足を踏み入れたらおしまいで、もう確実に最後のページまで読んでしまうことになり、これだけありふれた話をこれだけ読ませられたキングに参りましたと頭を下げるしかない。それをもともと承知の上で、キングはこうした暴挙に出ているのである。
それでは、キングはどうやって読者の魂を奪うのか。それは、多数登場する、この町の住人たちを通してである。要するに、彼らの欲望のありよう、それが実にリアルなのだ。たとえば、いちばん最初にこの魔法の店をのぞく、ブライアン・ラスクという少年。彼は野球カードを集めていて、サンディ・コーファックスのカードがほしくてしかたがない。実を言うと、わたしはこのくだりを読んで、キングに魂を持って行かれた。わたしも子供の頃、野球ガムについているおまけの十二球団選手カード集めに夢中になり、しょっちゅう悪友たちとカードのトレードをしていた経験があるからだ。いったいどうしてわたしの少年時代の記憶をキングは知っていたのか? まだ他にも、「キング」ことエルヴィス・プレスリーとのめくるめくセックスを夢想する中年女性などなど、誇張され戯画化されてはいるものの、このキャッスル・ロックの住民たちの中には、少なくとも一人は読者とほぼ等身大の人間がいる。つまり、キングの小説は、あたりまえのことだが、ホラー小説である前にまず「小説」なのだ。
最新短編集『悪夢と夢景』(一九九三)につけた自注で、この長編のことを「欲とオブセッションについてのブラック・コメディ」とキング自身が語っているように、キャッスル・ロックの崩壊(あるいはその住民たちの破滅)の物語は、悪魔という超自然的な外的要因の助けを借りなくても実現可能であっただろうし、またわたしはそのようにリアルな部分でこの小説を読んでいる。全編でもっとも印象に残る場面といえば、第七章で、手品を得意とするアラン・パングボーン保安官と手の痛みに悩まされているポリー・チャーマーズが愛し合うくだり。この部分は、おそらくキングがこれまでに書きえた、最高に美しいラヴ・シーンではなかろうか。この深い愛に結ばれた二人は、読者の共感をこの時点で獲得する。ゴーント氏がはっきりとした悪玉なら、アランとポリーははっきりとした善玉だ。他の住民たちは、すべてその中間の灰色的存在であり、悪に染められることになる。たとえ他の全員が悪魔の手にかかって魂を奪われることになっても、この二人だけにはそのようなことが起こってはならない、と読者は祈る。しかし、起こってはならないことが起こるのが物語運びの常道でもあり、まずポリーがアズカなるお守りを首から掛けることでいったんアランへの愛を見失う。そしてポリーが真実に目覚めたときには、今度はアランが我を失う。このあたりのサスペンスの盛り上げ方は、当然とはいえうまい。
長編で町の崩壊を描くには、一個人の破滅を描いた短編をいくつも集積してやればよい。このいわば掛算方式は、たとえば『トミーノッカーズ』でも試みられたキング流長編作法の基本なのだが、『ニードフル・シングス』ではそれに若干のひねりが加えられている。すなわち、AがふだんあまりつきあいのないBにちょっとした悪戯を行い、BはそれがCのしわざだと錯覚して、BとCに決定的な不和が訪れるという仕掛けである。しかし、複数の人物が関係するひねりはここまでで、このA→B→Cのいわば玉突きの図式を何度も何度も反復するのが『ニードフル・シングス』の基本的な構造であり、掛算方式に変更はない。それはおそらく、〈魔法のお店〉や〈悪魔との契約〉という陳腐な趣向を用いるのと軌を一にしている。キングには錯綜とした物語を書く意図は毛頭ない。話の構造は単純で見慣れたものであればあるほどいいというのがこの小説を貫く方針であり、キングは変化球をいっさい捨てて直球一本で勝負しようとしているのだ。
従って、話の直線的な筋を混線させ逸脱させる可能性のあるものは、すべて展開を与えられないままで放置される。たとえば、ブライアン少年が手に入れたサンディ・コーファックスの野球カードが、弟の目から見ればサミー・コバーグというほとんど無名の選手のカードであったように、三人称多重視点で語られるこの小説の「現実」は実は見定めがたく、『ニードフル・シングス』の小説世界はゴーント氏の店に足を踏み入れる人間の数だけのファンタジー世界を継ぎ合わせた形になっていて、その複数の世界がオーヴァーラップする瞬間を想像することもできよう。それは、第十五章で、ブライアンの先生であるサリー・ラトクリフが、誰か聞き覚えのある女性の声を不意に幻聴で聞く場面である。次節で描かれるゴーント氏とポリーの会話に照らしてみれば、その声の主はポリーであり、あたかもゴーント氏が一種のTV装置となって、サリーのチャンネルとポリーのチャンネルが混線してしまったような具合なのだ。ここでは住民たちのファンタジー世界がさらに大きくゴーント氏のファンタジー世界に呑み込まれてしまう可能性が示唆されているわけだが、キングはそうした線をそれ以上追求しようとはしない。それと同様に、第十章の冒頭では突然正体不明の「私」なる語り手が姿を現し、三人称の叙述に一瞬破調が訪れて読者を驚かせるが、これも一瞬の出来事でしかない。さらに、第十二章と第十四章で、ゴーント氏の命令を受けてエース・メリルがボストンに派遣されるくだりでは、ラヴクラフトの神話体系世界が二度ほのめかされるが、キング作品のつねで、そこから先、『ニードフル・シングス』の世界がラヴクラフトの世界と直接に交叉することはついに起こらない。[なお、翻訳ではこの二カ所の言及を読み落としている。下巻○ページの「レング高原」は日本の読者には「レン高原」として知られているし、○ページ「ヨグ・ソトスの法則」は意味不明で、発音の表記は諸説あるものの、大瀧啓裕氏に倣えば「ヨグ=ソトホース支配す」となる。いずれも、「未知なるカダスを夢に求めて」および「ダニッチの怪」といった諸作品でラヴクラフト読者にはおなじみの固有名詞である。芝山幹郎氏の訳は、全体に歯切れがよく、キングの下品さをうまく伝える名訳であるだけに、この瑕瑾はホラー小説愛読者として残念だ。]
こうして、反復または掛算の原理を物語の隅々にまで徹底させながら、この小説は「善い魔術」と「悪い魔術」の対決という派手なクライマックス場面へと進み、一応は善玉が勝利して悪魔は退散するが、エピローグではふたたび「あんた、初めてじゃないね」が繰り返されて、また別の場所で似たような事件が起こることが暗示されて終わる。とにかく唖然とするほどの紋切り型で、これがキングの自信のあらわれだと解釈する以外にないことは、すでに述べたとおりである。『ニードフル・シングス』は、キングの全作品中でもとびぬけて単純かつストレートな物語であり、読んでおもしろければ素直にキングに脱帽すればいいので、それ以上この小説について語るべきことがあるとは思えない。そしてまた、最良の大衆小説というものは、それでいいのかもしれない。批評家の世迷い言をはなから相手にしていないキングのことだ、ここでわたしがあれこれ書いてきたこともまったく無意味なのかもしれない。たしかに、これまでに書かれた多くのキング論は、キングの反復の原理が感染するのか、どれもつまらない繰り返しにすぎないものばかりなのだから。
しかし、あえてこの小説が抱える最大の「問題」を指摘するとすれば、それは最終的に『ニードフル・シングス』というタイトルのもつ含意に帰着するだろう。悪魔のゴーント氏が経営する〈ニードフル・シングス〉という店に、キャッスル・ロックの住民たちが客としてやってくるという構図。それは、作者のキングがこしらえた『ニードフル・シングス』という小説に、われわれが読者として参入するというメタ・レヴェルの構図とぴったり重なる。われわれは『ニードフル・シングス』の中に己の秘められた記憶や夢想が投影されていることを知って驚く。読者の欲望は最大限に満たされ、すっかり満足しきってわれわれは『ニードフル・シングス』から出ていく。それも、悪魔のキングに魂を奪われるという代償を払って。だが、われわれの欲望を満足させるこの『ニードフル・シングス』という品物、あるいはキングの全作品、ひいてはすべての小説は、それほどまでにどうしても「必要な物」すなわち「ニードフル・シングス」なのだろうか?
この小説にモラルがあるとすれば、結局はそこだ。第二十三章のクライマックスでポリーが言う台詞、「アラン、わたしね、あの痛みが消えてくれることを心底望んでいた。喉から手が出るほど、そうなることを望んでいた。でも、痛みが消えてくれる必要はなかったの。わたし、あなたを愛することができるし、人生を愛することもできる。でも、それと同時に痛みをかかえていくことだってできるわ。痛みがあれば、ほかのものはもっと輝くかもしれないし……」が、すべてを代弁している。つまり、『ニードフル・シングス』というタイトルはアイロニカルで、「必要な物」は本当のところどうしても「必要な物」ではない。だとすれば、小説についても同じことが言えるのではなかろうか? たしかに小説はわれわれにとってどうしても「必要な物」ではない。短い時間の幻想にふけることで、現実の輝きが失われるという否定的効果だってあるだろう。それだったら、どうしてわれわれ読者は小説を読み、作家は小説を書くのだろうか? キング自身は、『悪夢と夢景』の序文の中で、「いい物語は、耐え難い人生の辛さをやわらげてくれる」とありきたりのことを言っている。しかしそれは、悪しき循環に陥る論法だ。第一、それだとゴーント氏がポリーの首に掛けたアズカとそっくり同じで、痛みの場所を移動させているだけではないか。
おそらく、この問題はキングにも解決できないことなのだろう。単純明快なこの『ニードフル・シングス』に存在する、悪くすると自己否定にもつながりかねない、ウロボロス的なリドル。それは、ベストセラー作家として自信たっぷりのそぶりを見せるキングにも存在する、微妙なゆらぎでもあろう。そしてそのゆらぎは、われわれ読者をも巻き込む。われわれが、何度も何度も「小説」という「魔法のお店」の扉をあける行為を繰り返すかぎり。