TWICE TOLD TALES

Book Review Archive

若島正


7 H. G. Wellsについて


小さな巨人


●ウェルズの二つの顔

 タイム・マシンという装置が誕生した、輝かしい作品であるH・G・ウェルズの『タイム・マシン』には、複雑な歴史がある。詳細な注釈をほどこした『決定版タイム・マシン』の編注者ハリー・M・ジェダルドによれば、ウェルズは改稿に改稿を重ね、その結果『タイム・マシン』は驚くべきことに少なくとも八種類のヴァージョンが存在するという。そのうち、一八八八年に「サイエンス・スクールズ・ジャーナル」誌に三回分載された、最初のヴァージョンである「時間飛行士」と題する短編には、当然ながら時問旅行の概念はあるものの、タイム・マシンという名の装置は登場しない。タイム・マシンが題名として選ばれるのは、一八九四年に「ナショナル・オブザーヴァー」誌に無署名で七回にわたって連載され未完に終わった、現存する第四のヴァージョンである。従って、最終的に本の形で出版されたのは一八九五年だが、タイム・マシンが誕生してから今年でちょうど記念すべき百年目を迎えると書いても誤りではないだろう。

 しかし、その百年という時間が、ウェルズ評価にどのような影響をもたらしたかを考えると、どうにもやりきれない思いがする。簡単に言ってしまえば、ウェルズはさほど読まれなくなってしまったのだ。時間あるいは歴史をつねに見据えていたウェルズが、時間によって浸食されるとは、なんと皮肉な運命ではなかろうか。もちろん、このウェルズ評価の退潮ぶりには、それなりの理由がないわけではない。膨大な数にのぼる彼の小説作品群を眺めてみれば、短編はもう宝の山と言っていいほどの粒揃いなのに、長編となると、現在の小説読者にとって読み通すのがかなり困難な、退屈きわまりない作品が多いのである。これは、社会思想家あるいは未来予言者としてのウェルズが、小説家としてのウェルズを次第に駆逐していったせいだろう。もっとも、近年では小説家ウェルズを再評価しようとする気運が多少の盛り上がりを見せ、『モロー博士の島』(一八九六)や『宇宙戦争』(一八九八)の詳細な注釈書が出版されたりしているが、ウェルズの決定的な復権までには至っていない。このように、ウェルズ評価が定まらない原因は、この予言者と小説家という二つの顔をどう扱うかが難しいからである。しかし、わたしが関心を持つのは、予言者ウェルズあるいは小説家ウェルズではなく、予言者であり小説家でもあるウェルズに他ならない。それは、この二面性が、ウェルズの作品と生涯のいたるところで反復されていると思うからである。

●幻想の未来からの逆照射

 ウェルズの小説をいくつか読んでいて気がつくのは、つねに「対置」を作品の構成原理にしている点である。たとえば『タイム・マシン』では、タイム・マシンを発明した「時間旅行家」やその友人たちが住むエドワード朝の社会と、モーロックとエロイという二つの種族に分かれた八○二七○一年という超未来の社会とが対置される。リッチモンドにある時間旅行家の邸宅を訪れて、時間旅行の可能性を議論する客の一人である、名前を持たない語り手は、この小説の書き出しと終わりの章を受け持ち、その中間部分の章は時間旅行家が語って聞かせる時間旅行体験記となる。ここで名のない語り手は、言うならばエドワード朝の一般人であり、タイム・マシンの現実性を簡単に信じ込んだりはしない。時間旅行体験は、あくまでも時間旅行家による文字どおりの物語にすぎないのであり、それを信じていい保証はどこにもないからだ。これは、ウェルズの小説にしばしば用いられる、一種の安全弁装置である。つまり、現実に起こるとはおよそ信じられないファンタスティックな体験が、それを体験したと称する人間の妄想にすぎないかもしれないという可能性を、語り手は表向き強調する。これは、エドワード朝の一般的読者にとって、途方もない物語を呑み込みやすくするための、用意周到な手段なのである。(タイム・マシンに疑似科学的な根拠を与えているのも、読者を抵抗なく物語の中に導き入れるためにウェルズが取った戦略にすぎない。『タイム・マシン』の新しさは、すでにいくつかの前例があるタイム・トラヴェルというアイデアに、そうした科学的根拠を与えた点だとする評価が一般的だが、それは必ずしもウェルズの意図したものではないだろう。)

 たとえば、短編「壁の中の扉」では、白い壁の中の扉のむこうにいわば桃源郷を発見したというライオネル・ウォーレスの体験は、その話を聞かされた友人である語り手レドモンドの口を通して語られる。本当にそんな扉があったかどうかは、一切証拠がない。あるいは、短編「水晶の卵」では、卵形の水晶の中に火星の風景や火星人を見たと称する骨董屋ケイブ氏の体験は、彼が憂欝症と不眠症をわずらっていたときのものであり、身心衰弱でケイブが死亡し、間題の水晶の卵が行方不明になってしまう結末では、それが事実であったかどうかは確かめようがない。しかも、ウェルズ本人と仮に想定してもかまわない名のない語り手は、その話を他人から聞いているのであり、ケイブの直接の体験からは幾重にも隔てられている。つまり、こうした語り手たちを通して、作者ウェルズはあたかも一般読者とともにファンタスティックな出来事に対する不信の念を共有するかのようなポーズを取ってみせる。しかし、それはあくまでもポーズであり戦略である。当然ながら、ウェルズの真の意図は、そうした不信を一旦停止して、幻想を現実よりもリアルなものとして受け入れてもらうところにあった。そのときこそ、幻想と現実、未来と現在はその立場を反転させるだろう。こうした、幻想から現実ヘ、または未来から現在への逆照射こそが、ウェルズの小説の多くに通底する構成原理なのである。

 従って、ウェルズの小説における幻想と現実は互いに鏡として作用しあい、二項対立と見えたものが脱構築される。ウェルズの幻想がその源を自伝的要素に持つのはしばしば指摘されるところで、『タイム・マシン』の超未来社会にも、ウェルズが生まれ育ったアトラス・ハウスの痕跡はかなり見受けられるのだし、モーロックが住んでいる洞窟には、ウェルズの母親が結婚前にアップ・パークというお屋敷に奉公していたときに往んででいた地下室のイメージが投影されていると論じる者もいる。その逆に、驚くべき幻想から照らし出されたとき、現実はそれまでとは違った姿で見えてくるだろう。『タイム・マシン』では、時間旅行家の邸宅に集まった客たちは、語り手を除いて、誰も時間旅行家の話を信じようとしない。彼らは現在時の一点に生きているのであり、超未来にまで至る壮大なパースペクティヴを決して手に入れることがない。短編「水晶の卵」では、ケイブが卵形の水晶の中に火星の光景を発見するとき、逆に、ケイブの営む種々雑多な骨董品が所狭しと置かれた店の中は、当時の閉息した社会をそっくり映し出すミクロコスモスとなる。そしてまた、『モロー博士の島』において、マッド・サイエンティストのモロー博士がおぞまし

い生体実験を行っていた孤島から帰還した語り手のエドワード・プレンディックは、周囲の人間たちがあの忌まわしい「獣人」に思えてしかたがない。孤島の中だけにとどまっていた実験が、大規模な形で現実の社会に起こりつつあるという妄想に悩まされるのである。この結末は、ウェルズの全著作の中でも、もっとも恐ろしいものだと言ってもかまわないだろう。

●小市民と世界人

 ウェルズの二面性、それは彼の生涯にも見られる。というか、彼のすべての相にわたる二面性の最終的な源をあえて求めるとすれば、おそらくそこに行き着くかもしれない。

 ウェルズは下層中流階級の出身で、十四歳のときに反物屋に丁椎奉公した。このときの体験は、自転車旅行を題材にした活気あふれる一種のピカレスク小説である『車輪の冒険』(一八九六)や、これをウェルズの最高傑作として評価する向きも多い風俗小説の『キップス』(一九○五)および『トーノ・バンゲイ』(一九○九)などに描かれている。こうして、『タイム・マシン』をはじめとする科学ロマンス群で、字宙の彼方あるいは未来の彼方へと壮大な想像力で飛翔するウェルズと、普通の小説で小市民の生活を哀感をこめて描いたウェルズとでは、ほとんど同一人物と思えないほどの落差がある。それは、『タイム・マシン』で一躍文壇の寵児となり、第一次大戦後は国際連盟実現に向けて尽力し、世界的な有名人となったウェルズと、小市民としての出自を持つウェルズとの落差だと言い換えることができるだろう。つまり、彼の人生は独学によって成り上がった男の出世物語なのである。そして彼は、そのことを充分に意識していた。このような成り上がりの出世物語につきまとう光と影は、『キップス』と『トーノ・バンゲイ』に、そして少年時代に扉のむこうの隠れ里を見つけ、大物政治家として成り上がってからふたたびその扉のむこうの世界へ行こうとして、工事現場の穴に落ちて死んでしまう男の物語である「壁の中の扉」に見いだすことができる。 

 さらに、このような大きな人間と小さな人間という二面性は、ウェルズが考える人間の本性にもつながる。国際人として活動したウェルズのもう一つの側面、それはセックスの問題である。私生児を生ませたレベッカ・ウェストをはじめとして、彼の華やかな女性遍歴はスキャンダルになるほどであったが、ウェルズはそれを隠そうとはしなかった。それどころか、『アン・ヴェロニカ』(一九○九)を代表とするいくつかの小説で、公然と女性の性解放を扱った。ウェルズにとって、人間が普段の努力によって自分を向上させていこうとする源となる自由意志と、人間に内在的に与えられた絶対的条件である性的衝動との相克は、たえずつきまとう問題だったのである。そのために、自分なりに生涯を総決算したはずの大部の著『自伝の試み』(一九三四)を出してからも、そこにセックスの要素が欠落していることを気にかけて、女性遍歴から見た生涯をその補遺として書き残すことになる。それが、ウェルズの息子G・P・ウェルズが編集した『恋するウェルズ』(一九八西)である。われわれは、こうしたいわば裏の自伝を読んで、そこにただの人間にすぎないウェルズを発見する。つまり、人間とは卑小な存在であると同時に大きな存在にもなりえること、いや卑小であるがゆえに巨大でもあるということが、ウェルズの作品を読み生涯を知るときの、最大の教訓であると言ってよい。その意味で、ウェルズこそは今世紀に生きた最大の「小さな巨人」なのである。

●夢の書物

 一九三○年から二一○五年にかけての近未来を予言した、小説とも歴史書ともつかぬ独特の作品である『来るべきものの姿』には、ウェルズ作品のつねで、妙な外枠がはめられている。それは、「フィリップ・レイヴン博士の夢の書物」と題する、ウェルズが付けた序文である。

 ウェルズは、J・W・ダンの『時間の実験』の書評を書き、それを読んで手紙を送ってきたレイヴン博士と親しくなる。あるとき、ウェルズは「ブラウンローの新聞」と題する短編で、未来の新聞を読むというアイデアを使ったところ、レイブン博士に言わせればそれは自分がいつもやっていることと比べものにならないという。彼はここ数年間、夢の中でいつも同じ一冊の書物を読んでいるという。その夢の書物は、彼の目の前で、ページを繰ることなく展開していくのだ一一。その夢の書物を少しずつ書き写した原稿を、レイブン博士の死後にウェルズが編集したという体裁を取るのが、『来るべきものの姿』の本体である第一の書から第五の書までという趣向になっている。

 ここで、その未来予言の内容については、本稿の関心外にある。わたしが心惹かれるのは、この夢の書物という美しい着想だ。思い出してみれば、「壁の中の扉」でも、主人公のウォーレスは扉のむこうの世界で、自分の生涯がそっくりそのまま目の前に展開するという書物を読んだではないか。一個人の歴史、そして人類の歴史、それを一冊の小さな書物の中にそっくり収めてしまうこと。それがウェルズにとって最大の夢想であった。事実、ウェルズは宇宙の創造から現在に至る歴史を綴った『歴史概観』(一九二○)および『世界小史』(一九二二)といった著作を残している。こうした夢の書物たちの中で、その出来映えはどうであれ、ウェルズにおけるマクロなものとミクロなものは幸せな結婚をしているのである。

 そう考えてみれば、『タイム・マシン』誕生後百年たった今日、まだウェルズの評価が定まっていないのは、なにも嘆かわしいことではないのかもしれない。おそらく、彼の著作はわずか百年という短いタイムスパンの中で測るべきものではないのだ。仮に将来タイム・トラヴェルという趣向がすたれ、タイム・マシンが過去の遺物になったとしても、ウェルズが超未来の読者に読み継がれることは保証してもよい。「『タイム・マシン』、『モロー博士の島』……などは、私が子供の頃読んだ最初の本であり、私が手にする最後の本になるかもしれない。こうした書物は、テーセウスやアハシュエロスの寓話のように、人類の一般的な記憶の中に組み込まれ、その著者の名声やそれが書かれた言語の死滅を超えて生き続けるだろう」と言い切ったボルヘスの言葉は、まさしく至言であると痛感せずにはいられない。

(初出 『is』94年6月号)
upload 98/10/20


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